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孫子研究ブログです。孫子兵法は別名『孫子兵経』、『SUNTZU』、『The Art of WAR』ともよばれています。ナポレオンや毛沢東も愛読していました。注釈者には曹操、杜牧、山鹿素行、荻生徂徠、新井白石、吉田松陰、等の有名人も多いです。とにかく深いです。

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2012-02-15 (水) | 編集 |
孫子 兵法 大研究!

本文注釈:孫子 兵法 大研究!

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『天とは、陰陽・寒暑の時を制するなり。順逆にして兵は勝つなり。』:本文注釈

竹簡本以外の諸本では『天とは陰陽・寒暑・時制なり』につくる。

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天-大自然の法則。ここでは戦争について述べているため、狭義の「勝つための法則」での意味合いが強い。

陰陽-中国の易学でいう、相反する性質をもつ陰・陽二種の気。万物の化成はこの二気の消長(衰えることと盛んになること。)によるとする。日・春・南・昼・男は陽、月・秋・北・夜・女は陰とする類。

陰-①日かげ。かげ。山の北側。川の南側。かげる。くもる。②「光陰」の略。時間。月日。③かくれ(てい)る。人目に立たない。ひそか。くらい。④易で、地・月・女・静など、相対的に消極的・受動的なものを表す語。マイナス。特に、月。【解字】形声。右半部「侌」は、音符「今」(=とじこもる)+「云」(=くも)で、とじこもって暗い意。「」(=おか)を加えて、おかの日の当たらない側の意。

陽-①ひなた。山の南側。川の北側。②易で、天・日・男・動など、相対的に積極的・能動的なものを表す語。プラス。特に、日(の光)。③表面に現れている。うわべ。④うわべをよそおう。いつわる。【解字】形声。「阝」(=おか)+音符「昜」(=太陽がのぼる)。おかの日の当たる側の意。

寒暑-①寒さと暑さ。②寒中と暑中。冬と夏。③時候の見舞。 『竹簡孫子』においては「冬と夏」の意から、意訳して「冬夏の戦争」となる。

時-①とき。㋐月日のうつりゆきのくぎり。ときのきざみ。特に、六十分きざみのとき。㋑そのとき。㋒おり。しおどき。②ときどき。ときに。【解字】形声。「日」+音符「寺」(=手足を働かせて仕事をする。進行する)。日のうつりゆきの意。ここの「時」は「時機」で、㋒の意味。

制-①ほどよく整える。(芸術作品を)つくる。②おさえつける。おしとどめる。支配下におく。③標準をととのえる。さだめ。㋐とりきめる。きまり。おきて。㋑天子の命令。みことのり。【解字】会意。「」(=小枝のある木)+「刀」。むだな小枝を切って樹形を整える意。

順逆-順序が正しいことと逆であること。道理にかなうこととかなわないこと。恭順であることと反逆すること。


大きく二つに分けて解釈を試みていく。

【1つ目の解釈】

 「陰陽」の意味は現在「明暗」とする説が主流であり、『孫子兵法』の原文が存在したと思われる当時の時代に近い『詩経』や『春秋左氏伝』に「陰陽」の意味が、「明暗」であったことからも本来は「明暗」の意味でよいだろうと思われる。
しかし『竹簡孫子』においては「陰陽」の意味は別になる。『竹簡孫子』において「陰陽」の意味を考えた場合、後に「順逆兵勝也」の文が存在するため、「相反する二つの気の消長」と解釈したほうが妥当であるからである。また「陰陽」が「寒暑」を生んだことから、「陰陽」が「寒暑」よりも先に記述されていることは理解できる。同様に「時制」においても、「寒暑」が「時制」を生んだという解釈でよいと思う。
 
 各注釈書の「時制」の注をみてみれば、「四季の巡りの規則性」「時の変化についての法則性」等が多い。孫子兵法の原文も「時制」とはおそらくその意味であったろうと思われる。しかしながら、『竹簡孫子』においては「時制」の意は別のものとなる。「四季」は「陰陽」に含まれるためこの意味にはならない(春に対しての秋、夏に対しての冬といった二気の消長によるため)。よってここでの「時制」の意味は「時機をほどよく整える→好機を待つ(準備万端にし、自軍の利益となるタイミングを捉える)」の意となる。しかしながら、ただ黙って待つというわけではなく、はかりごと(順逆の対応)を実行し、敵の思いもよらないところに敵を導くなどの攻撃をおこなうために、積極的に待つということであり、つまりは、自軍の有利となるようにするということである。
 
 さてここで 「時制」の意味についてもう一度考えてみる。孫武が孫子兵法を著した当時にこの文が存在していたと仮定した場合、時の移り変わりを表わす「四季」などの意味と、(竹簡孫子においては「の時([「とき」または「これ」]を制する也」となる。)またもう一つの意味が考えられる。この場合、「時制なり」を「時を制するなり」と読むことで、「時」が、特にあまり意味をもたないことになる可能性がでてくる。「論語」にでてくる有名な文で「学びて時(とき)に之を習う。」がある。この場合の「時」が最も具体例としてわかりやすいものであるが、この「時」もあまり意味をもたない。貝塚茂樹氏の説をとりあげ、(貝塚茂樹訳注 「論語」(中公文庫)に詳しい。)この場合の「時」を「これを」と訳してみると、「天とは陰陽・寒暑のこれを制するなり。」となる。この場合、「天とは明暗と寒暖をおさめることである。(自由自在に自軍の有利となるように利用する。)」となる。

 『竹簡孫子』の解釈として、当然「寒暑」も「陰陽」に含まれるが、当時、兵は寒暑にもっとも左右されていたと考えられるので、あえて記したものと理解できる。『竹簡孫子』において、ここの「寒暑」の意は「寒い暑いの温度」の意ではなく、「冬夏に戦争をする」となり、よって「冬夏に戦争をするには困難を伴うため慎重に好機を待たねばならない」の意となる。また、天のことであれば「晴天」と「雨天」「乾湿」などが記述されていて当然のように思われるが、ここではそのようには記されていない。考えられるのは「陰陽」にその意が含まれているということである。

