2012-06-15 (金) | 編集 |
孫子 兵法 大研究!
本文注釈:孫子 兵法 大研究!
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『怒にして之れを撓め、』:本文注釈
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この文の解釈にも諸説ある。「怒」について言えば、
①相手が「怒」っている、
②こちらが「怒」っている(怒りを示している)、
③相手を「怒」らす、
という三種類の解釈がある。
「撓」の解釈も諸説あり、
①曲げるの意味で、いなす。弱らせる。
②かき乱す。
の二種類が主である。
また、「能なるも之に不能を示し~強にして之を避く」までは、二つの文を連続させて解釈する注釈者も多かったが、この文以降からは単独で解釈されるのが一般的である。孫子が「乱」の字を用いず、「撓」の字を用いたのは、「心理的に動揺させる」、という意味をつたえたかったためであろう。この文は、戦場においても、外交においても応用できる。ただし、戦場においては、戦の直前や、混戦となれば常に双方から怒号が飛び交うので、自分を奮い立たせるには「怒」を示すことは効果があるだろうが、相手を撓ませる効果は相手を劣勢に追い込んでからでないとあまり期待できないであろう。例えば相手を退却に追い詰めた場合などには、最大の効果を発揮すると思われる。
この『怒にして之を撓め、卑にして之を驕らす』の文は本来、外交上の「詭道」を示していたものと思われる。よって、この二句は連続した解釈をとる。ここでは、「外交において、相手に『怒』を示すことで、相手を立場上弱くして(弱国に対しては怒りを示すだけでうろたえさせることができ、強国に対しては天下に義や信を問うことで激しい感情をこちらから示し相手の心情を惑わせる。)心を乱させる。」という意味となる。
ここでもうひとつの解釈を示してみる。
「怒而撓之~親而離之」まで、すべて「而」の字を挟み反対語を並べている。つまり、「怒」と「撓」、「卑」と「驕」、「佚」と「労」、「親」と「離」はすべて反対の意味を為す。前者が有利で、後者が不利の状態を指す。これらの句の前に「能なるも之れに不能を示し、用なるも之れに不用を示す」の文がある。よってこれらの反対語同士の前者が「能」で、後者が「不能」であるから、「怒(気張って猛り狂う)」の状態であっても、「撓(気力がない)」の状態に見せかける、という意味となり、また、後続文も取り上げてみると、「卑・佚・親」の状態が本来の姿であっても、敵には「驕・労・離」の状態にみせる、という解釈が成り立つ。この場合「○なるも之れを○せしむ」と読む。
また、後述の文で、「先には伝う可からざるなり」とあるが、これは「詭道」は予め前もって伝えることができないものである、という意味である(この文の意味は、各注釈者の訳を参照すると、さらに三つに細分化されることが分かる。)。この文の意を各句に反映させると、「怒・卑・佚・親」なれば「撓・驕・労・離」にするという解釈が成り立つが、ここには主体性がなく、敵に優位性があったならば劣勢に転じさせるといった受動的な意味しかないとも捉えることができる。また、この意味では、敵を欺く意思がどこにも存在しない。よって、「○なれば○」という解釈は不適切であることが分かる。
怒-①腹を立てる。いかる。②たけりくるう。【解字】形声。「心」+音符「奴」(=力をはりつめる)。気ばる、気ばっていかる意。
撓-しな・う【撓う】シナフ 逆らわずにしたがう。
たお・む【撓む】タヲム 気力がなくなる。気力をなくす。
たわ・む【撓む】 ①おされてまがる。しなう。ゆがむ。②つかれていやになる。気力がなくなる。たゆむ。
註
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○金谷孫子:撓-敵の怒りに乗じて精神的にかき乱すこと。
○浅野孫子:撓-敵の態勢を攪乱すること。
