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孫子研究ブログです。孫子兵法は別名『孫子兵経』、『SUNTZU』、『The Art of WAR』ともよばれています。ナポレオンや毛沢東も愛読していました。注釈者には曹操、杜牧、山鹿素行、荻生徂徠、新井白石、吉田松陰、等の有名人も多いです。とにかく深いです。

孫子 兵法 大研究!トップ⇒本文注釈:孫子 兵法 大研究!
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2013-04-11 (木) | 編集 |


孫子 兵法 大研究!

本文注釈:孫子 兵法 大研究!

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『孫子曰く、凡そ用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之れに次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ。』:本文注釈

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 この文の解釈には2つある。一つは、「Aを全うするを上と為す」のAを「敵国」とし、「戦争においては、敵国の力を保全したまま敵国を降伏させ、自国のものとするのが最上である。」という意味である。もう一つの解釈は、Aを「自国」として解釈し、「戦争においては、自国の力(軍の戦力)を保全することが最も良いことだ。」とすることである。ではここでこの二つの解釈を並べて考えて見ると、「敵国の力を保全したまま敵国を降服させる」のと「自国の力を保全したまま敵に勝つ」のとどちらがより現実的でありえるだろうか、という疑問がでてくる。はっきりいってどちらも非現実的に近い。これだけではどちらの解釈が孫子が考えていた解釈に相応しいかはわからない。では次にこれまで孫子が述べてきたことを振り返ってみたい。孫子は作戦篇で「戦争は長引くほど経済的に不利になる。」と言っている。これは逆を言えば、「戦争は短期に終らせよ、そうすれば自国の力を温存できる。」という意味となる。つまり、自国の力を保全せよ、という意味合いが生まれてくる。また作戦篇で孫子はまた、「敵に勝って自軍の力を増していくには敵の軍需品(解釈の仕方によっては兵士も含まれる)を自軍のものとする」とも言っている。この考え方をみると、孫子は敵国の力を奪う(減少させる)ことを否定してはいない。否定するどころか積極的に肯定している。そして、謀攻篇のこの文の後の方に出てくる言葉で、「故に上兵は謀を伐つ。其の次は交を伐つ。其の次は兵を伐つ。其の下は城を攻む。」とある。つまり、孫子は最上は敵国(敵軍)の陰謀(作戦)を破ることである、と言っている。敵の陰謀を破るだけでは当然戦闘を100%は防ぐことはできないが、敵軍が攻めこむことを諦めてくれる可能性はぐっと高くなることは間違いない。つまり、戦わずして敵の兵を屈する確率が高くなる、と孫子は言っている。また、この謀・交・兵・城は敵国を破るときの順序を挙げたものとも考えられる。つまり、「まず一番目に謀を破れ、謀を破れなかったら次は敵国と敵国の友好国との外交関係をうまくいかないようにせよ、そうすれば敵軍は攻め込むことを諦めるだろう。」というように考えることができる。そして、謀・交を伐つことができなかったらここで初めて「敵軍の兵士を伐て」、と言っているのである。つまり、敵軍の兵士を討つことは最初の選択肢にはない、ということである。この考え方の根底にあるのが、自国(自軍)の力の保全という考え方である。『孫子』本文の「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり。」はこの最たるものである。ここまで考えてみると孫子の言いたいことははっきりわかってくる。よって、「Aを全うするを上と為す」のこの文のAとはすなわち「自国(自軍)」を指すことは明白である。百歩譲って明白とまではいかなくとも(敵国(敵軍)の力を保全するという考え方自体がおかしいと思うが、)、作戦篇や謀攻篇で孫子が語っているように、「自国(自軍)」として解釈した方が、孫子の考えにより近いものであることは疑いようのない事実である。よってこの本文の意味は、「戦争の原則としては、自国の力を傷つけることなくして敵に勝つ(敵の意図を破る)ことが最上であるからこのことをまず一番目に考えよ。敵を力(軍の力を以て)で破ろうとするのは二番目として考えよ。」となるのである。


全-①そろっている。欠けた所がない。②すべて。㋐そのもののすべて。まるごとみんな。ありったけ。㋑同類のものすべて。あらゆる。㋒数あるもののすべて(を通じて)。「選挙の報道で全紙を埋める」「全紙が競って報道する」の「全紙」のように㋐㋑は文脈によって使い分けられる。③まったく。まるで。すっかり。「まっとうする」は「まったくする」の音便。【解字】会意。(=ふた。かこう)+「工」。細工を施した物を囲って完全に保つ意。




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孫子の兵法:孫子曰く、凡そ用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之れに次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ。:孫子曰、凡用兵之法、全國為上、破國次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。:金谷治○金谷孫子:凡-平津本では「夫」とある。
 一 軍は一万二千五百人の部隊、旅は五百人、卒は五百人から百人、伍は百人から五人までの軍隊編成。

孫子の兵法:孫子曰く、凡そ用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之れに次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ。:孫子曰、凡用兵之法、全國為上、破國次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。:浅野裕一○浅野孫子:●軍-古代の周の軍制による編成単位。一軍は一万二千五百人の兵力から成る。
 ●旅-五百人の部隊。
 ●卒-百人の部隊。
 ●伍-五人の部隊。軍の最小編成単位である。

孫子の兵法:孫子曰く、凡そ用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之れに次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ。:孫子曰、凡用兵之法、全國為上、破國次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。:町田三郎○町田孫子:<軍・旅・卒・伍>軍は一万二千五百人、旅は五百人、卒は五百人から百人、伍は百人から五人までという軍隊の編成。

孫子の兵法:孫子曰く、凡そ用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之れに次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ。:孫子曰、凡用兵之法、全國為上、破國次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。:天野鎮雄○天野孫子:○凡用兵之法 「凡」は総括して論ずる時にその意を表わす語。『講義』は「凡」を「夫」に作る。「用兵之法」は戦争・戦闘を行なう場合の法則。
 ○全国為上破国次之 ここでは、国を対象としているが、以下の各句はそれぞれ軍・旅・卒・伍を対象としているから、それぞれ戦争から小部隊の戦闘に至るまで、その規模を異にした場合を取り上げて言う。「国」は自国をさして言う。以下の軍・旅・卒・伍も自国のそれ。「上」は上策(すぐれた方法、すぐれたはかりごと)。「之」は「上」を受ける。以下同じ。「次之」はそれ(上)に次ぐの意であるが、それより下がないから下策であるの意。この句は、国を挙げての戦争において、自国に損傷をもたらすことのないのが上策であり、これに反して国を損傷し破滅させるのは下策であるの意。『合契』は「上策は謀を以て之を争ひ、力を以て之を争はず。力を以て爭へば、勝つと雖も、我も亦必ず死傷の損無き能はず。戦ひ勝ちて国危し。故に勝を制するの法は、己を全うするを上と為し、己を損ずるは之に次ぐ」と。一説に従来多くの註家は「国」を「敵国」として、杜佑は「敵国来り服するを上と為し、兵を以て撃破するを次ぎと為す」と。『諺義』は「国は敵国をさす」と。『国字解』は「国は敵国なり。敵国にきずをつけぬことを全くすと云ふ。敵に勝って敵の将を殺し、敵の士卒を殺すは、其国を破り傷ふなり。…故に敵国にきずを附けずして手に入るるを、極上の計とし、戦を以て打破り傷ひ屠りて取るは、是を下策とするなり」と。また一説に『外伝』は「全とは我を全うするなり。破るとは敵を破るなり」と。また一説に『新釈』「ここの『国』の字は主として敵国の意味であるが、自国の意味も含めて漠然と広く見た方がよいであろう」として「全国為上」について「自国にも何の損傷もなく、敵国をも破壊することなく完全なるままにて我威令の行はれるやうにするのが上策であるといふ意」と。
 ○全軍為上破軍次之 これは一軍を挙げての戦闘すなわち局地の戦闘について言う。周代の徴兵制度については『周礼』地官・小司徒に「五人を伍と為し、五伍を両と為し、四両を卒と為し、五卒を旅と為し、五旅を師と為し、五師を軍と為す」とあり、これについての賈公彦の疏に「五人を伍と為すとは五家を比と為し、家ごとに一人を出せば、是れ一比なり、家に在りては比と為し、軍に在りては伍と為す。
伍とは聚なり。五伍を両と為すとは郷に在りては五比を閭と為すなり、二十五家なり、軍に在りては五伍を両と為す。両は二十五人なり。四両を卒と為すとは郷に在りては四閭を旅と為すなり、旅は百家なり、軍に在りては四両を卒と為す。卒は百人なり。五卒を旅と為すとは、郷に在りては五旅を党と為すなり、党は五百家なり、軍に在りては五卒を旅と為す。旅は五百人なり。五旅を師と為すとは、郷に在りては五党を州と為すなり、州は二千五百家なり、軍に在りても亦五旅を師と為す。師も亦二千五百人なり。五師を軍と為すとは郷に在りては五州を郷と為すなり、郷は万二千五百家なり、軍に在りても五師を軍と為す。軍も亦万二千五百人なり」と。また軍の編制について『周礼』夏官・司馬に「凡そ軍を制するに、万二千五百人を軍と為す。王は六軍、大国は三軍、次国は二軍、小国は一軍なり。軍の将は皆、卿に命ず。二千五百人を師と為し、師の帥は皆中大夫なり。五百人を旅と為し、旅の帥は皆下大夫なり。百人を卒と為し、卒の長は皆上士なり。二十五人を両と為し、両の司馬は皆中士なり。五人を伍と為し、伍に皆長あり」と。すなわち一軍は一万二千五百の軍隊。
 ○全旅為上破旅次之 一旅[五百人の軍隊]を挙げての戦闘について言う。以下、卒(百人の軍隊)・伍(五人の兵)においてはそれぞれさらに小規模の戦闘について言う。