 「順逆にして兵は勝つなり」は、各注釈書では「天に従い・逆らうことによる勝利。」とあるが、ここでの意味は計篇の「兵は詭道なり~此れ兵家の勝にして、先には伝う可からざるなり。」までの文にあらわされている、「敵の態勢に順逆をもって対処し、(つまり敵の無防備の所、または敵が思いもよらない所を攻めて)戦いに勝つ」の意である。兵家の勝は「其の無備を攻め、其の不意に出づ」して得るのであり、具体的には「故に能なるも之れに不能を視し~親にして之れを離す。」等して敵の状況に順逆の対応をおこなっていくことである。つまり、「順逆」とは、戦の駆け引き、いわゆる無限の応変のことであり、これを以て兵は勝つということである。そして、「順逆」とは、「陰陽」の範疇であり、「天」に属するものであるからここに明記されたと考えられる。しかし、今文孫子には「順逆兵勝也」の文が存在しない。これは「天」の意味を「天候などの自然条件」と解する者が増えたため除外されたものか、あるいは『竹簡孫子』は一部の者のみの間にしか日の目をみることのできないものであったのかのどちらかであろう。『竹簡孫子』は『孫子兵法』の原文に、後世手が加えられたものであり(「順逆兵勝也」の文)、その時代の考えが反映されていると考えられる。


【2つ目の解釈】

 盛唐期の詩人で詩聖と言われた杜甫が詠んだ夔州での懐旧詩「往在」に、「主将暁逆順…。」、とあり「主な武将たちに順逆の大義をさとらせ、」と訳せる文がある。『孫子』の「順逆」がこの意味であれば、「順逆」は「大義」という意味となる。兵に順逆の大義をさとらせることで、国家は統一を実現し、君・臣(民や兵)の上下心を一つにできる、ということである。「順逆」の「大義」は前々から、戦争には「大義名分」が必要なのに、孫子は「大義名分」を軽んじている、という批評が注釈者の間であった。しかし、戦争の大綱である「五事」のひとつに記載されている、となれば、その謗(そし)りは免れるであろう。

 「順逆」を「大義」と解するこの解釈は、非常に魅力的であるが、問題点がいくつか出てくる。1つ目は、上の「陰陽・寒暑・時制なり。」の文とはどうつながるのか。2つ目は「順逆兵勝也。」の文と、五事の一つである「天」とはどうつながるのか。3つ目は、「順逆」が「大義」という意味であれば、「順逆兵勝也。」の文は、「道」の項目に入っているほうが、適当といえるのではないのか、と言った点である。
 これらの問題点を克服し、「順逆」は「大義」の意味で正しいとするには、ハードルをいくつか越えなければならない。
 まず、この文の解釈の方法は2通りある。1つ目は、「陰陽寒暑時制也。」の文と、「順逆兵勝也。」の文を、同じ文調の言葉として解釈するということ。つまり、「陰陽・寒暑・時制なり。」、「順逆・兵勝なり。」と、各々単語として解する、というのが一つ。もう一つは、「陰陽・寒暑の時を制するなり。」と、「順逆にして兵は勝つなり。」のように、単語の羅列としてではない解釈の、合せて2つである。

 それではまず、一つ目の、「単語の羅列」としての解釈を試みていく。まず、「順逆」と、「兵勝」の単語は、『孫子』編纂当時、疑うべくもなく、「道」よりも「天」との係わりのほうが深いと考えられていたものであるから、「天」に属し、上下心を一つにさせる「道」とは、「人、すなわち統治者」が行うものであるから「道」には属さない、と解釈していく。もう一つの「兵勝」も天から与えられるもの、と解釈する。これには、虚実篇の「兵は敵に因りて勝を制す。」文や、形篇の「勝つべからざるは己れに在るも、勝つべきは敵に在り。」の文からもわかるように、「勝利」は自分にはなく、敵からもたらされるものだ、といっているので、「天」から偶然の幸運によって与えられるものである、と解釈できる。又、古代中国では、戦争の前に、戦勝を祈る儀式が行われ、それは、神前で虎に扮する者が刀で討伐される、というものであった。神前で行なわれた神聖な儀式だったので、「天」とのつながりも深かったと、当時の人は理解していたとも推測できる。
 ここで「兵勝」の単語について述べてみたい。この「兵勝」は、果たして「天」の項目にどうしても必要なものなのか、ちょっと疑問に思われる。しかし、作戦篇にも「兵は勝つことを貴ぶ。」とあるように、この『孫子』は、戦争に勝つための兵書であるのだから、記さないわけにはいかないのだ、と考えることができる。そして、記すなら、当然「天」の項目しかなかった、ということであろう。
 ここでまた疑問点がでてくる。それは、「兵勝」は「道」の次点に置かれている「天」にあるが故に、では「道」とは、「戦争の勝利」よりも尊いものなのか、という疑問である。しかし、これはすぐ解決できる。これは『孟子』に、「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず。」の言葉があり、「勝つ」ための大前提として、上下(君臣)の心の一致がある、ということをいっている。よってつまり、「兵勝」よりも、「上下心を一致」させることが大事であり、それゆえに「道」は「天」よりも上位に置かれている、と解釈できる。

 今度は、「陰陽・寒暑の時を制するなり。」、「順逆にして兵は勝つなり。」というように、「単語の羅列ではない」とする解釈をしてみる。この場合、意訳すれば「(戦に勝つためには、)陰陽・寒暑の好機を逃さず、待つ(時をおさめる。)。また、大義を兵に理解させることで、戦争に勝つのである。」となる。こちらの解釈でも十分納得がいくものとして理解できる。


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○金谷孫子:時制也-竹簡本ではこの下に「順逆兵勝也」の五字がある。「順逆」は天に従うのと逆らうのとで、それによって勝負がきまること。 一 陰陽-明るさ暗さ、晴雨、乾湿などのこと。『国語』越語の注に「陰陽とは剛柔・晦朔[みそかとついたち。]・三光[日・月・星の称。]・盈縮[一杯になり、みちたりるのとちぢまる。]をいう。」とある。