○天野孫子:怒而撓之-味方が故意に怒りを示して敵をかき乱す。この句は次の句と対になっているので、このように解する。『評註』は「怒とは我、怒を示すなり」と。『折衷』は「時ありてか威怒を示して之を屈撓す」と。一説に「怒らして之を撓す」と読み、敵を怒らして、敵を混乱させると。『諺義』は「彼を怒るごとく致して、其心をみだすべし。怒る時は必ず無理の行をなす」と。この意に解するものが多いが、これでは次の句と対にならない。また一説に「怒れば之を撓す」と読み、孟氏は「敵人盛んに怒れば当に之を屈擾すべし」と。これは詭道にならない。
○フランシス・ワン孫子:一、戦争に於ける君主(最高政治指導者)と将軍(最高軍事指導者)ほど手腕の発揮・功名手柄を期待され、一方、彼ら自身その誘惑に駆られる地位もないであろう。また、これほどに嫉妬と愛憎・毀誉褒貶の嵐が吹きまき、人間がその本性上の弱点と欠陥を露呈、以て国家の運命に至大の影響を与える葛藤の場もないのではなかろうか、と言われている。まことに、それは、凡庸の人物では到底その職責を全うすることのできぬ至難にして危険な地位であり、孫子が「進みて名を求めず、退きて罪を避けず、唯だ民を是れ保ちて、利を主に合わす」(地形篇)精神と器量を有する「国の宝」ともいうべき人物にして、はじめてつき得る地位である、と言う所以である。しかし、古今東西、実際にその地位につくのは、意外に貧弱な人物が多いのである。また、たまたま、「智・信・仁・勇・厳」の諸徳を体した理想の将帥が登庸されるという国家にとっての幸運に恵まれた場合に於ても、周囲は必ずしも喜びとせず、却ってその長所を以て乗ずべき短所とし、没落を図るのである。我国では大楠公の場合の如きである。また、独裁者によく見られる所であるが、ナポレオンやヒットラー、或いは支那歴代の創業の帝王の如き一世の雄であっても、やがて、本人自身がその長所を短所とする精神の衰えの時機を迎えるに至るのが通例である。古来「人間世界の事、また難い哉」の歎が繰り返される所以である。
一、しかし、敵手の立場に立った場合、このことを利用しない手はないのである。実際、そこには、勝敗の如何を問わず-つまり、勝利の場合はその勝利を、敗北の場合はその敗北をめぐって-やがて必ず不和・葛藤が生ずるのであり、特に戦勢非なる場合は然りである。ドゴールは次の如く言っている。「共存すべき政府と軍司令部の不和は、戦争の歴史、つまり世界の歴史と同じくらい古いものであり、その処方箋を、各民族は叡知を絞って捜し求めてきた。今日でさえ数々の提言がなされている。果して人間はこの至難な軍事と政治の関係を調整しうるものであろうか」と。してみれば、敵手にとっては、相手がたとえ完璧な関係にあると思える場合でも、心理的策謀を用うる余地は必ずあることを確信すべきである。曹操は「その(精神的・心理的)衰懈(すいかい)(衰え)を待つなり」と註している。
一、敵手の「怒らして之を撓(たわ)む(撓(みだ)す)」方略によって、相手の指導者が苛だって精神を惑乱させ、戦争指導を誤った最近の例としては、ベトナム戦争に於ける米国の大統領ジョンソンがあげられよう。この場合、敵手であるベトナムが用いた方略の主体は、米国民に対しては勿論、広く世界に亙り行った世論工作である。なお、孫子は、本項に言う所を、九変篇に於て「将の五危」として取り上げ、味方の戒めとすると共に、敵に対して積極的に利用すべき心理作戦として説明している。
一、本項は「怒なれば(若しくは、怒れば)、而(すなわ)ち之を撓む(撓す)」とも読み、敵が熱(いき)り立ってその勢が猛烈な場合は、之を惑乱して奔命に疲らしむるの意と解するテキストもある。また、「怒りて之を撓む」と読む者もいる。この場合は、怒るのは我が方で、故意に怒って敵を混乱に導く恫喝作戦のことと解するのである。これが、米・ソの弱国に対する常套手段であることは、指摘するまでもあるまい。
○守屋孫子:わざと挑発して消耗させ、
○重沢孫子:「怒りて之を撓(よわ)からしめ、」-わが軍の威厳をことさらにひけらかして、敵の士気を弱める。