孫子の兵法:孫子曰く、凡そ用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之れに次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ。:孫子曰、凡用兵之法、全國為上、破國次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。:フランシス・ワン仏訳 孫子○フランシス・ワン孫子:註
 一、天下の覇を争う国家にとって、戦争は「勝ちて強を益す」ものでなければならず、勝利は得たが、同時に自国・自軍も重大な損害を蒙るが如き戦争の仕方は、その志を得る所以ではない。従って、孫子は、「百戦百勝は善の善なるものに非ず」とし、攻勢戦略の理想は「戦わずして人の兵を屈し」、無傷で敵国を手に入れる一方、自らは「必ず全きを以て天下を争う」にあり、と言うのである。曹操は「師を興さば、深入長駆、その城郭に距(いた)り、その内外を絶ち、敵、国を挙げて来り服するを上と為す。兵を以て撃破し、敗りて之を得るはその次なり」と註する。謀攻と言っても、無論、兵は用うるのである。
 一、周知の如く、孫子と同時代の人老子は次の如く述べている。「兵は不祥の器なり。…、已むを得ずして之を用うれば恬淡(註-拙速と同じ意)を上と為す。勝ちて美とせず。而るを之を美とする者は、是れ人を殺すことを楽しむ者なり(註-敵を殺す者は怒なりと同じ意)。人を殺すことを楽しむ者は、以て志を天下に得べからず」と。孟子をはじめとし彼とその思想と立場を異にした諸家も、こと軍事に関しては、言う所は同じである。諸国が互いに相争い、連年攻伐に明け暮れる春秋戦国の世の渦中にあって、塗炭の苦しみに喘ぐ人民を見るとき、彼らの多くは、期せずして覇者による天下の再統一を以て理想とし悲願とするに至っている。而して、これに伴い、軍事に対する認識も変化し、従来の戦争を以て単に相手国を打倒・覆滅して自己の勢力の拡張を図るための手段・方略とする考えから、新たに、天下の一統を促進するための方略とする思想が生じてきたわけである。
 一、これを軍事的合理性から把握したのが孫子であり、彼は従来の思想を否定し、戦争の理想は敵国・敵軍を保全して我が有とする所にありとするとともに、戦争の道はいわゆる「安国全軍」(火攻篇)によって天下に臨むにありとする思想を展開している。賈林は「全くしてその国を得、我国もまた全うするを乃ち上と為す」と註する。この思想を単なる空理・空論と笑う者は、歴史を知らざる者である。孫子の説く所は、実際に時代を領導する思想・精神となり、その力を発揮するに至っている。
 一、我々はこのことを、長文であるが『孫子の新研究』(昭和五年・阿多俊介)に見てみよう。即ち曰く、「支那の戦国時代、秦は遂に六国を併呑して天下を統一したが、之を成就するに当って一々戦争を用いたかと言うに、大部分は外交手段によって得たものであり、実際の所、戦争は十中の二三の場合に止めたことは、史家の殆どが定論とする所である。例えば、之を論じたものに蘇洵(有名な蘇東坡[蘇軾(蘇東坡)は北宋代最高の詩人とされ、その詩は『蘇東坡全集』に纏められている。書家としても著名で、米芾・黄庭堅・蔡襄とともに宋の四大家と称される。蘇軾ははじめ二王(王羲之と王献之)を学び、後に顔真卿・楊凝式・李邕を学んだ。代表作に、「赤壁賦」(せきへきのふ)・『黄州寒食詩巻』などがある。]の父)の『六国論』がある。その中で、彼は言う、『秦は攻取の外を以て、小なるは則ち邑(ゆう)を獲(え)、大なるは則ち城を得たり。秦の得たる所を戦勝して得たる者と較(かく)するに、その実百倍す。諸侯の亡(うしな)う所、戦敗して失う者と、その実また百倍す』と。つまり、秦は、攻守の外即ち戦争以外の手段を以て諸侯の城邑を割取したものが、その戦勝に依って得たものより実際は百倍も多い。一方、諸侯の失った土地も、戦争に敗れて割取されたものよりも、戦争以外の手段にて割取されたものの方が、同じく百倍も多い、と言う訳である。要するに、秦は六国を統一するに当り、なるべく戦わずして人の国を併呑するの機微を得ていたのである。なお、この関係は我国の戦国時代を見ても同様の趣きがある。例えば武田・上杉・織田の諸豪の如き、当時皆天下に志を懐(いだ)く者ばかりであったが、その戦略は、何れかと言えば皆徹底的に敵国を討滅する方針を取り、外交手段などを考慮することが少なかったことは、之もまた史論の殆ど一致する所である。然るに、豊臣氏に至っては大いに方略を異にし、大局に差支えなき限りは務めて敵国をも保全し、旧領に安堵せしめて、速やかに統一の業を大成するに邁進した。故に、例えば徳川氏を初め、毛利・伊達・島津の諸家に対しても、織田氏ならば到底忍ぶ能わざる所ならんと思わるる所を、平気にて寛容しつつ行ったあたりは、余程特色のあった所である。徳川氏に至っても、また殆ど同一の方針に出で、いわゆる外様大名の中で相当に旧怨ある者に対してもでき得る限りその封土を保証し、秀吉がなしとげた天下制覇の結果を損うことなく継承するに成功している。而して、前の三氏が何れも志を果たさず、後の二氏が何れも覇業を大成したる所以のものは、一は固より時運の力にありとは言え、また一つにはその機略の大小も与(あずか)って大いに力があったと言うべきであろう。本項に即して言えば、国を全うしてなるべく之を破らざることを方針とした者が、結局、労少なく功多くして最後に勝利をかちえた訳となる。なおまた、之については呉子の図国篇中にも同様の意味の記事がある。曰く、『天下の戦国、五たび勝つ者は禍あり、四たび勝つ者は弊(つか)る、三たび勝つ者は覇たり、二たび勝つ者は王たり、一たび勝つ者は帝たり。是を以て、数々(しばしば)勝ちて天下を得る者は稀に、以て亡ぶる者は衆(多)し』と。つまり、次の如く言うのである。古来のいかなる強国でも、五たび四たびと頻繁に戦争をやったのでは、勝つには勝っても、急に国家は戦禍に堪えずして、甚しきは内部より禍難を発し、少なくとも国力疲弊して自ら戦勝の悲哀を痛感せざるをえざるに至る。然しながら、戦争も三度くらいにて済まし得れば、以て覇を成すべく、二度くらいにて切り上げえた者は王業を成し、もし一度にて全勝を得るに至れば帝業を成すに足る。故に、古来、数々勝って天下を得た者は少なく、却って、亡国に至った者は多い、と。以上に依って、本項の趣旨は明白であろう。即ち、大なるは国家を、小なるは一伍一卒の勢力を相手とする場合に於ても、一々之を破り之を殺していわゆる完全なる征服を遂げんとするが如きは、未だ兵法の堂奥に入らざる者である。否、最上の戦略は、やはり人の国を保全し、また人の兵を生かして、而も能く之を我が有と為すにありとするものである。まさに反覆熟読して深くその意味を味わうべきである」と。前述の如く、以上は昭和初期の言であるが、その後我国が辿った運命と我々がとって政戦略・戦争指導との関係を思えば、時勢の然らしむる所が大とは言え、我々としては、我々が孫子の言を反覆熟読してその意味を深く味わう者ではなかったことを、真に遺憾とせざるをえない。しかし、それにつけても考えざるをえないのは、この種の警世の言に対する我々の態度であり、いつも、これを徒らに荒野に叫ぶ声としてしまう風潮であろう。
 一、なお、以上と関連して、時代を領導する精神・思想の変化と軍事思想の変化の関係、また、之に伴う戦争の性格と形態の変化の関係について述べておこう。この問題に関して、クラウゼヴィッツは、予見してではないが、理論的には将来起り得ることとして、次の如く述べている。「ナポレオンこのかた、戦争は、まずフランスの側に於て、次でフランスに対抗する同盟軍の側で、再び国民の本分となり、これまでとは全く異なる性格を帯びるに至った。-と言うよりは、むしろ戦争の本性即ち戦争の絶対的形態に著しく近づいた、と言った方が一層適切である。戦争のために講じられる諸般の手段は、もはや明確な限界をもたない。そのような限界は、政府及び国民のすさまじい遂行力と烈しい狂熱とのうちに消滅したのである。戦争の遂行力は、厖大な手段・凡そ可能な限りの成果を与え得る広大な戦場・人心の激しい昂奮等によって異常に高められ、軍事行動の目標は敵の完全な打倒であった。また、交戦両国は、何れも相手を打倒して再び起つ能わざるに至らしめた上で、初めて戦争行為を中止し、講和によって双方の目的の折り合いをつけることを考えるようになったのである。こうして、戦争の本分は一切の因襲的な制限をかなぐり捨て、戦争に本来の激烈なる力を仮借なく発揮するようになった。その原因は、諸国民が、何れも戦争という国家の大事に関与したことにある」と。第一次・第二次大戦が、この思想をさらに徹底することによって戦われたものであることは、今さら説明を要すまい。従って、現在、多くの政府(我国も含む)と人々が、次期戦争の性格と形態を、この延長線上に於て予想するのは当然であり、また核兵器の如き絶対型兵器の出現と之に伴う一連の軍事技術の発達は、この予想に拍車をかけるものとなっている。しかし、クラウゼヴィッツ自身は、このような単純な予想に対して、次の如き懐疑の念を投げかけているのである。「ところで、このような状態がいつまでも続くものかどうか。ヨーロッパに於ける将来の戦争は、すべて国民の総力を挙げて、従ってまた、国民に直結する重大な利害関係のためだけに発生するのかどうか。それとも、やがては政府と国民との疎隔が再び現れるのかどうか。(中略)、戦争がその絶対的型態に達したのは、つい近頃のことである。(中略)、しかし、将来の戦争もすべてかかる雄大な性格を帯びるだろうという推測は確実性をもたない。それは、これまで戦争を閉じこめていた囲いが一旦は広く開かれたが、しかし、やがてまた閉じられるだろうという推測に確実な根拠がないのと同様である。もし戦争理論が、かかる絶対的戦争だけを取りあげると、戦争そのものには無縁な影響が戦争の本性を変化させるような場合は、すべて排除されるか、さもなければ笑うべき誤謬として顧みられないであろう」と。つまり、彼は、将来の戦争を単純に過去の延長線上に予測することを戒め、また、絶対的戦争だけを唯一の戦争と考えることは、笑うべき誤謬を冒すことになるであろう、と言うのであり、「戦争理論は、観念的関係に於てではなく現実的関係に於て研究することを目的とするものでなければならない」と述べている。これは、まさに戦争を現実的関係に於て研究するのではなく、観念的関係に於て論ずる誤りを指摘するものとなる。この問題に関して、彼は次の如くにも言う。「いかなる時代もその時代に独特の戦争を行い、戦争に制限を加える独自の条件を具備し、また独自の拘束を被る。従ってまた、現代に於ける「独特の戦争」・「戦争に制限を加える独自の条件・独自の拘束」を現実的関係に於て研究し、「現代に独自の戦争理論」をもつ必要があるわけである。
一、今や時代の性格は一変し、クラウゼヴィッツのいわゆる「戦争を国家の事業として、国民が情熱を傾けて遂行する(帝国主義的戦争の)時代」は去り、「政府と国民との阻隔が再び現れる時代」となり、我々は「戦争そのものとは無縁な影響が戦争の本性を変化させる時代」を迎えるに至っているのである。時代の性格の変化に伴う戦争の性格の変化は、第二次大戦以降の戦争、特に最近の地域的戦争(紛争)を見れば明らかであろう。然るに、現代の基本的性格を、依然として世界の支配権を争う米・ソの帝国主義的闘争の時代と考え、戦争と言えば両者の衝突による絶対型戦争とだけ想定して安全保障問題を論ずるが如きは、嗤うべき誤謬であり、無責任でなければ知的怠慢である。我々は、次のことを知らねばならないのである。即ち、第二次大戦後世界を二分し、夫々に覇者としてその支配権を擅(ほしい)ままにした米・ソ両国の急速な時代史的衰退は、第三次世界大戦の危険(可能性)を消滅させたが、それは同時に、その支配の構造であるヤルタ体制の崩壊を伴い、何とかしてこの頽勢を挽回せんとする彼らの反動的政略は-たとえば、我々は、米・ソが従来の対立を解消し、日本を対象として、或る日突然、独・ソ不可侵条約ならぬ米・ソ不可侵条約の如きものを締結しても驚くわけにはいかなくなっているのである-日・独の復活興隆はもとより、アジア・ニーズの抬頭、ECの統合への動き等と相俟って、世界状勢に新たな性格の不安と動揺をもたらし、各地域に、代理戦争とは異なる自己自身の直接の利害に基づく紛争(地域的動乱)を生ぜしむるに至っていることである。而して、これが、クラウゼヴィッツのいわゆる「その時代に特有の戦争」である。なかでも我国にとっての問題は、米国の圧迫から解放されたソ連が、太平洋時代に対処すべく-解体するソ連の中の極東シベリアが、オーストラリア・ニュージーランド或いはカナダの如く、太平洋国家として残るべく独立を図る場合も考慮すべきである。彼らの中に既にその声はある-その極東に過剰集中した兵力を用いて、日本の一部(北海道)を全きままに手に入れんとして「謀攻」の策に出ることである。ソ連が、このために協力する国を見すことは、たとえば北鮮・韓国の如く頗る客易であり、また、我国に、そもそもこの種の侵略に抵抗する意志も能力も軍事的体制もないことは、彼らのよく知る所である。強国の、このような状勢の変化を利用して相手を泣き寝入りさせる謀攻(攻勢戦略)を、孫子は、九地篇で次の如く説明している。即ち、「夫れ覇王の兵、大国を伐たば、則ち其の衆を聚(あつむ)るを得ず。威、敵に加わりて則ち其の交りを合わすを得ず。是の故に、天下の交りを争わず、天下の権を争わずして己の私(わたくし)を信(の)べ、威、海内に加わる」と言い、「是の故に、諸侯の謀を知らざる者は、預め交る能わず」と。「諸侯の謀を知る」、つまり状勢を現実的関係に於て観るのではなく、「世界は緊張緩和の時代に入った」などという観念的なスローガンによって捉え、何かといえば「バスに乗り遅れるな」式の思考に走りがちな我々にとって、これが警告でなくて何であろう。また、我々は、米・ソの支配力の崩壊は、大陸や朝鮮半島上に動乱が生じた場合、北海道はもとより西日本地区にも、武装兵力を中心とした難民が強行移住を図る公算を高めていることも知らねばならないのである。以上のことを考えただけでも、我々には、従来の単なる米軍依存の軍事思想・安全保障体制とは異なるものが必要となっていることは明らかであろう。「その時代に特有の戦争」に対処する戦争理論と軍事思想・軍事力と軍事体制・国家戦略を有せず、ただ諸国の勢力のバランスの上に平和を求めることは、木によって魚を求むるに等しいのである。なぜなら、それは、自らそのバランスを破る者となるからである。それにしても、我々は次のことを考うべきであろう。それは、国家と民族の長い歴史的生活に於て、我れ独り善しとする永遠の平和・安定などあろうはずもなく、将来も必ずや幾度か危難の時は訪れるのが当然であり、その克服の根本は、かかって我々のその時に応ずる自律自助の努力にあることである。脱線するが、次のことに言及したい。それは、毎年八月十五日が近づくと、我国では、マスコミの殆どが狂気の如くなり、戦争の悲惨を伝えねばならぬとしてキャンペーンを展開することに関してである。大東亜戦争が我国の命運を打開することに失敗し、我々が依然として敗戦の底に沈淪(ちんりん)しているのならばともかく、空前の繁栄を享受している現在、それは間違っているのではないか。伝えねばならぬのは、難局に際して国民が一致して努力し軍隊と国民が苦戦に耐えた姿ではなかろうか。この世の悲惨さを伝えたいのであれば、むしろ現在の世相の方が、より適切な材料を豊富に提供しているはずである。たとえば、交通戦争一つをとってみても、そのもたらしている死傷者と家庭の破壊数は、十年足らずで大東亜戦争を上回るものになっている。それに、それほどに戦争の悲惨を痛むのであれば、彼らは、実際の戦争犠牲者に対して冷たいのは誰であるかを反省すべきである。何が善であり何が悪であるか、禍福はあざなえる縄の如しと。人智を越えた神明の図らいを侮り、犠牲者に対する感謝と哀悼の念を忘れて、いつまでも自虐史観に淫するならば、現在の繁栄も却って次の破滅を準備するものとなるであろう。