○浅野孫子:陰陽-日かげと日なた、夜と昼、新月と満月、雨天と晴天などの区別をいう。ただし、「凡そ軍は高きを好み下きを悪み、陽を貴びて陰を賤しむ。(中略)丘陵・隄防には必ず其の陽に処る」(行軍篇)といった記述から明らかなように、『孫子』ではもっぱら日かげと日なたの意味で使用されている。 時制-時とは四時(春夏秋冬の四つの時節)のこと。時制は、四季が循環する規則性を指す。 順逆-天に順う行動と、天に逆らう行動。天に対する二通りの対処の仕方を指す。 兵勝-天への随順と背反との如何により決定される勝利。天の情況に従順であれば勝利し、反逆すれば敗北する。なお順逆と兵勝の語は従来のテキストにはなく、竹簡本にのみ存在する。

○天野孫子:天者陰陽寒暑時制也- 「陰陽」とは天候上の明暗を言う。晴天・昼・山の南面などは陽、雨天・夜、山の北面などは陰。行軍篇に「凡そ軍は高きを好みて下きを悪み、陽を貴んで陰を賤しむ」と。『新釈』は「昼は陽、夜は陰。夏は陽、冬は陰。晴天は陽、雨天は陰。山の南は陽、山の北は陰。河の北は陽、河の南は陰等。主として天体の運行に伴ふ陰と陽とをいふのである。孫子十三篇を通じて見るに、孫子の態度は極めて科学的であつて、神秘的宗教的な傾向は極めて少ない」と。一説に陰陽家の術、すなわち天文・暦数・方位などで人事についての吉凶禍福をうらなうことを言うと。杜牧・張預などの説がそれである。「寒暑」とは気候の意。『諺義』は「寒暑は四時なり」と。一説に『新釈』は「夏は暑、冬は寒。昼は暑、夜は寒。南は暑、北は寒。晴天は暑、雨天は寒等である」と。この説によれば、陰陽と寒暑とはあまり変わりがない。「時制」は時の変化についてのさだめ。日月・四時などの移り変わりによって一日・一月・一年の間にも時の変化がある、その法則。一説に王晳は「時制とは時の利害に因りて宜しきを制するなり」と。また一説に『略解』は「天とは陰陽・寒暑の時制なり」と読み、「陰陽・寒暑の天時に随ひ其の宜しきを裁制す」と。

○大橋孫子:時制-時間

○武岡孫子:時制-四季

○佐野孫子:【校勘】順逆兵勝也-「竹簡孫子」には「時制也」の下に「順逆兵勝也」とある。この意は、「天に対する順逆二通りの対応、即ち、天候・気象・時の変化などの条件を順用すること、又は逆用することの両面について、その道理(禍を転じて福となすを本質とする易経の原理でもある)を十分に研究せよ。なぜならば、兵は斯る順逆の理に従いてこそ勝利をおさめるものであるから」と解される。孫子の基本的立場は「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」(「孟子」)の一句に集約されるように、人間的視点に基づく価値判断を天文や地理より上位においている。とは言え、戦争(人間)も自然の摂理(法則)から逃れることはできない。そこで孫子は第二の比較項目として自然界のめぐりを挙げるが、ここでの価値判断基準は、「自然的条件」を知ることと、その条件に対する「順逆の理」を知ることの二つに尽きることは自明の理である。故に、<第十篇>に云う「天を知り地を知れば、勝ち乃ち窮まらず」の立場と軌を一にしていて矛盾はない。【語釈】天者、陰陽・寒暑・時制也-「天」とは、ここでは自然(法則)という意味の天である。「陰陽」とは天候上の明暗を言う。晴天・昼・山の南面などは陽、雨天・夜・山の北面などは陰。「寒暑」とは気候の意。「時制」とは時の変化についての定め。日月・四時などの移り変わりによって一日・一月・一年の間にも時の変化がある、その法則。宋の王晳は「時の利害に因りて宜しきを制する」と。

○田所孫子:天とは、陰陽・寒暑等の天象に相応じてさからわず、その時々の都合のよいように取計って行くこと。

○重沢孫子:第二の”天”の内容は、すべて自然現象として理解しなければなりません。陰・陽はすなわち雨・晴、時制は春夏秋冬四時の実態、それに寒・暑の変化を加えた法則的な自然現象を無視してはならないことを述べたものです。当時における兵器の発達段階を考えるなら、戦争が自然条件に著しく制約され、それを無視した作戦が、敗北につながる危険をはらんでいるのは過去の事実が示しています。

○フランシス・ワン孫子:「時制」とは、日時・四季等の如く法則性を以て変化する一般的な天文現象、つまり天行変化の法則を言う。しかし、「天とは陰陽・寒暑の時制なり」と読み、天候の軍事に及ぼす制限、つまり季節等の関係による自然的拘束(時の制限)と解する者も少なくない。曹操は「天行に順い、陰陽・四時の制に因って誅む(征討の事を行う)。故に、司馬法に曰く、冬夏には師を興さず、と。民を兼愛する(平等に愛する)所以なり」と註する。「冬夏に師を興さず」は、支那に於ては王師の理想とせられた所であるが、当時にあっては、軍隊自身が行動に困難で、危険とする所であったのである。なお「天とは、陰陽・寒暑の時を制するなり」とする読み方もある。王晳は「時制とは、時の利害によって宜しきを制するなり」と註する。仏訳はこれをとる。

○守屋孫子:「天」とは、昼夜、晴雨、寒暑、季節などの時間的条件を指している。

○著者不明孫子:【陰陽】 「陰」と「陽」とは元来、暗と明、曇と晴などを表す。さらに、陰と陽との組み合わせやその変化によって、気候・天候その他の自然現象が巡り行くものと考えられた。五行の勢力の消長と結びつけた神秘的な解釈(張預の説など)もあるが、そういう要素は除外して理解するほうがよかろう。 【時制】 よい時期を利用する、または、その時に応じてうまく行動すること(賈林・王晳などの説)。そのほか諸注にいろいろな説明をしているが、要領を得ない。あるいは、単に時機というほどの意味(陰陽・寒暑・時制と三者並列している)なのかも知れない。兪樾『諸子平議補録』は、「時制」は時節であるとする。