○佐野孫子:【校勘】「怒而撓之、卑而驕之。佚而労之、親而離之」 「十一家註本」、「武経本」は「怒而撓之、卑而驕之。佚而労之、親而離之」と作るが、「竹簡孫子」には「怒而撓之」とあり「卑而驕之。佚而労之、親而離之」の三句が無い。「竹簡孫子」の写し漏れか、将又、前漢(西漢)以降附加された後人の敷衍の文かとも思われるが、ある方が文意がより明快となるためここでは「十一家註本」、「武経本」に従う。 【語釈】◎怒而撓之 「撓」は「撓乱(どうらん)」で「かき乱す」の意。
○著者不明孫子:【怒而撓之】 「怒」は敵がいきりたって猛烈な勢いであること。「撓」は音ダウ。乱す、曲げる、たわめるなどの意。勢いをそらす、いなすこと。
○孫子諺義:「怒らしめて之れを撓(みだ)し、」 彼れをいかるごとくいたして、其の心をみだすべし。怒るときは必ず無理の行をなす、このゆゑにいからしめてみだす也。撓は亂也。本よりかれ怒る心ふかきときは、猶ほ以ていかるごとくいたしかけてみだらしむる也。
○孫子国字解:「怒らして之を撓(みだ)し、」 敵武功の将にして、輙[輒-すなわち。そのたびごとに。[輙]は異体字。]く勝利を得がたき時、其将短慮なりと知らば、計を以て是を怒らすべし。易にも、身を脩るみちを説きて、忿を懲(こら)し、慾を窒(ふさぐ)くと云へる。二つばかりを擧玉へり。さばかりの人も、制し難きは怒なり。怒る時は、兼ての計略をもかきみだされて、必敵を侮り、すまじき合戦をもするものなれば、是又方略の一つなり。されども尉繚子に、寛なれば激して怒らす可からずと云へり。生れつき寛大なる人には、怒るべき様なることをすれども、曾て動ぜぬ人あり。諸葛孔明、司馬仲達と對陣せし時、仲達戦へば必孔明に破らるることを知りて、様々にすれども、壘を堅くして兵を出さず、其時孔明、巾幗[きん‐かく【巾幗】‥クワク 女性の頭の飾り、または、喪中にかぶる頭巾。転じて、女性。]と云ものを贈れり。女のかふりものなり。臆病なること女の如し。おのここの気概はなきとて、仲達をあざけりたる意なり。されども仲達動せざりしかば、孔明もせんかたなかりき。是又尉繚子の心なり。
○曹公:其の衰懈を待つなり。
○孟氏:敵人盛んに怒らしめて、當に之を屈擾すべし。
○李筌:将の多いに怒る者は、権必ず亂れ易し。性は堅からず。漢の相 陳平 楚の權を撓めんと謀り、太牢[たい‐ろう【大牢・太牢】‥ラウ [礼記[王制]]①中国で、天子が社稷(しゃしょく)をまつる時の供物、すなわち牛・羊・豚の3種の犠牲(いけにえ)。②転じて、立派な御馳走。③江戸小伝馬町の牢屋敷のうち、人別帳に原籍を有する庶民の犯罪者を入れる雑居房。]の具えを以て楚の使いに進む。驚き是れ亜父の使いや。乃(なんじ)項王の使いや。此れ怒らしめて之を撓ます者なり。
○杜牧:大将剛にして戻る[①もとる。そむく。道理にはずれる。②もとの位置・状態にもどす。もどる。【解字】会意。「戸」(=とびら)+「犬」。とじこめられた犬があばれて言うことをきかない意。②は日本での用法。]者は、之を激して怒ら令める可ければ、則ち志を逞しく意を快にす。士氣撓亂し、本より謀顧みざるなり。
○梅堯臣:彼れ褊急[へん‐きゅう【偏急・褊急】‥キフ 度量が狭くて性急なこと。]にして怒り易ければ、則ち之を撓め憤急輕戦せ使む。
○王晳:敵 持重[じ‐ちょう【持重】ヂ‥ 軽々しくふるまわないこと。大事をとって動かないこと。]すれば、則ち激怒を以て之を撓めん。
○何氏:怒りて之を撓めるとは、漢兵 曹咎(そうきゅう)を汜水に撃つは是れなり。
○張預:彼の性 剛忿なれば則ち之を辱め怒ら令む。士氣撓め惑わせば、則ち謀らずして輕進す。晉人 苑春を執るに以て楚を怒らすが若くは是れなり。尉繚子に曰く、寛なれば激して怒る可からず。言うこころは性 寛なる者は則ち激怒して之を致す可からざるなり。
意訳
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○金谷孫子:[敵が]怒りたけっているときはそれをかき乱し、
○浅野孫子:敵が怒りはやっているときは、わざと挑発して敵軍の態勢をかき乱す。
○町田孫子:怒りたけっているものは攪乱し、
○天野孫子:味方がわざと怒りを示して敵をかき乱したり、
○フランシス・ワン孫子:敵将は苛(いら)だたせ、その精神を惑乱させよ。
○大橋孫子:敵を脅してその勢いをくじき、
○武岡孫子:敵を苛立たせて相手の心をかき乱したり、