孫子の兵法:孫子曰く、凡そ用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之れに次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ。:孫子曰、凡用兵之法、全國為上、破國次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。:守屋洋○守屋孫子:※軍、旅、卒、伍 中国古代における軍編成の単位。一説によると、軍は一万二五〇〇人、旅は五〇〇人、卒は一〇〇人、伍は五人をもって編成された。 戦争のしかたというのは、敵国を傷めつけないで降服させるのが上策である。撃破して降服させるのは次善の策にすぎない。また、敵の軍団にしても、傷めつけないで降服させるのが上策であって、撃破して降服させるのは次善の策だ。大隊、中隊、小隊についても、同様である。

孫子の兵法:孫子曰く、凡そ用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之れに次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ。:孫子曰、凡用兵之法、全國為上、破國次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。:重沢俊郎○重沢孫子:一般に用兵の原則は、敵国をそのまま無傷の状態で降服させるのが最上、力づくで敵国を破って降すのがこれに次ぐ。軍(一万五千人規模)を無傷のままで降すのが最上、力づくで軍を破って降すのがこれに次ぐ。同じように、五百人規模の旅、百人規模の卒から最低五人規模の伍についても、無傷のままで降すのが上、武力を用いるのが次善である。

孫子の兵法:孫子曰く、凡そ用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之れに次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ。:孫子曰、凡用兵之法、全國為上、破國次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。:田所義行○田所孫子:○全国為上とは、敵の国にも味方の国にも、少しも損害を与えることなく、戦争に勝つのが上策であるとの意。
 ○破国次之とは、敵国も味方も相当損害を被り、敵国に勝つのは下策であるとの意。
 ○軍・旅・卒・伍とは、部隊編成の単位で、師団・旅団・小隊・班等というがごときである。

孫子の兵法:孫子曰く、凡そ用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之れに次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ。:孫子曰、凡用兵之法、全國為上、破國次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。:大橋武夫○大橋孫子:軍、旅、卒、伍-軍隊編成の単位。一軍は五師、一師は五旅、一旅は五卒、一卒は四両、一両は五伍、一伍は五人、一軍は一万二千五百人

孫子の兵法:孫子曰く、凡そ用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之れに次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ。:孫子曰、凡用兵之法、全國為上、破國次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。:武岡淳彦:新釈孫子○武岡孫子:軍、旅、卒、伍-本稿に軍、旅、卒、伍の四の編制部隊の名が出ているが、当時の編制部隊には軍と旅の間に”師”が、卒と伍の間には”両”があった。作戦篇の解説で述べたように、一伍は五人、一両は五伍で二十五人、一卒(一乗ともいう)は四両で一〇〇人、一旅は五卒で五〇〇人、一師は五旅で二五〇〇人、一軍は五師で一二五〇〇人であった。このような編制を取るに至ったのは次の理由からだ。世の中の仕事はたいてい二人以上の人間の協働で行なう。つまり組織で仕事をするのである。組織で仕事をする場合、その組織は当然仕事の目的、内容に沿ったものであることが必要だ。一方組織を構成するものはヒト、モノ、カネであるが、モノ、カネを動かすものはヒトである。また組織を管理し動かすのもヒトである。つまり組織は人によって成り立ち、人によって動かすものなのである。ところが、このヒトの能力には限界がある。一日に仕事をこなす量も、あるいは管理者として管理できる人の数もだ。となれば組織の規模も自(おのずか)ら限定されてくる。前述の中国古代の軍隊編制では五人を基本とした。伍という部隊がこれである。かっての日本陸軍では最下級の下士官(兵曹)を伍長と呼んだが、もともとは五人の隊を指揮する長という意味である。この五人という人数を最下級の部隊としたのは、一人の人間が直接指揮する人数として適しているからだ。つまり伍長は部下が四人である場合に、最もよく組織力(戦闘力)を発揮したのである。

孫子の兵法:孫子曰く、凡そ用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之れに次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ。:孫子曰、凡用兵之法、全國為上、破國次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。:佐野寿龍○佐野孫子:【語釈】◎凡用兵之法 「凡」は総括して論ずる時にその意を表す語。「用兵之法」は戦争・戦闘を行う場合の法則。
 ◎「全国為上、破国次之」~「全伍為上、破伍次之」 「国」は主として敵国の意味であるが、自国の意味も含めて漠然と広く見る、と解する。「上」とは上策の意。周代の兵制にみる軍隊編成は、一万二千五百人を軍、二千五百人を師、五百人を旅、百人を卒、二十五人を両、五人を伍、とする。ここでは、国・軍・旅・卒・伍を対象としているから、それぞれ国家間の戦争から、一軍を挙げての局地の戦い、更に小部隊の戦闘に至るまで、その規模を異にした場合を取り上げて言う。

○著者不明孫子:【全國為上】 相手の国を無傷でそっくりそのまま取るのが最上である。そのためには、戦争をせずに相手を降服させることが必要で、それがいちばんよい、という考えかたである。戦争をすれば、多少とも相手の国に損害を与えるので(当然、こちらの国にとっても損害が生ずる)、「国を全うする」ことにならない。「国」は春秋・戦国時代の諸侯の国。「…を上と為す」とは「…が上である」との意。
 【破國次之】 戦争をして相手の国を攻め破る(戦争に勝って敵国を奪い取る)のはその次である。「次之」とは「二番め」であることを意味するが、二番めに「よい」というのではなく、「全国」よりも「劣る」ほうに重点がある。ただし、もちろん戦争をして敗れるのと比べれば「破国」のほうがましなので、その意味で「之に次ぐ」のである。
 【軍・旅・卒・伍】 『周礼』地官小司徒に「五人を伍と為し、五伍を両と為し、四両(百人)を卒と為し、五卒(五百人)を旅と為し、五旅を師と為し、五師(一万二千五百人)を軍と為す」とあり、これが周代の制度であったとされる。一国全体から一軍、軍から旅・卒・伍と、規模がしだいに小さくなっている。

孫子の兵法:孫子曰く、凡そ用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之れに次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ。:孫子曰、凡用兵之法、全國為上、破國次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。:山鹿素行:孫子諺義○孫子諺義:『孫子曰はく、夫れ兵を用ふるの法、國を全うするを上と為し、國を破るは之れに次ぐ、軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ、旅を全うするを上と為し、旅を破るは之れに次ぐ、卒を全うするを上と為し、卒を破るは之れに次ぐ、伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ』
 此の一段、兵法は城を攻め堅を撃つを好まず、専ら謀を好んで、全く彼れを屈するにありと云ふの趣意を下に含みて言出せる言也。云ふ心は、兵を用ふるの法は全うするを上とす。破りて勝つは其の次也。全うすとは人をそこなはず、土地をあらさず、彼れ自ら屈服して、千戈自ら止み、其の民箪食壺漿(たんしこしやう)(孟子梁恵王篇第十一章に出づ、飯を食器に入れ、飲料を瓶に入れて歡迎するを云ふ)して以て吾が師を迎へざる也。是れを全と云ふ。破るは人民土地をそこなひいたましむること也。國は敵國をさす。一萬二千五百人を一軍と云ひ、五百人を旅と云ひ、百人を卒と云ひ、伍人を伍と云ふ。敵國を全く歸服せしむるは上也。國土を破り田畠をあらして勝つは其の次也。軍旅卒伍亦然り。大は國也軍也、中は旅也卒也、小は伍也。大より小に至るまで全うして勝つは上兵と云ふべし。そこなひやぶつて勝つは其の次也。軍旅卒伍皆敵の兵士にかかる。敵の兵士すら此の如し、況や我が國をついやし我が軍卒を多くそこなふことは之れを言ふに足らざる也。而して國の全と破とは主にかかり、軍の全と破とは將にかかり、旅卒伍の全と破とは官長にかかるべし。大より小まで此の如く心得べし。而して全の道は謀を好んで其の行をなすにあるべき也。勇力をたのみ衆勢をたのみて戦ふものは、勝つといへども全にあらざる也。軍旅卒伍の制は周の法也。周公軍民の制を定むる所の名なり。孫子が時分戦國なりといへども、周の天子未だ亡びず、故に天下皆周の遺制を守りて、其の軍制亦之れに從ふ。伍人を伍と為し、五伍を兩と為し、四兩を卒と為し、五卒を旅と為し、五旅を師と為し、五師を軍と為す也。後世天下姓を易ふるに至りて、代々に軍制こと(異)也。戦國にも齊の法は一萬を以て軍とする也。愚案ずるに、全の字は謀の上に在り、破の字は戦の上に在る也。(武徳)全書に云はく、凡そ全と言ふは、謀を以て勝を致し、彼此俱に全きを得るなり、破と曰へば則兵を用ふる者也と。大全に云はく、國を全うするの二字は、是れ兵刄に血ぬらざるの意と雖も、但だ兵を用ひて敵人をして心を傾け国を擧げて來服せしむるは、是れ最難事、上兵と為す所以也。上と為すの二字、最も力量有り論頭有り、忽略[こつ‐りゃく【忽略】ゆるがせ。おろそか。]看過す可からず。