○孫子国字解:『天とは、陰陽、寒暑、時制なり』 此の段は、前に云たる五事の内の、二曰天とあるは、如何様のことぞと其わけを説けり。天とは天の時なり。時とは、天のはこびなり。細かに云はば、古より今とはこびゆく上も時なり。一年十二月のはこびも時なり。一月三十日のはこびも時なり。一日十二時のはこびも時なり。天は古より今に至るまで、日夜朝暮はこびめぐるものゆへ、總じて天にかかりたることをば、皆天の時と云にてこもることなり。其天の時のことを、陰陽寒暑時制なりと云は、大綱を挙て云たるものなり。まづ陰陽と云は、日取、時取、方角の吉凶、年月の吉凶、十干[甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の総称。これを五行に配し、おのおの陽すなわち兄(え)と、陰すなわち弟(と)をあてて甲きのえ・乙きのと・丙ひのえ・丁ひのとなどと訓ずる。ふつう、十干と十二支とは組み合わせて用いられ、干支かんしを「えと」と称するに至った。]十二支、五運[①五行[中国古来の哲理にいう、天地の間に循環流行して停息しない木・火・土・金・水の五つの元気。万物組成の元素とする。]の運行。②暦で、火・水・木・金・土星の称。]、七曜、九曜[九曜星(日・月・火・水・木・金・土の七曜星に羅(らご)・計都(けいと)の二星を加えた称。もと仏経から出て、陰陽家ではこれを人の生年に配当して、その運命・吉凶を判断する。)の略。九曜紋(紋所の名。中央に大きな円を置き、周囲に8個の小円を配したもの。ほかに、同じ大きさの円を上下左右に3個ずつ接して並べる並九曜などがある。)の略。]のくり様、雲気煙気の見様、總じて軍配[軍陣の配置・進退などの指揮。]の家に云ひ習はす類は、皆陰陽五行の相生相剋[木から火を、火から土を、土から金を、金から水を、水から木を生じるを相生(そうしょう)という。また、木は土に、土は水に、水は火に、火は金に、金は木に剋(か)つのを相剋(そうこく)という]をもとにして、くみ立たることゆへ、是を陰陽と云なり。智の明らかなる人は、吾心吾身より、家国天下の上までも、明かに其道理事勢に通達して、毫髪[①細い毛。②転じて、わずかなこと。いささかなこと。毫末。]も疑なきゆへ、事を執行ふ上に於ても、其疑なき心より執行ふによりて、迷ひ惑はず、危ぶみ畏れずして、よく其事を成就すれども、愚かなる人は、道理事勢に暗くして、事々の上に迷ひ惑ひ、危ぶみ畏るる心ありて、決定して其事を執行ひ、成就することあたはぬゆへ、古の聖人この陰陽の術を教へて、吉日、吉方、吉相を以て、其志をいさませ、危まず畏れず心を決定して、其事を成就せしむ。是愚民の心を決定すべき為の教にて、実には其用なきゆへ、智者の用る所に非ず。故に古より賢王名将の、此陰陽の術を用ひ玉へることさらになし。されども古より愚かなる人の用ひ習はしたることにて、人皆信ずる者も多ければ、兵家には直に是を取用ひて、愚を使ふの術とするゆへ、孫子もここに挙げたるなり。是に泥むをよしとするには非ず。古呉越の戦の時、呉王夫差越國を攻んとせし時、歳星と云星、越の分野を守れり。分野と云は天の二十八宿[①黄道に沿って、天球を28に区分し、星宿(星座の意)の所在を明瞭にしたもの。太陰(月つき)はおよそ1日に1宿ずつ運行する。中国では蒼竜(東)・玄武(北)・白虎(西)・朱雀(南)の4宮に分け、さらに各宮を七分した。東は角すぼし・亢あみぼし・氏とも・房そい・心なかご・尾あしたれ・箕み、北は斗ひきつ・牛いなみ・女うるき・虚とみて・危うみやめ・室はつい・壁なまめ、西は奎とかき・婁たたら・胃えきえ・昴すばる・畢あめふり・觜とろき・参からすき、南は井ちちり・鬼たまほめ・柳ぬりこ・星ほとほり・張ちりこ・翼たすき・軫みつかけ。 ② ①のうち、牛宿を除いた二十七宿を月日にあてて吉凶を占う法。宿曜道の系統の選日。]を、大唐四百餘州に配当して、此星は何と云国に感通[①自分の思いが他に通じること。②感覚で分かること。ここでは何という国にこの星が通じているのかという意味]すると云ふ習ひなり。歳星は五星[[左伝[襄公28年、注]]中国で古代から知られている五惑星、すなわち歳星(木星)・熒惑(けいごく)(火星)・鎮星(土星)・太白(金星)・辰星(水星)の総称。]の内の一つにて、徳を司る星なり。守ると云は常の行道にはづれて、久く其分野にとどまることなり。歳星は徳を司る星ゆへ、徳ある国の分野を守るわけなれば、越の国は攻ましきことなるに、呉王夫差是を攻てほろびたるとなり。又十六国の時分に、歳星と鎭星は福を司りて、福徳備はるわけなるに、秦の国より是を伐て、却て燕の国にほろぼされたるなり。是みな天の時を考へずして、軍に負をとりしためしなり。又周の武王の紂王を伐玉ふ時、うらかた悪しかりければ[占い(占形-うらないの結果現れたかたち。亀卜(かめのうら)・太占(ふとまに)に現れた縦横の亀裂。)の結果が悪かったので]、太公望龜を焚きすて、蓍[草の名。めどぎ。めどはぎ。めどはぎの茎で作った、占いに用いる道具。筮竹(ぜいちく)。]をおりすて、枯たる草朽たる骨に、何の生靈ありて吉凶を知んとて、遂に紂を亡し玉へり。宋の高祖、劉裕[南朝の宋の初代皇帝。武帝。東晋の軍人となり、軍閥の桓玄を討ち、南燕・後秦を滅ぼす。土断(律令時代、課役を忌避して浮浪する者を、現地で戸籍・計帳に登録し、課役を徴収したこと。中国では東晋などで行われた。)を実施、豪族をおさえ、恭帝を廃して即位。(在位420~422)(363~422)]の慕容[(Bayan)鮮卑三姓の一つ。4~5世紀、遼西・遼東(現、遼寧省)から華北に力を及ぼし、前燕・後燕・西燕・南燕などを建国。]超を征伐ありし時、往亡日[暦注の凶日の一つ。立春から7日目など、1年に12日あり、元服・出陣・旅行・移転などを忌むという日。]にあたれり。往て亡る日なれば、今日の出陣ととまり玉へと、諸将諫ければ、高祖の仰に、「我往て彼亡るなり」とて、搆はず攻て、遂に是を退治す。是みな天の時にかまはずして、勝利をえたるためしなり。用るも破るも、皆愚を使ふの術と知べし。又寒暑と云は、冬の寒気、夏の暑気なり。是は天の時の内にて、実に其用あることを云んため、此二つを挙て、其外をも知らするなり。春夏秋冬、日夜朝暮、飢饉豊年、旱洪水、大風大雨、大雷大雪、潮の満干の類、みな天の時の内にて、実に其用あることなり。たとへば豊作の時軍をおこせば、民の害となり、終に米殻少なくなりて、国の弱みとなる類、又極寒極暑の時は、士卒寒暑に疲れて、働きはかばかしからず、病気を生ずる類、又冬は北国を征伐せず、夏は南国を征伐せずと云ことあり。漢の高祖この誠を知らず、雪中に匈奴と云ふ北国の夷を伐玉へり。匈奴は北国の極寒になれたる者ゆへ、さらにひるむことなし。味方の軍兵は雪になやみて、指のもげたる者、十人の内には二三人ほどづつありければ、遂に白登城と云ふ城にかこまれて、いたく攻られ、難儀に及び玉へり。漢の世四百年が間は、匈奴の勢強くして、代々この患ひ絶ざりしも、高祖の「冬は北を征たず」と云ことを知玉はぬより起れり。又後漢の世の名将に、伏波将軍馬援と云人も、此理に暗くして、極暑の時嶺南と云處の夷を攻たり。嶺南の地は、四季共に雷鳴て、雪と云もの降らず、常に四五月の時分の様にて、殊に瘴気[熱病を起こさせる山川の悪気。]と云て濕熱の気盛んなる国なれば、中国の人、この国にゆけば、必かの瘴気にあたり煩ふなり。馬援が軍兵も、十に八九は疫癘[疫病。流行病。伝染病。]を煩ひて、軍に利なかりしとなり。但し日本の内は、かやうの熱國なければ、「夏は南を征たず」と云ことは、日本にはいらぬことなり。又突厥と云夷は弓を上手に射て、是をせむるに便りを得ざりしに、唐の太宗は長雨の時分、弓の膠とけ、矢の羽ぬれて、弓に利なき時節を伺ひ、是を攻て勝利を得玉へり。又大風大雨には敵多くは油断するものなり。風上より火を放ち、雷の威に乗り、日月を背に負ふて、剣戟の光を添へ、飢饉洪水の弊にのり、夜臥たる所を伺ひ、または節句歳の暮など、人界のつとめずして叶はぬ用事を務るとて士卒のうち散る時節など、細に考へば、いくらもあるべきことなり。此様なる類をば、孫子は寒暑の二字にこめて云たるなり。時制と云は、時とは上の文の陰陽寒暑の時なり。制とはそれを取りはからふことなり。陰陽寒暑のとりはからひ様のよしあしは、たとへば吉日吉方を用ひて、士卒のいさむことあり。破て士卒の勇むことあり。飢饉の弊にのらんとすとも、其手當をよくしたる国をば、飢饉なればとて侮るべからず。風雨にも油断せざる敵あり。寒暑にもひるまぬ敵あり。此様なる類は、みな時のとりはからひのよきとあしきとなり。故にこの陰陽寒暑の時制を以て、敵味方をはかりたくらぶることを、五事の内の天とは云なり。此陰陽と云ふを、張預が説には、陰陽の道理と見たり。それは三才[①易経[説卦]](「才」は働き)天と地と人。②宇宙間の万物。③観相上、額(天)・鼻(人)・顎(地)の称。]に通ずる陰陽にて、天の時に限らぬわけなれば、誤の説なり。又陰と陽と、寒と暑と、時と制と、六につけて説たる説あり。是又くたぐだしき[物の形が崩れたさま。]説なり。用べからず。