○著者不明孫子:憤激していればいなし、
○学習研究社孫子:敵の戦闘意欲が高揚している時は、衝突せずにかわす。
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この文の解釈にも諸説ある。「怒」について言えば、
①相手が「怒」っている、
②こちらが「怒」っている(怒りを示している)、
③相手を「怒」らす、
という三種類の解釈がある。
「撓」の解釈も諸説あり、
①曲げるの意味で、いなす。弱らせる。
②かき乱す。
の二種類が主である。
また、「能なるも之に不能を示し~強にして之を避く」までは、二つの文を連続させて解釈する注釈者も多かったが、この文以降からは単独で解釈されるのが一般的である。孫子が「乱」の字を用いず、「撓」の字を用いたのは、「心理的に動揺させる」、という意味をつたえたかったためであろう。この文は、戦場においても、外交においても応用できる。ただし、戦場においては、戦の直前や、混戦となれば常に双方から怒号が飛び交うので、自分を奮い立たせるには「怒」を示すことは効果があるだろうが、相手を撓ませる効果は相手を劣勢に追い込んでからでないとあまり期待できないであろう。例えば相手を退却に追い詰めた場合などには、最大の効果を発揮すると思われる。
この『怒にして之を撓め、卑にして之を驕らす』の文は本来、外交上の「詭道」を示していたものと思われる。よって、この二句は連続した解釈をとる。ここでは、「外交において、相手に『怒』を示すことで、相手を立場上弱くして(弱国に対しては怒りを示すだけでうろたえさせることができ、強国に対しては天下に義や信を問うことで激しい感情をこちらから示し相手の心情を惑わせる。)心を乱させる。」という意味となる。
ここでもうひとつの解釈を示してみる。
「怒而撓之~親而離之」まで、すべて「而」の字を挟み反対語を並べている。つまり、「怒」と「撓」、「卑」と「驕」、「佚」と「労」、「親」と「離」はすべて反対の意味を為す。前者が有利で、後者が不利の状態を指す。これらの句の前に「能なるも之れに不能を示し、用なるも之れに不用を示す」の文がある。よってこれらの反対語同士の前者が「能」で、後者が「不能」であるから、「怒(気張って猛り狂う)」の状態であっても、「撓(気力がない)」の状態に見せかける、という意味となり、また、後続文も取り上げてみると、「卑・佚・親」の状態が本来の姿であっても、敵には「驕・労・離」の状態にみせる、という解釈が成り立つ。この場合「○なるも之れを○せしむ」と読む。
また、後述の文で、「先には伝う可からざるなり」とあるが、これは「詭道」は予め前もって伝えることができないものである、という意味である(この文の意味は、各注釈者の訳を参照すると、さらに三つに細分化されることが分かる。)。この文の意を各句に反映させると、「怒・卑・佚・親」なれば「撓・驕・労・離」にするという解釈が成り立つが、ここには主体性がなく、敵に優位性があったならば劣勢に転じさせるといった受動的な意味しかないとも捉えることができる。また、この意味では、敵を欺く意思がどこにも存在しない。よって、「○なれば○」という解釈は不適切であることが分かる。
怒-①腹を立てる。いかる。②たけりくるう。【解字】形声。「心」+音符「奴」(=力をはりつめる)。気ばる、気ばっていかる意。
撓-しな・う【撓う】シナフ 逆らわずにしたがう。
たお・む【撓む】タヲム 気力がなくなる。気力をなくす。
たわ・む【撓む】 ①おされてまがる。しなう。ゆがむ。②つかれていやになる。気力がなくなる。たゆむ。
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○金谷孫子:撓-敵の怒りに乗じて精神的にかき乱すこと。
○浅野孫子:撓-敵の態勢を攪乱すること。