孫子の兵法:孫子曰く、凡そ用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之れに次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ。:孫子曰、凡用兵之法、全國為上、破國次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。:荻生徂徠:孫子国字解○孫子国字解:『孫子曰、夫れ兵を用るの法、國を全くするを上と為、國を破るは之に次、軍を全くするを上と為、軍を破るは之に次、旅を全するを上と為、旅を破るは之に次、卒を全するを上と為、卒を破るは之に次、伍を全するを上と為、伍を破るは之に次、是の故に百たび戦て百たび勝つは善の善なる者に非也、戦ずして人の兵を屈するは善の善なる者なり。』
 夫は發語の辭なり。用兵之法とは、軍をする道と云ことなり。全國とは、國は敵國なり。敵國にきずをつけぬことを全くすと云、戦に勝て敵の將を殺し、敵の士卒を殺すに、其國を破り傷ふなり。其國を破り傷ふて手に入るる時は、たとひ力足らずして我に從ひたりとも、其國の君臣より民までも、親子兄弟一族を殺されたる怨み殘り、或は生擒にもなりては、恥辱を蒙りたる怨憤やむことなし。或は其國の將にも卒にも、才徳すぐれて、吾が用に立つべきものあるべきを、殺して吾が用に立てぬは、大きなる損なり。又戦に負けて、其國の民貧困せば、其國を取得ても、大きなる損なり。故に敵國にきずを付けずして手に入るるを、極上の計とし、戦を以て打ち破り、傷ひ屠りて取るは、是を下策とするなり。故に全國為上、破國次之と云なり。次之と云は、上策に非ずと云意なり。つぐと云たればとて、第二番と云ことには非ず。下策と云意に見るべし。下の段に、其の次々とあるは、上と其次と、又其次と、下と、四段に説たるものゆへ、第二第三のこころなり。此段とは文勢違ふなりと知るべし。軍旅卒伍の次第は、一萬二千五百人を軍と云、五百人を旅と云、百人を卒と云、五人を伍と云。是は周の世の法に、備の組みやう、五人組より起り、五人を一伍とし、其かしらを伍長と云、五伍を兩と云、其頭らを司馬とす。是までは皆歩立なるゆゑ、五の數を以て組みたてたり。四兩を卒とす。其頭らを卒長とす。是を車一乗とし、車の前後左右に備るゆへ、二十五人つつ四組なり。是より上、又五を以て組て、五卒を旅とし、五旅を師とし、五師を軍とす。諸侯の位に公侯伯子男の五段ありて、公侯の二つを大國とし、伯を中國とし、子男を小國の諸侯とす。大國は三軍とて、軍役三萬七千五百人、中國は二軍とて、軍役二萬五千人、小國は一軍とて、萬二千五百人、天子は六軍にて、七萬五千人なり。尤大國を千乗の國と云時は、一乗に百人にて、千乗なれば十萬人なるべけれども、更代して務るゆへ、右の通りなり。此本文もこの次第を以て、國と、軍と、旅と、卒と、伍とを擧て云へり。本文のこころ、敵の一伍を打破て戦勝つは、一伍五人を一人も殺さず、全く手に入るるに劣れり。一卒百人の備を打破て戦勝つは、百人ながら全く手に入るるには劣る。五百人の備を打破て戦ひかつは、五百人ながら全く手に入るるには劣る。一軍萬二千五百人を打破て戦勝つは、萬二千五百人を、きずも付けず我ものにするには劣る。其國を攻破り戦勝つは、十萬人をきずも付けず、我ものにするには劣ると云ことを、かくの如く云へり。是故とは、右の如く敵と戦はず、一伍にても、一卒にても、一旅にても、一軍にても、一國にても、きずも付けず丸なから我ものとすれば、一伍を手に入るる時は、一伍の強みなり。一卒を手に入るる時は、百人の得なり。一旅を手に入るる時は、五百人の得なり。一軍を手に入るる時は、萬二千五百人の得なり。一國を手に入るる時は、一國の得なり。かくの如くなる道理ゆへに百度合戦して百度ながら勝利を得るを、愚なる人は、是を至極と思ふべけれども、既に合戦に及ぶ時は、味方も人數を失ひて、糧車馬兵具の費多く、攻取たる國も打破られ、戦負けぬれば、戦はざる前の如くの満足なる國に非ず。故に百度戦て、百度ながら勝利を得るをば至極とせず、合戦をせずして敵を屈服させ、我に從はするを至極とすと云意なり。善之善者とは、よきの至極と云ことなるゆへ、非善之善者とは、至極よしとはせられぬと云意なり。誠に神武而殺さずと易にもとけり。むかし舜帝の御代に、三苗國謀反せし時、禹王討手に赴き玉ふに、三苗國要害の地にして、輙く攻入て伐つべき様なかりしかば、禹王歸陣して文徳を修め玉へば、三苗やがて降参す。又文王崇の國を征伐し玉ふに、人數をむけ玉へば、合戦に及ばず降参す。かくの如き類は、聖人の妙用なれば、言語に及ばず。劉備成都へ攻入り玉へば、劉璋降参し、唐の李愬蔡州を落し、宋の曹彬南唐國を退治し、元の伯顔南宋を滅したるは、何れも敵一人をも誅せず、あきなひする民も肆(いちく)らを動かさざるなり。是孫子が所謂國全と云ものなり。尤其内に、或は徳を以て敵を從へ、或は威を以て服せしめ、或は計を以て降参せしむる。其品は殊なれども、白起が趙の國の降人四十萬人を坑にし、項羽が秦の降人二十萬人を殺し、終には滅亡せしとは、雲泥のちがひなり。孫子が敎、誠に軍の深意に達すと云つべし。又劉氏が直解に戦わずして人の兵を屈すに就て、品品を擧たり。昔三國の時、魏の曹操邯鄲城を攻破りたるに、邯鄲の枝城の易陽と云處の守護、韓範と云もの、籠城して從はず。曹操の方より徐晃と云將に命じて是を攻しむ。徐晃矢文を城中へ射て、僅の城を以て籠城して、勝利を得べきに非ずと云こと、詳に申遣す。韓範其後後悔して即時に降参す。是敵料簡違て我に敵對するゆゑ、利害を明かに述べて、合戦に及ばず人の兵を屈するなり。又隋の煬帝の時、柴保昌と云もの、絳郡と云處にて、八萬の人數を以て一揆を起しければ、煬帝より樊子蓋と云大将を遣はして、是を平けしむ。敵方より降参するものあれば、子蓋悉く是を執へて誅戮[ちゅう‐りく【誅戮】罪をただして殺すこと。罪あるものを殺すこと。]す。是によりて後は降参する者なくして、賊徒の勢盛んになり、數年勝利なかりければ、唐の高祖、この時はいまだ人臣にてましまし、名を李淵と云しを、樊子蓋が代りに、煬帝より討手に遣はされける。李淵は降参する敵を側近く召仕ひ、少も隔心の體なかりけり。賊徒元来姦謀あるに非す、煬帝の法度厳しかりけるゆへ、刑を畏れて一揆を起しけるを、煬帝我か政道のあしきをは顧みず、討手をむけらるるのみならず、樊子蓋又降参する者を殺しけるゆへ、事大總になりけるが、李淵の恩信に感じて、數萬の賊徒悉く安堵して皆降参し、殘る輩は他國へ逃げゆき、事ゆへなく絳郡平均せり。是恩信を以て人の兵を屈するなり。又唐の大の中比、徳宗の時に當りて、朱泚(しゅせい)、朱滔(しゅとう)、王武俊と云へる三人の大名、一味して謀叛し、天子蒙塵[もう‐じん【蒙塵】‥ヂン (宮殿の外で塵をかぶる意から)天子が変事に際し難を避けて逃れること。]し玉へば、朱泚天子の位に即く。李抱眞と云大将、賈林と云辯舌の士を王武俊がもとへ遣し、君恩を忘れて賊徒にくみし、義理に背きたると云ことを、念比に述しめ、逆心を翻し、朱泚朱滔を退治し、大功を立んことを勸む。王武俊尤と同じけれども、猶豫の體に見えければ、李抱眞わづか四五騎供に連れ、王武俊が陣所へゆき、朱泚帝位につきたればとて、今日比頃まで肩をならべし者を、主君と仰ぐべきに非ず、天子蒙塵ましまして、御政道宜しからざるゆへ、世中亂れたるとて、御後悔の勅詔[ちょく‐しょう【勅詔】‥セウ 勅と詔。みことのり。]など諸國になし下されて、古禹王湯王の自身の罪を數へ玉へる。聖人の行を學び玉へること、あり難きことなりとて、涕を流し異見しければ、武俊も共に涕を流しける。李抱眞やがて草臥[くたびれ【草臥】 くたびれること。疲れ。くたぶれ。]たりとて、武俊が陣中に休息し、氣遣ふ體なく臥ければ、武俊是に感じて兄弟の約束をし、明日同じく人數を進め、まづ朱滔を攻破る。是道理を取違へたる者をば、君臣の大義を述べて、其兵を屈するためしなり。又漢の景帝の時、呉王楚王など七箇國の諸侯王、一味して謀叛を起し長安の都へ攻上る。梁王は天子の連枝なれば、謀叛に一味せず、しかも長安と七國の間にあれば、七國まづ梁の國を攻む。周亜夫と云将軍、天子の勅を承りて七國を追討に赴きけるが、呉國楚國の軍兵は手はしかきことを得たれば、放戦を以て勝利を得がたしとて、周亜夫、梁の國の東北の昌邑と云處に、陣城を取て引籠り、敵方より戦を挑めども、一圓に取合はず、遊軍を遣はして呉楚兩國の粮の道を斷ちければ、呉楚の軍兵戦ふこともならず、又周亜夫が陣城を越て、長安の方へ進むこともならず、兵粮乏くなりければ、對陣をすることも叶はず、おのづから引退きけり。是壁を堅くして人の兵を屈する計略なり。又三國の時、母丘儉と云もの謀叛しければ、司馬仲達、五萬の人數を三つに分け、一軍をば壽春城に籠め、一軍をば南頓城に籠め、一軍をば譙宋と云處へ遣はし、母丘儉が粮の道を斷しむ。壽春南頓何れも険阻の地なれば、母丘儉進んで鬪んとすれども叶はず、引んとすれども叶はず、留らんとすれば兵粮に乏し。遂に人數を棄て落行ける。是険阻を守て人の兵を屈するなり。又班超西域に於て、羗の夷を平げるるに、夷は愚蒙[ぐ‐もう【愚蒙】おろか。愚昧。]にして道理にも通せず、欲心深きものなり。又所の案内は知らす。これを平ぐること難かりければ、金銀財寶を以てこれを募り、なかまとなかまをけし合せて是を平げたり。是此方は戦はず、夷狄[い‐てき【夷狄】野蛮な異民族。えびす。えみし。]を以て夷狄を攻めしめて、其兵を屈するなり。又後漢の光武の時、張歩、蘇茂と云し強盗ありて、是を誅罰すること難かりければ、盗賊のなかまなりとも、打取て降参せば諸侯の位に封ずべしとありしかば、張歩是を聞て蘇茂を討て降参す。是又盗賊を以て盗賊を攻めさせて、戦に及はず其兵を屈する計略なり。總じてこのやうなる類、尚いくつもあるべし。