○諺義:『天とは、陰陽寒暑時制也』 陰陽は陰陽家の説、天官[①周の六官(りくかん)の一つ。宮廷の運営に当たり、また国政を総轄した。②唐代以降、吏部の雅称。]・時日・災祥・妖瑞・時運・盛衰を考ふる也。寒暑は四時也、時制は時を考へて事を制するなり。云ふ心は、道ありと云へども、時を失ふときは其の和全からず、ゆゑに天を第二とす。天は乃ち時也、陰陽の盛衰、時運の興敗、善悪災祥、是れを陰陽と云ふ。能く陰陽の理をしる時は、天の時に通ず。つねの陰陽師卜占も陰陽の一也。寒暑は猶ほ以て諸卒のつもり考に入ること也。寒暑といへば、四時を含むこと也。中にも極寒極暑について兵の用捨[①用いることと捨てること。取捨。転じて、善悪などの判断を下すこと。②(「容赦」とも書く)ひかえめにすること。遠慮すること。]あること也。司馬法に云はく、冬夏は師を興さずと、呉子の所謂、疾風大寒盛夏炎熱之類也。時はすべてものに時あり、時をうしなふときは其の勢を得ざる也。制は宜かごとくこれをきり(切)たち(裁)いたして、其ののりにかなはしむること也。しかれば陰陽寒暑に定法ありといへども、其の時を考へて、宜ごとく用捨いたす心也。制の一字、天の字を用ふるの極法也。陰陽と云ふに諸説多し。講義には弧虚向背之術也と云ひ、武経通鑑には陰晦[曇って暗いこと]陽明の義也と云ひ、陰晦に兵を行らば則利あらず、陽明に兵を行らば則利ありと。直解に云はく、明晦生殺之類の如し。凡そ星雲風雨之變、以て兵象之勝負を占撿す可き者也。孟氏(唐の人なり。十家註の一人、その他不明)云ふ、陰陽は剛柔盈縮[盈-いっぱいになる。みちたりる。]也。陰を用ふれば則沉虚固静、陽を用ふれば則軽捷猛厲、後は則陰を用ひ、先は則陽を用ふ。陰は蔽[覆い隠す。覆われる。]無き也。陽は察無き也。陰陽之象は定形無し云々。又張預が説に、尉繚子の天官篇を以て云ふときは、陰陽は天官時日に非ず、兵に陰陽有る也。されば太白陰経(唐の李筌著。兵学書)に、天無陰陽篇有り。しかれば孫子の所謂陰陽は、天官の説にあらざるべしと云へり。又杜牧の註に、陰陽向背は定めて信ずるに足らず。孫子之れを敍するは何ぞ也。答へて云はく、夫れ暴君昏主[昏-道理に暗い]は或は一瑤一馬[瑤-美しい玉]の為めに、則必ず人を殘ひ志を逞しくす。天道鬼神を以てするに非ずんば、誰か能く制止せん。故に孫子之れを敍す。蓋し深旨有り。案ずるに、太公云はく、天道鬼神は之れを視れども見えず、之れを聴けども聞えず。故に智者は則とせず。愚者は之れに拘はると。尉繚子云はく、刑以て之れを伐ち、徳以て之れを守る。所謂天官時日陰陽向背に非る也。黄帝は人事而巳と。李筌云はく、天に陰陽無しと。又云はく、天の時は乃ち水旱蝗雹荒亂之天の時にして、弧虚向背之天の時に非る也。此の如く云ふ時は天官陰陽の説用ふるに足らざるが如き也。此の説を用ふる時は天のみにあらず、地亦人の用にしたがふ。しからば孫子は只だ人事のみを論ぜずして、何ぞ天と云ひ地と云へるや。是れ等の説皆用捨にかかはりてこれを論ず、常論に非る也。孫子の所謂五事は、天下古今相通じて用ふるところの常論也。このゆゑに末に時制の字を加へ、之れを讀むものに心をつけたる也。