○天野孫子:怒而撓之-味方が故意に怒りを示して敵をかき乱す。この句は次の句と対になっているので、このように解する。『評註』は「怒とは我、怒を示すなり」と。『折衷』は「時ありてか威怒を示して之を屈撓す」と。一説に「怒らして之を撓す」と読み、敵を怒らして、敵を混乱させると。『諺義』は「彼を怒るごとく致して、其心をみだすべし。怒る時は必ず無理の行をなす」と。この意に解するものが多いが、これでは次の句と対にならない。また一説に「怒れば之を撓す」と読み、孟氏は「敵人盛んに怒れば当に之を屈擾すべし」と。これは詭道にならない。
○フランシス・ワン孫子:一、戦争に於ける君主(最高政治指導者)と将軍(最高軍事指導者)ほど手腕の発揮・功名手柄を期待され、一方、彼ら自身その誘惑に駆られる地位もないであろう。また、これほどに嫉妬と愛憎・毀誉褒貶の嵐が吹きまき、人間がその本性上の弱点と欠陥を露呈、以て国家の運命に至大の影響を与える葛藤の場もないのではなかろうか、と言われている。まことに、それは、凡庸の人物では到底その職責を全うすることのできぬ至難にして危険な地位であり、孫子が「進みて名を求めず、退きて罪を避けず、唯だ民を是れ保ちて、利を主に合わす」(地形篇)精神と器量を有する「国の宝」ともいうべき人物にして、はじめてつき得る地位である、と言う所以である。しかし、古今東西、実際にその地位につくのは、意外に貧弱な人物が多いのである。また、たまたま、「智・信・仁・勇・厳」の諸徳を体した理想の将帥が登庸されるという国家にとっての幸運に恵まれた場合に於ても、周囲は必ずしも喜びとせず、却ってその長所を以て乗ずべき短所とし、没落を図るのである。我国では大楠公の場合の如きである。また、独裁者によく見られる所であるが、ナポレオンやヒットラー、或いは支那歴代の創業の帝王の如き一世の雄であっても、やがて、本人自身がその長所を短所とする精神の衰えの時機を迎えるに至るのが通例である。古来「人間世界の事、また難い哉」の歎が繰り返される所以である。
一、しかし、敵手の立場に立った場合、このことを利用しない手はないのである。実際、そこには、勝敗の如何を問わず-つまり、勝利の場合はその勝利を、敗北の場合はその敗北をめぐって-やがて必ず不和・葛藤が生ずるのであり、特に戦勢非なる場合は然りである。ドゴールは次の如く言っている。「共存すべき政府と軍司令部の不和は、戦争の歴史、つまり世界の歴史と同じくらい古いものであり、その処方箋を、各民族は叡知を絞って捜し求めてきた。今日でさえ数々の提言がなされている。果して人間はこの至難な軍事と政治の関係を調整しうるものであろうか」と。してみれば、敵手にとっては、相手がたとえ完璧な関係にあると思える場合でも、心理的策謀を用うる余地は必ずあることを確信すべきである。曹操は「その(精神的・心理的)衰懈(すいかい)(衰え)を待つなり」と註している。
一、敵手の「怒らして之を撓(たわ)む(撓(みだ)す)」方略によって、相手の指導者が苛だって精神を惑乱させ、戦争指導を誤った最近の例としては、ベトナム戦争に於ける米国の大統領ジョンソンがあげられよう。この場合、敵手であるベトナムが用いた方略の主体は、米国民に対しては勿論、広く世界に亙り行った世論工作である。なお、孫子は、本項に言う所を、九変篇に於て「将の五危」として取り上げ、味方の戒めとすると共に、敵に対して積極的に利用すべき心理作戦として説明している。
一、本項は「怒なれば(若しくは、怒れば)、而(すなわ)ち之を撓む(撓す)」とも読み、敵が熱(いき)り立ってその勢が猛烈な場合は、之を惑乱して奔命に疲らしむるの意と解するテキストもある。また、「怒りて之を撓む」と読む者もいる。この場合は、怒るのは我が方で、故意に怒って敵を混乱に導く恫喝作戦のことと解するのである。これが、米・ソの弱国に対する常套手段であることは、指摘するまでもあるまい。
○守屋孫子:わざと挑発して消耗させ、
○重沢孫子:「怒りて之を撓(よわ)からしめ、」-わが軍の威厳をことさらにひけらかして、敵の士気を弱める。
○佐野孫子:【校勘】「怒而撓之、卑而驕之。佚而労之、親而離之」 「十一家註本」、「武経本」は「怒而撓之、卑而驕之。佚而労之、親而離之」と作るが、「竹簡孫子」には「怒而撓之」とあり「卑而驕之。佚而労之、親而離之」の三句が無い。「竹簡孫子」の写し漏れか、将又、前漢(西漢)以降附加された後人の敷衍の文かとも思われるが、ある方が文意がより明快となるためここでは「十一家註本」、「武経本」に従う。 【語釈】◎怒而撓之 「撓」は「撓乱(どうらん)」で「かき乱す」の意。