孫子の兵法:孫子曰く、凡そ用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之れに次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ。:孫子曰、凡用兵之法、全國為上、破國次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。:吉田松陰:孫子評註○孫子評註:『孫子曰く、凡そ兵を用ふるの法は、國(敵国をきずつけずに降服させるのが最上の策であり、戦争によって打ち破り屈服させるのは次善の策である。この文の国・軍(中国の周代の軍制で一軍は一万二千五百人)・旅(一族は兵士五百人)・卒(一卒は兵士百人)・伍(軍団の最小単位で五人一組)は敵国についていったもの。)を全うするを上と為し、國を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之れに次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ。』
 之れを全うするは、固より已に上と為す。之れを破るも亦以て次と為すべし。國軍卒伍皆然らざるはなし。蓋し善く之れを破る、故に善く之れを全うす。是れ術なり。豊公(豊臣秀吉)曾(かつ)て之れを人に敎へたり。是れ何を以て之れを全破(或いは全くし或いは破ること。)するか、妙は不言に在り、以て下段の餘地を留む。

孫子十家註:『孫子曰く、凡そ兵を用ふるの法、國を全くするを上と為し、國を破るは之に次ぐ。』 

孫子の兵法:孫子曰く、凡そ用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之れに次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ。:孫子曰、凡用兵之法、全國為上、破國次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。:曹操孟徳:魏武帝註孫子:孫子十家註○曹公:師を興さば、深く入り長駆し、其の城郭に距(いた)り、其の内外を絶ち、敵、国を挙げて来り服するを上と為す。兵を以て撃破し、敗りて之を得るはその次なり。

孫子の兵法:孫子曰く、凡そ用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之れに次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ。:孫子曰、凡用兵之法、全國為上、破國次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。:杜佑:孫子十家註○杜佑:敵國来り服すを上と為し、兵を以て撃破するを次ぎと為す。

○李筌:殺すを貴ばざるなり。韓信 魏王豹を虜にす。夏説を擒にし、成安君を斬る。此れ國を破る者と為す。廣武君 計を用うるに及ぶ。北 燕路を首とし、一介の使いを遣わし咫尺[し‐せき【咫尺】(「咫」は周尺で8寸)①近い距離。②接近すること。貴人にお目にかかること。]の書を奉る。燕風に從ひて靡なれば、則ち國を全うするなり。

○賈林:全きとは其の國を得る。我國亦全きにして、乃ち上と為す。

○王晳:韓信 燕を擧げるが若くは是れなり。

○何氏:方略・気勢を以て、敵人をして國を以て降らしむは、上策なり。

○張預:尉繚子曰く、武を講じ敵を料り、敵の氣を失わしめて師を散じ、形 全きと雖も而して之れ用を為さざらしむ。此の道 勝なり。軍を破り将を殺し、堙[①ふさぐ。うずめる。ふさがる。②うもれる。滅びる。]に乗り機に發す。衆に會い地を奪う。此の力 勝なり。然らば則ち所謂道勝・力勝とは、即ち国を全うし國を破るの謂(いい)なり。夫れ民を弔し罪を伐つ。全き勝を上と為す。已に得ざるを為して、破るに至るは、則ち其の次なり。

孫子十家註:『軍を全くするを上と為し、軍を破るは之に次ぐ。』 

孫子の兵法:孫子曰く、凡そ用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之れに次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ。:孫子曰、凡用兵之法、全國為上、破國次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。:曹操孟徳:魏武帝註孫子:孫子十家註○曹公・杜牧:司馬法に曰く、一萬二千五百人を軍と為す。

○何氏:其の城邑を降さば、我軍破らざるなり。

孫子十家註:『旅を全くするを上と為し、旅を破るは之に次ぐ。』

孫子の兵法:孫子曰く、凡そ用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之れに次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ。:孫子曰、凡用兵之法、全國為上、破國次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。:曹操孟徳:魏武帝註孫子:孫子十家註○曹公:五百人を旅と為す。

孫子十家註:『卒を全くするを上と為し、卒を破るは之に次ぐ。』

孫子の兵法:孫子曰く、凡そ用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之れに次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ。:孫子曰、凡用兵之法、全國為上、破國次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。:曹操孟徳:魏武帝註孫子:孫子十家註○曹公:一旅已下は一百人に至るなり。

孫子の兵法:孫子曰く、凡そ用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之れに次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ。:孫子曰、凡用兵之法、全國為上、破國次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。:杜佑:孫子十家註○杜佑:一旅の下は百人に至るなり。

○李筌:百人已下を卒と為す。

孫子十家註:『伍を全くするを上と為し、伍を破るは之に次ぐ。』

孫子の兵法:孫子曰く、凡そ用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之れに次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ。:孫子曰、凡用兵之法、全國為上、破國次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。:曹操孟徳:魏武帝註孫子:孫子十家註○曹公:百人已下は五人に至る。

○李筌:百人已下を伍と為す。

孫子の兵法:孫子曰く、凡そ用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之れに次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ。:孫子曰、凡用兵之法、全國為上、破國次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。:杜牧:孫子十家註○杜牧:五人を伍と為す。

孫子の兵法:孫子曰く、凡そ用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之れに次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ。:孫子曰、凡用兵之法、全國為上、破國次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。:梅堯臣:梅聖兪:孫子十家註○梅堯臣:謀の大なる者は全くして之を得る。

○王晳:國・軍・卒・伍、小大を問わず。之れ全くすれば則ち威徳優と為す。之を破らば則ち威徳劣と為す。

○何氏:軍に自り伍を之とす。皆次序 上下之を言う。此の意策略を以て之を取るを妙と為す。惟だ一軍にあらずして一伍に至らば、全かざる可からず。

○張預:周制に、萬二千五百人を軍と為す。五百人を旅と為す。百人を卒と為す。五人を伍と為す。軍に自り伍に至る。皆戦わずして之れに勝つを以て上と為す。



意訳
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○金谷孫子:孫子はいう。およそ戦争の原則としては、敵国を傷つけずにそのままで降服させるのが上策で、敵国を討ち破って屈服させるのはそれには劣る。軍団を無傷でそのまま降服させるのが上策で、軍団を討ち破って屈服させるのはそれには劣る。旅団を無傷でそのまま降服させるのが上策で、旅団を討ち破って屈服させるのはそれには劣る。大隊を無傷でそのまま降服させるのが上策で、大隊を討ち破って屈服させるのはそれには劣る。小隊を無傷でそのまま降服させるのが上策で、小隊を討ち破って屈服させるのはそれには劣る。

○浅野孫子:孫子は言う。およそ軍事力を運用する原則としては、敵国を保全したまま勝利するのが最上の策であり、敵国を撃破して勝つのは次善の策である。敵の軍団を保全したまま勝利するのが最上の策であり、敵の軍団を撃破して勝つのは次善の策である。敵の旅団を保全したまま勝利するのが最上の策であり、敵の旅団を撃破して勝つのは次善の策である。敵の大隊を保全したまま勝利するのが最上の策であり、敵の大隊を撃破して勝つのは次善の策である。敵の小隊を保全したまま勝利するのが最上の策であり、敵の小隊を撃破して勝つのは次善の策である。

○町田孫子:孫子はいう。およそ戦争の原則は、自国を損傷しないことこそ上策で、損傷するものはそれに劣る。軍団を無傷に保つことこそ上策で、傷つけるものはそれに劣る。旅団を無傷に保つことこそ上策で、傷つけるものはそれに劣る。大隊を無傷に保つことこそ上策で、傷つけるものはそれに劣る。小隊を無傷に保つことこそ上策で、傷つけるものはそれに劣る。

○天野孫子:孫子は次のように言う。およそ戦争を行なう場合の法則として、国を挙げての戦争においては、自国に損傷を来たさないことが上策であり、自国を損傷し破滅させるは下策である。軍を挙げての戦闘においても、味方の軍を損傷させないのが上策であり、味方の軍を損傷し破滅させるのは下策である。旅を挙げての戦闘、卒をもっての戦闘、伍をもっての戦闘においてもそれぞれ同様で、それぞれ味方の旅・卒・伍を損傷させないのが上策であり、それを損傷し破滅させるのは下策である。

○フランシス・ワン孫子:およそ、戦争に於ける最善の方略は、敵国を無傷で手に入れることである。これを撃滅するのは最悪の手段でしかない。敵の軍団を生け取りにすることは、これを殲滅することよりも価値があり、また、敵の大隊や中隊或いは分隊を、そっくりそのまま手に入れることは、これらを撃破することよりも価値がある。
○大橋孫子:戦いは国に損害を与えないのを上とし、たとえ勝っても、国に大きな損害を与えるのはこれに及ばない。軍・旅・卒・伍についても同じである(別解-無傷で敵国・敵兵を手に入れるのが上で、損害を与えて手に入れるのはこれに及ばない。)

○武岡孫子:孫子がいうのには、用兵原則としては敵国を傷つけずに屈服させるのが上策で、敵国を撃破して屈服させるのはそれに劣る。敵軍団を無傷で降服させるのが上策で、撃破して屈服させるのはそれに劣る。敵の旅(大隊)を無傷で降服させるのが上策で、撃破して屈服させるのがそれに劣る。敵の卒部隊(中隊)を無傷で降服させるのは上策で、撃破して屈服させるのはそれに劣る。敵の伍(分隊)を無傷で降服させるのは上策で、撃破して屈服させるのはそれに劣る。

○著者不明孫子:孫子いわく-総じて戦争のやりかたというものは-敵の国を丸ごと降服させるのが最上で、敵国を撃破して勝つのはその次である。敵の軍団を丸ごと降服させるのが最上で、撃破して勝つのはその次である。敵の大隊を丸ごと降服させるのが最上で、撃破して勝つのはその次である。敵の中隊を丸ごと降服させるのが最上で、撃破して勝つのはその次である。敵の小隊を丸ごと降服させるのが最上で、撃破して勝つのはその次である。

○学習研究社孫子:孫子は言った-。通常、戦闘の仕方として、敵の国土を完全に保ったままで敵に勝つのが最高である。敵の国土を破壊して、敵に勝つのは、劣る戦略である。敵の軍勢を完全に保ったままで降服させるのが最高で、敵の軍勢を滅亡させるのは劣る戦術である。敵の一師団を完全に保ったままで勝利するのが最高で、それを壊滅させるのは劣るやり方である。敵の一小隊を完全に保ったままで勝利するのが最高で、それを破壊させるのは、劣る手段である。敵の一グループをそのままにして勝つのが最高で、それを散り散りに撃破するのは、劣る方法である。

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2013-03-31 (日) | 編集 |
孫子 兵法 大研究!

本文注釈:孫子 兵法 大研究!