○孫子評註:天の字、火攻篇に其の一斑(部分。)を見る。陰陽(中国の易学で、天地間の万物を作り出す二つの相反する気をいう。日時・時節・方角の吉凶・年月の吉凶をはじめ、雲気・煙気の見方にいたるまで陰陽五行の説が兵法家に用いられた。)は其の虚なるもの、寒暑は其の實なるもの、時制とは、時中(時に従ってよろしきを得ること。臨機応変。)・時措(時に応じて適切にとりはからうこと。)・時習(機会あるたびに学ぶこと。)の字の例の如し。時に隨ひて宜しきを制する(とりはからう。)なり。先師云はく、「制の一字は天を用ふるの極法なり」と。

○曹公:天に順い誅め[誅-うちほろぼす]行う。陰陽四時の制に因る。故に司馬法に曰く、冬夏に師を興さず。民を兼愛する所以なり。

○孟氏:兵とは天運[自然のまわりあわせ]を法る[法-おきて。規則。]なり。陰陽とは剛柔盈縮なり。陰を用うれば則沈虚固静す。陽を用うれば則軽捷猛厲す。後は則陰を用ひ、先は則陽を用ふ。陰は蔽無きなり。陽は察無きなり。陰陽之象は定形無し。故に兵は天に法る。天は寒暑有り。生殺有り。天則殺に應じて物を制す。兵則機に應じて形を制す。故に天と曰うなり。

○杜佑:天に順い誅め行うを謂う。陰陽四時剛柔の制に因る。故に司馬法に曰く、冬夏は師を興さず。吾人を愛することを兼ねる所以なり。若し細雨軍を沐せば、機に臨みて必捷[捷-①すばやい。はやい。時間がかからない。②いくさに勝つ。かちいくさ。]有り。回風[つむじ風。旋風。]相觸れば、道還して功無し。雲の羣羊の類は必走の道なり。気の驚鹿の如きは、必敗の勢なり。気雲壘に出づりて、赤[大いに燃える火の色]黒ずんでいる]軍に臨むるは、皆敗の兆しなり。烟の若くして烟に非ずれば、此れ慶雲にして、必ず勝つ。霧の若くして霧に非ずれば、是泣軍なり。必ず敗る。是知風雲の占なり。其の来ること久しきなり。