○著者不明孫子:【怒而撓之】 「怒」は敵がいきりたって猛烈な勢いであること。「撓」は音ダウ。乱す、曲げる、たわめるなどの意。勢いをそらす、いなすこと。
○孫子諺義:「怒らしめて之れを撓(みだ)し、」 彼れをいかるごとくいたして、其の心をみだすべし。怒るときは必ず無理の行をなす、このゆゑにいからしめてみだす也。撓は亂也。本よりかれ怒る心ふかきときは、猶ほ以ていかるごとくいたしかけてみだらしむる也。
○孫子国字解:「怒らして之を撓(みだ)し、」 敵武功の将にして、輙[輒-すなわち。そのたびごとに。[輙]は異体字。]く勝利を得がたき時、其将短慮なりと知らば、計を以て是を怒らすべし。易にも、身を脩るみちを説きて、忿を懲(こら)し、慾を窒(ふさぐ)くと云へる。二つばかりを擧玉へり。さばかりの人も、制し難きは怒なり。怒る時は、兼ての計略をもかきみだされて、必敵を侮り、すまじき合戦をもするものなれば、是又方略の一つなり。されども尉繚子に、寛なれば激して怒らす可からずと云へり。生れつき寛大なる人には、怒るべき様なることをすれども、曾て動ぜぬ人あり。諸葛孔明、司馬仲達と對陣せし時、仲達戦へば必孔明に破らるることを知りて、様々にすれども、壘を堅くして兵を出さず、其時孔明、巾幗[きん‐かく【巾幗】‥クワク 女性の頭の飾り、または、喪中にかぶる頭巾。転じて、女性。]と云ものを贈れり。女のかふりものなり。臆病なること女の如し。おのここの気概はなきとて、仲達をあざけりたる意なり。されども仲達動せざりしかば、孔明もせんかたなかりき。是又尉繚子の心なり。
○曹公:其の衰懈を待つなり。
○孟氏:敵人盛んに怒らしめて、當に之を屈擾すべし。
○李筌:将の多いに怒る者は、権必ず亂れ易し。性は堅からず。漢の相 陳平 楚の權を撓めんと謀り、太牢[たい‐ろう【大牢・太牢】‥ラウ [礼記[王制]]①中国で、天子が社稷(しゃしょく)をまつる時の供物、すなわち牛・羊・豚の3種の犠牲(いけにえ)。②転じて、立派な御馳走。③江戸小伝馬町の牢屋敷のうち、人別帳に原籍を有する庶民の犯罪者を入れる雑居房。]の具えを以て楚の使いに進む。驚き是れ亜父の使いや。乃(なんじ)項王の使いや。此れ怒らしめて之を撓ます者なり。
○杜牧:大将剛にして戻る[①もとる。そむく。道理にはずれる。②もとの位置・状態にもどす。もどる。【解字】会意。「戸」(=とびら)+「犬」。とじこめられた犬があばれて言うことをきかない意。②は日本での用法。]者は、之を激して怒ら令める可ければ、則ち志を逞しく意を快にす。士氣撓亂し、本より謀顧みざるなり。
○梅堯臣:彼れ褊急[へん‐きゅう【偏急・褊急】‥キフ 度量が狭くて性急なこと。]にして怒り易ければ、則ち之を撓め憤急輕戦せ使む。
○王晳:敵 持重[じ‐ちょう【持重】ヂ‥ 軽々しくふるまわないこと。大事をとって動かないこと。]すれば、則ち激怒を以て之を撓めん。
○何氏:怒りて之を撓めるとは、漢兵 曹咎(そうきゅう)を汜水に撃つは是れなり。
○張預:彼の性 剛忿なれば則ち之を辱め怒ら令む。士氣撓め惑わせば、則ち謀らずして輕進す。晉人 苑春を執るに以て楚を怒らすが若くは是れなり。尉繚子に曰く、寛なれば激して怒る可からず。言うこころは性 寛なる者は則ち激怒して之を致す可からざるなり。
意訳
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○金谷孫子:[敵が]怒りたけっているときはそれをかき乱し、
○浅野孫子:敵が怒りはやっているときは、わざと挑発して敵軍の態勢をかき乱す。
○町田孫子:怒りたけっているものは攪乱し、
○天野孫子:味方がわざと怒りを示して敵をかき乱したり、
○フランシス・ワン孫子:敵将は苛(いら)だたせ、その精神を惑乱させよ。
○大橋孫子:敵を脅してその勢いをくじき、
○武岡孫子:敵を苛立たせて相手の心をかき乱したり、
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