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篇名:『謀攻』:本文注釈

謀-①問いはかる。人に相談して計画を立てる。たくらむ。はかりごと。②あれこれと思いはかる。よく考える。【解字】形声。「言」+音符「某」(=よく分からない)。分からぬ将来について相談してさぐり求める意。

攻-①兵を出して敵をうつ。相手の欠点を突いてとがめる。せめる。②玉や金属を磨いて加工する。転じて、知徳を磨く。研究する。おさめる。【解字】形声。音符「工」(=上下の面に穴を突き通す)+「攵」(=動詞の記号)。突っこむ、相手をせめる意。





孫子の兵法:謀攻篇:金谷治○金谷孫子:※桜田本は「攻篇第三」。武経本・平津本は「謀攻第三」。 一 謀りごとによって攻めること、すなわち戦わずして勝つの要道をいう。

孫子の兵法:謀攻篇:浅野裕一○浅野孫子:実際の戦闘によらず、計謀によって敵を攻略すべきことを述べる。『武経七書』本や平津館本の篇名は「謀攻第三」、十一家注本は「謀攻」である。竹簡本では篇名を記した竹簡が発見されていないが、やはり十一家注本と同じく「謀攻」であったと思われる。

孫子の兵法:謀攻篇:町田三郎○町田孫子:自国の保全を大前提として、そこから戦わずして勝つ方法、すなわち謀で攻むべきことについて説く。篇名を「攻」とするものもある。

孫子の兵法:謀攻篇:天野鎮雄○天野孫子:本篇は、戦争または局地的戦闘において、自国の軍隊に何の損傷をも来たさないことが最上の策であって、そのために取るべき方法のあることを論じたものである。戦争または戦闘において、自国の軍隊に損傷を来たせば来たすほどその取る方法は下策であるから、損傷を来たさないために取るべき戦術は、まず第一に戦う前に敵のはかりごとを察知して、これが実現する前に挫折させることである。もしそれが不可能であれば、次に敵への救援などを断ち切って敵を孤立無援にさせることである。もしそれも不可能であるならば、敵と対等の条件の下に交戦することである。最もまずい戦術は敵に城を攻めることである。本篇は兵をもって敵を攻めるのではなく、計謀(はかりごと)をもって敵を攻める方法を最上とするという意味で、謀攻を篇名としたものである。『古文』は攻篇に作る。

孫子の兵法:謀攻篇:フランシス・ワン仏訳 孫子○フランシス・ワン孫子:前言 一、「謀攻」とは、攻むるを謀る若しくは謀を用いて攻むるの意であり、仏訳は端的に「攻勢戦略」と解し、曹操は「敵を攻めんと欲すれば、必ずまず謀る(謀を先にす)」と。本篇は、前篇の戦争(作戦)計画について、さらに、天下の覇者を志す呉王がとる攻勢戦略の見地から、次の如く論述するものである。即ち、覇者たらんとして戦争を用うる者の主眼は「久しきを貴ばず」・「敵に勝ちて強を益す」ことにあって、徒らに敵兵を殺傷し或いは敵国を破壊することではない。要は、「必ずや全きを以て天下を争う」(十一項)ことにある。従って、その攻勢戦略は、力戦によって敵を打倒するのではなく、「謀攻」によって、「人の兵を屈するも戦うには非るなり。人の城を抜くも攻むるには非るなり。人の国を毀(こぼ)つも久しきには非るなり」(十項)の状勢を実現することを以て理想とする、と。而して、そのための作戦・用兵の根本は彼我の状況を適時適確に把握していることにあるとして、有名な「彼を知り己を知らば、百戦殆うからず」を以て結言とするのである。なお、本篇は、古くは「攻篇」となっている。
 一、本篇はまた、以上と関連して次のことを強調するものである。即ち、謀攻を以て本質とする攻勢戦略・軍事力行使の成功のためには、作戦には兵力と状況に応じた用兵原則と勝を知る五つの道(要訣)があることを知る者でなければならない。もし、この事を理解しえずして、将軍から指揮の自由を奪い或いは拘束するようなことをすれば、たとえすぐれた謀攻であっても、それは絵空事に終るであろう、と。
 一、なお、前篇でも注意を促した所であるが、今や弱者(被侵略者)の立場に立つに至った我国にとっては、本篇は、強国(侵略者)が我国に対して行う謀攻の本質を教うるものとして理解すべきである。

孫子の兵法:謀攻篇:大橋武夫○大橋孫子:謀攻-はかりごとをもって敵を攻める

孫子の兵法:謀攻篇:武岡淳彦:新釈孫子○武岡孫子:謀攻-はかりごとをもって敵を攻める。または攻めるを謀る。英・仏訳には単に攻勢戦略とするものもある

孫子の兵法:謀攻篇:佐野寿龍○佐野孫子:【通観】 「謀攻」とは、謀(はかりごと)を用いて攻むる若しくは策謀で敵を攻略するの意で、政治・外交的手段はもとよりのこと、謀略(計謀)・調略等を用いて戦わずして敵の意図を封ずる軍事力運用の一形態を言う。ここでは右の定義を受ける形で、まず、戦争に於ける「目的と手段」の体系的構造に言及し、その当然の帰結として「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」を導き出し、そのための具体的手段として、自国の軍事力を裏付けとする「謀攻」の重要性を説くのである(老子曰く「善く士たる者は武ならず。善く戦う者は怒らず。善く敵に勝つ者は与(あらそ)わず」と)。因みに、孫子、マキアヴェッリと共に古今東西における政治・軍事論の嚆矢(こうし)とされるクラウゼウィッツは政治と戦争に於ける「目的と手段」の関係について次のように言う。即ち「政治的意見は目的であり、戦争はそのための手段である(いかなる場合でも、手段は目的を離れては考えることができない)。(斯る前提の上に)戦争とは、敵を屈服させて我が意思を実現しようとするために使われる武力行為(ゲバルト・実力行使)である。敵に我が意思を押しつけることが戦争の目的であり、この目的を達成するための手段として、敵の抵抗力を破砕することが、戦争行為の目標である」と。次に孫子は、(そういう訳であるから)最善の方策は敵国による自国侵攻の意図を逸速く諜知し、謀略を用いてその策謀を未然に打ち破ることであり、次善の策は、調略によって敵陣営を孤立化させ、戦意を喪失させることである。(それでも開戦のやむなきに至った場合)第三の策として敵軍を野戦に誘い込み、策を用いてこれを撃破することが適当であり、攻城戦は下策としてこれを避けるに若(し)くは無しとする。特に孫子はこの攻城戦に於ける「無策な力攻め」を例に挙げ、これを最も愚劣にして無益な戦法と断じている。ところで、謀略(計謀)・調略は言うまでもなく「戦わずして勝つ」の目的に対する一つの手段であるが、この策が効を奏さず、開戦のやむ無きに至ったときは、その目的も「戦わずして勝つ」から「戦って勝つ」に否応なく変わり、その手段も又、それに適合してものとなるのは蓋し当然のことである。孫子は斯る場合、何は扨措(さてお)きまず為すべきことは彼我両軍の兵力比を冷静に算定・評価し、それに応じた基本方針を明確にすることであり、これなくして(敵を謀るための)戦略・戦術は立てられないと言うのである(因みに「戦わずして勝つ」場合の大前提は敵国内部の状況把握にあることは言うまでもない)。尚、この段における兵力比互角の戦法を曰う「敵則能戦之」の句は、次篇<形>の主題として詳説されるものであり、又、「小は大に当ること能わざるなり」を曰う「少則能逃之」及び「不若則能避之」の句は、その故にこそ謂(いわゆる)「弱者の戦法」の理論的根拠を述べる<第六篇 虚実>と密接に関連するのである。次に、孫子は補佐役たる将と君主との関係、及び戦略・戦術の不一致による害を述べ、更に作戦・用兵の根本として「勝ちを知る」ための五条件に言及し、最後に有名な「彼を知り己を知らば、百戦殆(あや)うからず。彼を知らずして己を知らば、一勝一負す。彼を知らず、己を知らざれば、戦う毎に必ず殆うし」を以て結言とするのである。
【校勘】第三篇 謀攻 「十一家註本」の篇名は「謀攻篇」。「武経本」では「謀攻第三」。「桜田本」は「攻篇第三」。「竹簡孫子」では篇名が欠落しているが、他の篇名が「十一家註本」とほぼ一致することから、やはり「謀攻」であったと推定される。ここでは、「竹簡博物館本」に従って「第三篇謀攻」とする。

孫子の兵法:敵の利を取る者は貨なり:取敵之利者貨也:重沢俊郎○重沢孫子:読んで字の如く、謀をもって敵を攻める独自の戦術を論じます。物理的手段よりも智謀的手段を優先させるところに、孫武の兵法の重要な特徴がありました。それなら、勝利を追求することに変りはないにせよ、真の勝利とは何なのか、彼はいかなる勝ち方を求めていたのか、という種類の疑問が、おそかれ早かれ読者の大脳を走るでしょう。この篇で彼はそれに、いとも明快に答えています。読めばすぐわかりますが、言ってしまえば”無疵のままで、そっくり頂戴する”ことです。地上地下を問わず敵の全財産はもちろん、一人の兵士一本の刀も、彼我ともに損しないで勝利する-これを百パーセント実現するには、武器なき戦い以外に方法はありますまい。かくして高度の謀略戦登場という次第。謀略戦成功のためには、相手はもとより自分の実力を正確に知る必要があります。かくして名言登場-知彼知己者、百戦不殆(危)-。

孫子の兵法:謀攻篇:田所義行○田所孫子:○謀攻とは、はかりごとをもって敵を攻めること。

○著者不明孫子:【謀攻】攻(戦争の実行)を謀る。
 【補説】この篇は、「攻」(戦争行動を起こして敵に対する攻撃を行う)につき、その根本問題にまでさかのぼって、いかに考え、いかになすべきかを論じている。戦わずに勝ち、敵味方の一兵も損ぜず、一円の戦費も使わず、敵の国あるいは敵の軍隊をそっくり手つかずの状態で降服させ取ってしまうのが最上の戦いだという。これが孫子の兵法の真髄というべきものであろう。百戦百勝(戦えば必ず勝つ)というのは最善ではない、戦わずに敵を降すのが最善である、と孫子はいう。兵法(用兵の法、戦争の仕方)を説く孫子が、戦わずに敵に勝つこと、戦争なき戦争を主張するのは、一見矛盾するようでもあるが、ともかくこのように戦わずに勝つことを戦争の極意とするところに孫子の戦争観の大きな特色がある。戦争をして敵に勝つためには、敵を殺し、味方を殺し、敵・味方双方の労力と物資を空費し、民衆の生活と国家の経済を破壊する等々のマイナスを必然的に伴うから、上記のような孫子の戦争観は、非常に健全であったということができる。なお、この戦争観は『老子』と関係が深く、「民は不祥の器にして君子の器に非ず。已むを得ずして之を用ふれば、恬澹(てんたん)を上と為す。勝ちて美とせず。而して之を美とする者は、是れ人を殺すを楽しむ。夫れ人を殺すを楽しむ者は、志を天下に得可からず」(第三十一章)、「天かを取るには事無きを以てす。其の事有るに及びては、以て天下を取るに足らず」(第四十八章)などの語が想起される。思想において相通ずる点が多い。

孫子の兵法:謀攻篇:山鹿素行:孫子諺義○孫子諺義:謀攻 作戦の次に此の篇を置くことは、所々の戦、かれ不利の後は、かれ必ず城にこもるもの也。我れ又はじめより城をせむることを好む可からず、敵を引出して野合の一戦をいたすべし。しかれども彼れ城の堅きをたのみてこれに楯籠れば、已むを得ずして之れを攻む。是れ乃ち戦の次に攻城を用ふるゆゑ也。其の旨趣前篇此の篇に明著也。凡そ作戦は戦ふことを論じ、謀攻は攻むることを云へり。攻は城を攻め、かたきをやぶるを云ふ。城をせめ堅きをやぶることは、勇将猛士の功名といたすことなれども、孫子が此の篇に云ふ處は全く然らず。謀を好んで鐵城忽ち落ち、堅陣忽ち屈し、力を費さざるごとくいたすにあり。このゆゑに謀の字を上に加へて謀攻と云へり。然れば謀を以てかれを屈せしむること是れ攻の本意にして、力を以てするにあらざること明白也。作戦は士卒の志を振作興起せしめて而る後に戦ひ、謀攻は謀を以て敵を屈し而る後に攻む。實に戦攻の本意也。舊説攻は城攻を云ふにあらず、攻撃の字にして敵をうつの意也。前篇に戦を云ひて未だ攻撃に及ばざるゆゑ、ここに攻撃のことをしるせりと註す。魏武の注之れに從ふ、直解・開宗皆同意也。案ずるに、攻の字は攻堅の字義たり。故に古來皆攻城を攻戦と云ひ、堅陣を攻撃するを攻と云ふ。敵の堅陣は城を以て極とす。しかれば謀攻は攻城の謀にきはまれり。攻城の謀を論ずる内に、堅陣を攻撃するの心得自ら相含む也。此の篇發端よりの語意皆力を以てするの誤をしるし、中間に攻城の義をあらはして之れを結ぶ。然れば攻の字全く城にかかりて、堅陣を攻撃の義亦其の内にありと見る可き也。案ずるに、前篇は戦をおこすの法、及び速かにして勝つの道、士卒の用法をつくし、此の篇は攻城の道、はかりごとにあることを論ず。兵の道は、戦と攻と兩段の外あらず。此の兩様をよくしるときは、兵をしると云ふ可き也。この二段にて兵法の戦の品は事すむ也。この二篇をよく考へて野合の戦、城の攻撃を詳に得心すべき也。謀の字、計の字にこと也。能く内に思ひはかつて、てだてをめぐらし謀をつくすを謀と云ふ也。今案ずるに、杜牧曰はく、廟堂の上計算已に定まり、戦争の具、粮食の費、悉く已に用ひ備へて以て謀攻す可し、云々、是れ謀字を以て輕しと為すなり。曹操・張預皆智謀を以て攻城と為す、是れ謀字を以て攻城の智謀と為すなり。愚謂へらく、謀字猶ほ輕し、此の一篇は全の字を以て主と為す、全は、謀の效也、且つ曰はく全を以て天下に爭ふ、故に兵頓(やぶ)れずして利全かる可し、此れ謀攻の法也、是れ謀字を以て甚だ重しと為す也。袁了凡曰わく、作戦は則ち戦を欲せず、謀攻は則ち攻むるを欲せず、是れ此の老の主意。