○李筌:天に應じ、人に順い、時に因りて敵を制す。

○杜牧:陰陽とは五行刑徳向背の類是なり。今五緯の行い止むに最たるは據りて驗す可し。巫咸・甘氏・石氏・唐蒙・史墨・梓愼・裨竈の徒・皆著述有り。咸祕奥と稱し、其の指歸[(指し示すところに帰する意)結論として従うべきこと。模範。]を察するに、皆人事に本づくなり。準星經に曰く、歳星在る所之分あれば、攻める可からず。之を攻むれば反して其の殃を受くなり。左傳、昭の三十二年、夏、呉は越を伐つ。始めて師を越に用う。史墨に曰く、四十年及ばずして、越の其れ呉の有るや。越歳を得るに、呉之を伐つ。必ず其の凶を受く。註して曰く存亡の數三紀[一紀は十二支ひとまわり分。よって三紀は三十六年]に過ぎず。歳星三周三十六歳。故に四十年及ばざるを曰うなり。此の年歳[(中国で、周では「年」、夏では「歳」といった)①とし。②穀物。年穀。③年齢。]星紀[星紀-陰暦11月の異称。]に在らば、星紀に呉に分あるなり。歳星在る所、其の国福有り。呉先んじて兵を用う。故に其の殃を受く。哀の二十二年、越は呉を滅ぼす。此れに至りて三十八歳なり。李淳風曰く天下秦を誅す。歳星東井に聚まる。秦の政暴虐にして、歳星仁和の理を失う。歳星恭肅[うやまいつつしむ。]の道に違えば、諫を拒み讒を信ず。是故に胡亥滅亡に終わる。復曰く、歳星清明潤澤在る所の国分ありて大吉なり。君令時に合えば、則歳星光嘉なり。年の豊は人を安ずる。君の暴虐を尚び、人をして便らざら令むるは、則歳星色芒角にして怒れば則兵起こる。此の由に、之を言う。歳星在る所、或いは福徳有り。或いは災祥有り。豈皆人事に本ならずや。夫れ呉越の君、徳均勢にして敵して、闔閭師を興す。呑みて滅ぼさんと志すも、民の拯いと為るに非ず。故に歳星越を福して呉を禍す。秦の残酷は、天下之を誅す。上は天意に合う。故に歳星秦を禍して漢を祚す。熒りて惑わすは罰星なり。宋の景公一善言うを出づ。熒り惑わすもの三舎に移りて二十七年に延びる。此れを以て之を推すに、歳は善星と為るも、無道は福ならず。火は罰星と為るも、有徳を罰せず。此の二者を挙げるに、其の他知る可し。況や(まして)臨む所之に分かつ。其の政化の善悪に隨う。各其の本色を變じ、芒角の大小は、隨いて禍福と為す。各時に隨いてこれを占う。淳風曰く、夫れ形器は下を著す。精象は上に係る。近く之の身を取る。耳目は肝腎の用を為す。鼻口実に心腹し資する所、彼此影響し、豈然らず歟。易に曰く、天在りて象るを成し、地在りて形を成すは、変化を見すなり。蓋し人事に本づくにして已むなり。刑徳向背の説、尤も信に足らず。夫れ刑徳天官の陳、水に背して陳するものは絶紀を為す。山の坂に向かい陳するものは廢軍を為す。武王紂を伐つ。清水に背して山の坂に向かいて陳す。二萬二千五百人を以て紂の億萬の衆を撃つ。今目覩[(「睹」は見る意)実際に見ること。目撃。]す可きものは、国家元和自ずから已後、今三十年の閒、凡そ四趙寇を伐つ。昭義軍に加え數道の衆を以て常に十萬を號し、之臨城縣を圍む。其の南を攻め拔かず。其の北を攻めず拔かず。其の東を攻め拔かず。其の西を攻め拔かず。其れ四度之を圍み、通して十歳有り。十歳の内、東西南北、豈刑徳向背、王相[相-(内面の本質が)外面にあらわれたかたち。すがた。ありさま。]吉辰[よい時。めでたい日。きちにち。]有らんや。其の拔かざるは、豈城堅にして池深く、糧多くして人一なるを曰ざらんや[どうして~曰わないであろうか、曰うのである。]。復往事[過去の事柄]を以て之を驗すに、秦累世戦いて勝つ。竟に六國を滅ぼす。豈天道二百年間、常に乾方[いぬい。西北の方角]に在りて、福徳常に鶉首に居らざらんや。豈穆公已還りて、身を卑し士に趨き、耕戦に務め、法令明らかにして、之に致るを曰わざらんや。故に梁の恵王尉繚子に問いて曰く、黄帝刑徳有り。以て百戦百勝す可し。其れ之有らんや[どうして之有るだろうか、有りはしない。]。尉繚子曰く、然ず。黄帝所謂刑徳とは、刑を以て之を伐ち、徳を以て之を守る。世の所謂刑徳に非ざるなり。夫れ賢を擧げて能を用いる者は、時日をならずして利なり。法を明らかにし令を審らかにする者は、卜筮[卜法と筮法。亀甲を焼いてうらなうことと、筮竹(ぜいちく)を用いてうらなうこと。うらない。]せずして吉なり。功を貴び勞を養う者は、禱祠せずして福なり。周の武王紂を伐つ。師汜水の共頭山に次ぎ、風雨疾雷、鼓旗毀れ折れる。王の驂乗[貴人の車に陪乗すること。また、その人。]惶懼[おそれいること。恐懼。]して死なんと欲す。太公曰く、夫れ兵を用いる者は、天道に順いて未だ必ず吉ならず。之に逆らいて未だ必ず凶ならず。若し人事を失わば、則三軍敗れて亡びるなり。鬼神之を視るも見ず。之を聴くも聞かず。故に智者は法らず。愚者は之に拘わる。若し乃ち賢を好みて能に任せ、事を挙げて時を得れば、此れ時日を看ずして事を利するなり。卜筮假にせずして事は吉なり。禱祠を待たずして福は従う。遂に命之驅け前進す。周公曰く、今時太歳[暦の八将神の一神。木星の精で、その年の十二支と同じ方角に遊行し、この神の在る方角は吉とされる。ただしこの方角に向かって木を伐るのを忌むという。日本古来の穀神である歳の神とは別。大歳。太歳。]に逆らい、龜灼くは凶を言う。卜筮吉とせず。星凶にして災い為す。請う師を還さん。太公怒りて曰く、今紂此れ干りて剖かる。箕子[殷の貴族。名は胥余(しょよ)。伝説では、紂王(ちゅうおう)の暴虐を諫めたが用いられず、殷が滅ぶと朝鮮に入り、朝鮮王として人民教化に尽くしたとされる]囚われ、飛廉[①中国で、想像上の鳥。頭は雀のようで角を戴き、身は鹿のようで豹文があり、尾は蛇のようであるという。②中国で、風をつかさどるという神。風伯。]を以て政を為す。之を伐つことに何の不可有らん。[何の不可もないのだ。]枯草朽骨、安くんぞ知る可けんや[どうして知ることができようか]。乃ち龜を焚きて蓍を折る。衆を率いて先んじて渉り、武王之に従う。遂に紂を滅す。宋の高祖慕容超に於いて廣く固め圍みて、将に城を攻めんとす。諸将諌めて曰く、今往亡の日[往亡日-暦注の凶日の一つ。]にして、兵家の忌む所なり。高祖曰く我往きて彼亡ぶ。吉孰れぞ大なれば、乃ち命悉く登る。遂に廣く固めて克つ。後魏太祖武帝後燕慕容鱗を討つ。甲子晦日に軍を進める。太史令鼂崇奏して曰く、昔紂甲子の日を以て亡ぶ。帝曰く、周武豈甲子の日を以て興さざらんや。崇以て對え無し。遂に戦いて之を破る。後魏太武帝夏赫連昌の統萬城に征き、師の城下に次ぎ、昌に鼓を噪がせ前にすれば、會ち風雨有りて賊後に従い来る。太史進みて曰く、天人を助けず、将士飢渇す。願わくは且つ之を避けよ。崔浩曰く、千里に勝を制し、一日豈變易を得て、風道人に在らんや。豈常有らんや。待ちて之に従いて、昌に軍大敗す。或るひと曰く、此の如きものは、陰陽向背、定めて信に足らず。孫子之を敍して何ぞや。答えて曰く、夫れ暴君昏主、或いは一瑤一馬を為せば、則必ず人を殘い志を逞しくす。天道鬼神を以てするに非ず。誰か能く制止せん。故に孫子之を敍するに、蓋し深旨有り。寒暑時の気[時の気-はやりやまい。えやみ。疫病。]、其の行くを止めるに節制[度をこさないようにほどよくすること。ひかえめにすること。]するなり。周瑜孫権の為に曹公四敗を數う。一に曰く、今盛寒なり。馬藁草無くして、中国の士衆驅ける。遠くして江湖を渉るも、水土[水と陸地。土地。転じて、その土地の自然の環境。風土。]を習わず。必ず疫病を生む。此れ兵を用いるの忌なり。寒暑同じにして天の時に歸す。故に聯ねて以て之を敍するなり。