孫子の兵法:謀攻篇:荻生徂徠:孫子国字解○孫子国字解:謀攻とは、謀を以て攻るなり。陣を合するを戦と云ひ、城を圍むを攻と云と注して、陣は備立てなり。我備を以て敵の備と合せて、勝負を決するは戦なり。城を圍て落さんとするを攻と云。故に作戦篇の次に此篇を設けり。城を攻るには力を以て攻るを下とし、謀を以て攻るを上とす。故に謀攻篇と名付く。尤一篇の中、しろをせむることばかりを云には非れども、城を攻ることを本にして、外の事にも云ひ及せるなり。

孫子の兵法:謀攻篇:吉田松陰:孫子評註○孫子評註:孫の文、句々著實(ちゃくじつ)なるものあり。始計・行軍・地形・九地の如き是れなり。通篇全く虚にして、一二の要言の以て之れを實にするものあり。軍形・虚實の如き是れなり。此の篇の如きは、前半(此の篇の大段は「大敵の擒なり」に在り。今、「此れ謀攻の法なり」に至るまでを謂ひて前半と為す)は是れ虚にして、謀を伐つの四要言を以て之れを實にす。後半は則ち句々著實にして、復た始計・行軍の下に在らず。註家多く虚實を分たず。瞶々(きき)(物事を見あやまる。瞶は目にひとみのないこと。)を致す所以なり。謀攻は謀を以て人を攻むるなり。篇中、謀を伐つ、國を全うす、爭を全うするは即ち其の事なり。謀を伐つに謀を以てするは、全しと為す所以なり。攻むるを以て城を攻むと為すものは拘(かかわ)れるかな。

孫子の兵法:謀攻篇:曹操孟徳:魏武帝註孫子:孫子十家註○曹公:敵を攻めんと欲すれば必ず先ず謀る。

○李筌:陳を合して戦を為す。城を圍みて攻むるを曰う。此の篇を以て戦の下の次ぎとす。

孫子の兵法:謀攻篇:杜牧:孫子十家註○杜牧:廟堂の上、計算已に定まり、戦争の具え、粮食の費、悉く已に周りに備え、以て謀攻す可し。故に謀攻と曰う也。

○王晳:敵を攻むるの利害を謀る。當に全き策を以て之れを取るべし。兵を伐ち城を攻むるに鋭かざるなり。

○張預:計議已に定まり、戦具已に集まれば、然る後に智を以て攻を謀る可し。故に作戦の次とす。

意訳

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2013-03-10 (日) | 編集 |
孫子 兵法 大研究!

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『故に兵を知るの将は、民の司命、国家安危の主なり。』:本文注釈

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 「兵を知るの将」と、「民の司命、国家安危の主」とのつながりを考えて見ると、ここでの「兵」の意味は「兵士」ではなく、「戦争」であることがわかる。兵士を知るというだけでは、民の命や国家の安泰は守りきれないからである。つまり「兵を知るの将」とは、「戦争というものを広く知っており、その対処方法を熟知している将軍」という意味であり、民の命運と国家が安泰・危機のいずれかとなる鍵を握っている者、ということである。意訳すると、「民の命や国家を安泰たらしめるのは、戦争を熟知した将軍である。」ということである。このように戦争のことをよく知り、しかも天下にその名が轟いている将軍が自国にいれば、敵国の軍は容易に我国に攻め込むことができず、強力な抑止力となると、孫子は暗に言っているのである。戦争のことを良く知り、孫子が理想とするような者がいるかどうか、日本の戦国時代に遡って考察してみると、何人かの戦上手の大名の名前が思いつく。しかし、その中でも格が違って飛び抜けていたのは武田信玄である。「 人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」の言葉でも知られるように、家臣一同の団結力こそ、武田家が天下にその武を誇れた第一の要因であった。当時、戦上手な大名はキラ星の如く存在したが、信玄だけは別格であり、上杉謙信を除き誰も信玄存命時は刃向かうことはできなかった。信玄は戦術だけでなく、外交やスパイの活用にも長けており、何より戦を必要以上に行わず、民の信頼も厚かったから国も富んでいた。このような戦上手がいる国に、そもそも攻め込もうと考えようとすることは非常に難しいことである。ゆえに、孫子も戦争を熟知している将軍を重宝したというわけである。ここで念を押しておくが、「兵を知るの将」とは、単に「戦が上手な将」という意味ではない。「戦争に関連するありとあらゆることを知っていて、それに対処できる将」という意味である。又もう一度例に出すが、日本の戦国時代の大名である武田信玄を例にするとわかりやすいだろう。信玄は戦に単に強いというだけではなく、民心も掴み、むやみに戦争を行なわずに力を貯え、自国の有利になる様に様々な外交政策もおこない、独自の忍者軍団も従え情報収集にも事欠かなかった。このような将軍を、孫子は理想としたわけである。人情の機微、五事・七計に長けた将は孫子存命の時代にもそうはいなかったであろう。まさにこのような将軍こそ国の宝と呼ばれるにふさわしいと言えるのではないだろうか。


司-①つかさどる。とりしきる。②つかさ。㋐役所。職務として行う所。㋑職務をとりしきる人。役人。かさ。【解字】会意。「人」の変形+「口」(=穴)。人が小さな穴からのぞき見る意。転じて、つかさどる意。一説に、「祠」の原字で、まつる意から転じて、おさめる意。

命-①下位の者に言いつける。神や目上の人のおおせ。②名づける。名簿に名を記す。③天から授かったもの。㋐いのち。㋑めぐりあわせ。④めあて。目標。⑤みこと。神の称号。【解字】もと、口部5画。会意。「口」+「令」。口で言いつける意。

司命-生殺の権を持つもの。また、たのみとするもの。中国において、本来、北斗七星の魁(かい)(桝(ます)の部分)の上方にある星座文昌宮六星の第4星を司命という。古来、人間の寿命をつかさどる天神と考えられ『楚辞』九歌には大司命、少司命の2神が見え、文昌宮第5星の司中、第6の司禄とともに祭祀の対象とされた。とくに道教では人間の寿命台帳を管理し、人間の行為の善悪を監視する三尸虫(さんしちゅう)や竈神(かまどがみ)の報告に基づいて寿命の増減を行う神と考えられた。

安危-安全か危険かということ。

主-①中心である。おも(な)。②つかさどる(人)。㋐中心となって管理する。㋑一家・一国・一団などの長。あるじ。ぬし。㋒宇宙の支配者。神。③それを中心とする。④他にはたらきかける側。他人を迎えて接待する側の人。⑤そこにとどまっているもの。みたましろ。【解字】燭台の上で静止して燃えたつ炎をかたどった象形文字。一か所にじっと留まる意から、あるじの意となる。「住」「注」「駐」などはこれから派生。





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孫子の兵法:故に兵を知るの将は、民の司命、国家安危の主なり:故知兵之将、民之司命、国家安危之主也:金谷治○金谷孫子:『故知兵之将、生民之司命、國家安危之主也。』 ※生民-岱南本は後漢の『潜夫論』や『通典』などに従って「生」字を除く。武経本・平津本・桜田本にも無い。

孫子の兵法:故に兵を知るの将は、民の司命、国家安危の主なり:故知兵之将、民之司命、国家安危之主也:浅野裕一○浅野孫子:司命-元来は、人の生死を司どるとされた星座(西洋の水瓶座、アクエリアスに相当する)の名称である。

孫子の兵法:故に兵を知るの将は、民の司命、国家安危の主なり:故知兵之将、民之司命、国家安危之主也:町田三郎○町田孫子:「民」の上に「生」が宋本にはある。孫星衍の岱南閣本『十家注孫子』の校訂にしたがって除いた。

孫子の兵法:故に兵を知るの将は、民の司命、国家安危の主なり:故知兵之将、民之司命、国家安危之主也:天野鎮雄○天野孫子:○知兵之将 「兵」は前句の「兵」すなわち勝を貴びて久しきを貴ばずの兵を受ける。この句について一説に『諺義』は「知兵之将とは兵法をよく知るの将をさす」と。また一説に『国字解』は「知兵之将とは、よく兵道を知りたる将と云ふなるべし」と。また一説に『思想史』は「山鹿素行はこの場合の兵を兵法としてゐるが、それよりも大きく、これを戦争と解した方がよい。本篇冒頭の『用兵之法』における兵を戦争とみる以上、その結びにおける兵を同じ意味に解するのは、けだし当然であらう」と。
 ○生民之司命 「生民」は民。『武経』『古文』には『生』の字がない。「司命」は星の名で、大司命と小司命との二つの星があり、いずれも人の寿命と運命とをつかさどる神とされている。ここではその星の名をかりて生命と運命をつかさどる者の意。この句について『大全』は「民の字は醒見を要す。軍中一切の粮草・用具、皆民命の関はる所なり。倘(も)し師老い財匱(とぼ)しくば、民何を以てか堪へん。将能く速勝を知らば、則ち民命全きを得。豈司命に非ずや」と。
 ○国家安危之主也 「安危」の「危」は安の対立語として軽く添えたもので、この場合は意味がない。「主」はつかさどる者、支配者。以上の兵を知るの将についての句について、一説に『諺義』は「将の善悪・知不知によって、士卒の死生、国家の安危のかかる処なれば、将は生民の命のつかさなり。国家を安くするも危くするも将の心にあることなれば安危の主なるなり」と。また一説に『国字解』は「この人存すれば国家安穏に、この人死すれば国家危亡するゆえ、国家安危の主なりと云へり」と。また一説に『詳解』は「民の司命とは我の民を生かし、敵の民を殺すを云ふなり」「我が国家をして安んじ、敵の国家をして危からしむ。故に国家安危の主なりと曰ふ」と。

孫子の兵法:故に兵を知るの将は、民の司命、国家安危の主なり:故知兵之将、民之司命、国家安危之主也:フランシス・ワン仏訳 孫子○フランシス・ワン孫子:一、「故に、兵を知るの将は、生民の司命にして、国家安危の主なり」 「兵を知る」とは、「拙速」を知り、「敵に勝ちて強を益す」を知ることを言う。「生民の司命」とは、文字通り国民の生命を司る者の意、「国家安危の主」とは、国家の守護神の意である。曹操は「将の賢なれば、則ち国は安きなり」と言い、張豫は「民の死生・国の安危は将の賢否に繋(か)かる」と。梅堯臣は「此れ、将を任ずることの重きを言うなり」と註する。何氏は「民の性命・国の治乱は、皆、将の主とする(主(つかさ)どる)所なるも、将材の難きは、古今の患えとする所なり」と。しかも、日露戦争後の我国は、これを、必ずしも患えとする者ではなかったのである。現在に至っては、国家に於ける将材の必要すら理解しえなくなっていると言えるのではなかろうか。なお、八項の「故に、尽く兵を用うることの害を知らざる者は、尽く兵を用うることを知る能わず」は、将を任ずるに当って、その資質(将材)を判定するための基準の一つである。