○賈林:時制を讀み時気を為す。其の善なる時に従い、其の気候の利を占うを謂うなり。

○梅堯臣:兵必ず天道に參す。気候に順い、時を以て之を制す。所謂制なり。司馬法に曰く、冬夏に師を興さず。民を兼愛する所以なり、と。

○王晳:陰陽を謂うは天道五行四時風雲気象を總するなり。善なるは之を消息し、以て軍勝の助けとす。然るに異人の特に其の訣[秘伝。奥義]を授けるに非ざれば、則未だ由あらずなり。黄石書を張良に授けるは乃ち太公の兵法の若し是なり。意とする者は、豈天機神密なるは常人の知り得る所に非ざらんや。其れ諸十數家紛紜[物事がいりみだれるさま。もめごと。ごたごた。紛擾(ふんじょう)。]し、抑未だ以て審らかに取るに足らざるなり。寒暑は呉起の疾風大寒盛夏炎熱を云うが若きの類なり。時制は時の利害に因りて宜しきを制するなり。范蠡云わく、天は時を作らず。人は客を為さ弗是なり。

○張預:夫れ陰陽は弧虚向背之を謂うなり。蓋し兵は自ずから陰陽有るのみ。范蠡曰く、後なれば則陰を用い、先なれば則陽を用う。敵陽節を盡くせば、吾陰節盈ちて之を奪う。又云わく、右を設けて牝と為し、左を益して牡と為す。早晏以て天道に順う。李衛公の解に曰く、左右とは人の陰陽なり。早晏とは天の陰陽なり。奇正とは天人相變の陰陽なり。此れ皆言うは兵自ずから陰陽剛柔の用有り。天官日時の陰陽に非ざるなり。今尉繚子天官の篇を觀れば、則義最も明らかなり。太白陰経亦天は陰陽無しの篇有り。皆著して巻首と為す。以て世人の惑を決するを欲するなり。太公曰く、聖人は後世の亂を止どむるを欲するなり。故に為に譎書を作る。以て勝は天道に寄り、兵に益無しなり。是亦然りなり。唐太宗亦曰く凶器は兵に甚だ無し。兵の行くは苟も人事に便る。豈避忌を以て疑いを為さんや。寒暑とは冬夏に師を興すを謂うなり。漢匈奴を征す。士の多くは指墮ちる。馬援蠻を征す。卒の多くは疫死す。皆冬夏に師を興すの故なり。時制とは天時に順いて征討[服従しない者を攻め討つこと。征伐。]を制するを謂うなり。太白陰経天時に言う者は乃ち水旱蝗雹荒亂の天時なり。弧虚向背の天時に非ざるなり。


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天、即ち勝つための法則とは、敵のあらゆる二気の消長を捉え、準備を怠りなく行い自軍の有利となる好機を待つということと、冬夏に戦争をするには困難を伴うため慎重に好機を待つということである。戦いに勝つには、敵の態勢に順逆(順序が正しいことと逆であること。道理にかなうこととかなわないこと。恭順であることと反逆すること。)をもって対処する(つまり結果として敵の無防備の所、または敵が思いもよらない所を攻める)のである。


○浅野孫子:二の天とは、日かげと日なた、気温の寒い暑い、四季の推移のさだめや、天に対する順逆二通りの対応、及び天への順応がもたらす勝利などのことである。

○金谷孫子:[第二の]天とは、陰陽や気温や時節[などの自然界のめぐり]のことである。

○天野孫子:第二の天とは、天候上の明暗と、気候と、時の変化についての法則とを言う。

○武岡孫子:天とは天候・気象条件(明暗の度・寒暑・天文現象)に応じてとられる作戦指導の変化。

○大橋孫子:天とは自然現象。

○フランシス・ワン孫子:天候・気象条件によって、自然(天地の運行)の人間に及ぼす力、即ち、冬の寒さや夏の暑さなどの影響を考慮して、夫々の季節に応じてとられる彼我の作戦指導の変化を知るのである。

○著者不明孫子:天とは、陰陽や寒暑のぐあいなど、よい時期を選ぶことである。

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