孫子の兵法:故に兵を知るの将は、民の司命、国家安危の主なり:故知兵之将、民之司命、国家安危之主也:守屋洋○守屋孫子:この道理をわきまえた将軍であってこそ、国民の生死、国家の安危を託すに足るのである。

孫子の兵法:故に兵を知るの将は、民の司命、国家安危の主なり:故知兵之将、民之司命、国家安危之主也:重沢俊郎○重沢孫子:それ故、戦争に理解の深い指揮官は、庶民の命の主であり、国家の安危を左右する根本である。

孫子の兵法:故に兵を知るの将は、民の司命、国家安危の主なり:故知兵之将、民之司命、国家安危之主也:田所義行○田所孫子:○知兵之将、民之司命とは、兵法をわきまえた名将は、人民の命をつかさどるものであるとの意。
 ○国家安危之主也とは、国家の安危をつかさどる主人であるとの意。

孫子の兵法:故に兵を知るの将は、民の司命、国家安危の主なり:故知兵之将、民之司命、国家安危之主也:大橋武夫○大橋孫子:司命-生死を決する責任者  安危の主-安危を決する責任者

孫子の兵法:故に兵を知るの将は、民の司命、国家安危の主なり:故知兵之将、民之司命、国家安危之主也:武岡淳彦:新釈孫子○武岡孫子:司命-生死を決めることのできる責任者  安危の主-安危を決する責任者

孫子の兵法:故に兵を知るの将は、民の司命、国家安危の主なり:故知兵之将、民之司命、国家安危之主也:佐野寿龍○佐野孫子:○民之司命 「司命」は星の名で、人の生死を司る神とされている。ここではその星の名を借りて生命と運命を司る者の意。

○著者不明孫子:【知兵】「知」はよく知っていること。
 【司命】命をつかさどる。生殺の決定権を握るもの。人の寿命をつかさどる星や神の名でもある。
 【國家安危之主】国家の安危を左右する主人公。

孫子の兵法:故に兵を知るの将は、民の司命、国家安危の主なり:故知兵之将、民之司命、国家安危之主也:山鹿素行:孫子諺義○孫子諺義:『故に兵を知るの将は、民の司命、國家安危の主なり。』
 兵を知るの将とは、兵法をよくしるの大将をさす。将の善悪知不知によつて、士卒の死生、國家安危かかる處なれば、将は生民の命のつかさ也。國家をやすくするも危くするも、将の心にあることなれば、安危の主なる也。生民は萬民をさす。司命星と云ひて、人の命を司どる星あり、其の名をかりて司命と云へり。司命はいのちをつかさどる也。始計篇には、發端に兵の大事死生の地存亡の道なることを云ひ、此の篇は兵を知るの将は、生民國家の重任たることを云ひて、一篇の結句とす。而して兵を知るの将の太節なることを盡せる也。右の段々皆大将の作略にかかることなれば、愼まざる可けんや。六韜に云はく、兵は國の大事、存亡の道なり、命は将に在りと。三略に云はく、将は國の命也と。太公又曰はく、将は人の司命なりと。以上第五段也。孫子が書文章の奇尤も多し。此の篇、故の字を下すこと甚だ多くして、故の字一准ならず、著眼して之れを覩る可し。大全に云はく、民の字醒見を要す、軍中一切の粮草用費、皆民命の關する所、倘(もし)師老い財匱(とぼし)くば、民何を以て堪へん、将能く速勝を知らば、則民命全きを得、豈司命に非ずや。又云はく、師を興し衆を動かす、已に是れ民を勞し財を傷ぶるの事、賴みて将と為す所の者は、危きを轉じて安と為すの道有り、速勝に在る而已(のみ)、國家此の人を得、眞に乃ち民の司命、危を轉じて安と為すの主也。李卓吾曰はく、戦を作すと曰ふと雖も、其の實は皆是れ戦を欲せざるの意のみ、何となれば、蓋し此の如くならば則兵を鈍す、不可也、此の如くならば則力屈す、不可也、此の如くならば則財殫く、不可也、此の如くならば則國遠輸に貧しく、財于貴賣に竭く、不可也、此の如くならば則中原内虚に、私家の費十に其の七を去り、公家の費十に其の六を去る、不可也、唯だ粮を敵に因り食を敵に務むる有りて、乃ち可なるのみ、然れども亦以て久しふす可からざる也、故に已むことを得ざるに至りて戦ふ、寧ろ速なるとも久しきこと毋れ、寧ろ拙なるとも巧なる毋れ、但だ能く速に勝てば、拙なりと雖も可也、拙を愛するに非る也、以て速勝は巧の至り為るを言ふ、而して人知らざる也、故に之れを終ふるに勝を貴びて久しきを貴ばざるを以てす、而して又叮嚀(ていねい)以て之れに告げて曰ふ、此れ民の司命國家安危の主也と、誠に以て愼まざる可からず也、然らば則ち善く戦ふ者は上刑に服すとは、正に孫武子の赦さざる所なり。

孫子の兵法:故に兵を知るの将は、民の司命、国家安危の主なり:故知兵之将、民之司命、国家安危之主也:荻生徂徠:孫子国字解○孫子国字解:『故に兵を知るの将は、民の司命、國家安危の主也。』
 知兵之将とは、よく兵道を知たる将と云ことにて、前の不盡知用兵之害者則、不能盡知用兵之利と云句を合せ見るべし。畢竟孫子が意は、用兵之害をよく盡して知たる将を、知兵之将と云なるべし。かくの如き将は、よく速勝の理を知て、久しき戦を好まず、戦の一途に泥まず、計を以て敵を從ゆるゆへ、是を民の司命と云なり。司命と云は、天の文昌星[ぶんしょう‐せい【文昌星】‥シヤウ‥中国で、北斗七星中の6星の称。]の第五の星なり。人の吉凶禍福を司る星なり。右の如き将は、よく民の艱苦[かん‐く【艱苦】なやみ苦しむこと。艱難と苦労。なんぎ。辛苦。]を知り、民を傷らぬゆへ、司命の星を尊ぶ如くに、民の思ふと云ふことなり。國家安危之主也とは、右の如の将は、この人存すれば國家安穏に、この人死すれば國家危亡するゆへ、國家安危の主なりと云へり。蜀の諸葛孔明、唐の郭子儀、みな其身天下國家の安危にかかれり。まことに文昌司命の星に非ずや。

孫子の兵法:故に兵を知るの将は、民の司命、国家安危の主なり:故知兵之将、民之司命、国家安危之主也:吉田松陰:孫子評註○孫子評註:『故に兵を知るの将は、民の司命(天の文昌星の第五の星の名。人の吉凶禍福を司る星。)、國家安危の主なり。』
 孫子毎篇、體あり用あり、大あり、細あり、是れ及び易からずと為す。而して獨り是の篇稍(や)や降等たり。然れども猶(な)ほ將を以て結穴(けつけつ)と為す。是れ其の大關係の處なり。其の文字の精緻著實(せいちちゃくじつ)なるに至りては、猶ほ諸篇に出づ。抑々(そもそも)相模の戍(じゅ)(相模の海岸地帯における外艦に対する警備をいう。毛利藩は長らくこの任に当たっていた。)、遠輸貴売(国の師に貧しきは遠く輸すればなり。云云」と「師に近きものは貴売す。云々」参照。)、官吏の苦しむ所なり。我れ孫武を起して之れを籌(はか)らんと欲す。然りと雖も、是れ將の任なり。寧(いずく)んぞ私に言ふべけんや。

孫子十家注:『故に兵を知るの将は、民の司命』

註なし。潜夫論・通典・御覧に生の字無し。

孫子十家注:『國家安危之主也。』

孫子の兵法:故に兵を知るの将は、民の司命、国家安危の主なり:故知兵之将、民之司命、国家安危之主也:曹操孟徳:魏武帝註孫子:孫子十家註○曹公:将 賢なれば則ち國安きなり。

○李筌:将 殺伐の權威有り。敵に却って欲す。人命繫ぐ所、國家安危 此に於いて在るなり。

孫子の兵法:故に車戦に車十乗已上を得れば、其の先ず得たる者を賞し、而して其の旌旗を更め、車は雑えて之れに乗らしめ、卒は共して之れを養わしむ。:故車戦得車十乗已上、賞其先得者、而更其旌旗、車雑而乗之、卒共而養之。:杜牧:孫子十家註○杜牧:民の性命[せい‐めい【性命】万物が天から授かったそれぞれの性質と運命。いのち。生命。]、國の安危、皆将に由るなり。

孫子の兵法:故に兵を知るの将は、民の司命、国家安危の主なり:故知兵之将、民之司命、国家安危之主也:梅堯臣:梅聖兪:孫子十家註○梅堯臣:此れ将を任ずるところの重きを言う。

○王晳:将 賢なれば則ち民其の生を保ち、而して國家安きなり。否(いな)ならば則ち民毒殺を被(こうむ)る。而して國家危うきなり。明君任じて屬(つ)[屬:①つきしたがう。ある範囲に入る。つく。②つらなる。つづく。つらねる。③なかま。㋐みうち。同類。㋑生物分類上の一区分。科の下、種の上。④ショク つける。よせる。たのむ。同意語⇒嘱。⑤さかん。令制で、職・坊・寮の第四等官。明治の官制で、判任官の文官。【解字】形声。下半部「蜀」が音符で、目の大きな蚕。上半部は「尾」の変形。蚕が交尾して、子がつぎつぎと続いて生まれる意。転じて、続く、くっつく、みうちの意。]かば精ならざる可きや。

○何氏:民の性命、国の治乱は、皆、将において主(つかさ)どる。将の任の難きは、古今の患いとする所なり。

○張預:民の死生、国の安危は将の賢否に繋(か)かるか。


意訳
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○金谷孫子:以上のようなわけで、戦争[の利害]をわきまえた将軍は、人民の生死の運命を握るものであり、国家の安危を決する主宰者[しゅ‐さい【主宰】人々の上に立ち、または中心となって物事を取りはからうこと。また、その人。]である。

○浅野孫子:そうであればこそ、戦争の利害・得失を熟知する将軍は、人民の死命を司どる者であり、国家の安危を主宰する者となるのである。

○町田孫子:だから、戦争の本質をわきまえた将軍は、人民の生死の鍵を握り、国家の存亡を決する者なのである。

○天野孫子:以上のような訳で、戦争は速かに勝つことにあるという道理を知っている将軍は、国民の生命・運命をつかさどるものであり、国家を安泰にするものである。

○フランシス・ワン孫子:それ故に、戦争のこの本質を理解している将軍は、国民の運命の守護神であり、国家の命運を双肩に担う者といえる。

○大橋孫子:速戦即決が戦いの要訣であることを知らない将軍は、国民の生死、国家の安危を担う者としての資格はない。

○武岡孫子:このことは戦争指導上最も大切なことで、これをわきまえた将軍は、国民の生死を握り国家の安危を決する主宰者である。

○著者不明孫子:それで、戦争のことをよく心得ている大将は、民衆の生死の決定者であり、国家の安危の担い手なのである。

○学習研究社孫子:そこで、軍事をよく知っている指揮官は、人民の命を左右する者であり、国家の安危を担う主体者である。

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