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孫子研究ブログです。孫子兵法は別名『孫子兵経』、『SUNTZU』、『The Art of WAR』ともよばれています。ナポレオンや毛沢東も愛読していました。注釈者には曹操、杜牧、山鹿素行、荻生徂徠、新井白石、吉田松陰、等の有名人も多いです。とにかく深いです。

孫子 兵法 大研究!トップ⇒本文注釈:孫子 兵法 大研究!
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2012-11-30 (金) | 編集 |
孫子 兵法 大研究!

本文注釈:孫子 兵法 大研究!

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『故に盡く用兵の害を知らざる者は、則ち盡く用兵の利を知ること能わざるなり。』:本文注釈

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この文は、利だけに頭がいっていたんでは害がその身に及ぶことを言っている。利と害の両面を考慮しなければならないということである。とかく、人間はうまい話には乗りやすい。常識を考えれば怪しいと分かるものも、目先の大きな利益の前には屈しやすいのである。

盡-①つくす。ありったけを出しきる。②つきる。すっかりなくなる。きわまる。③みそか。つごもり。④ことごとく。すべて。全部。【解字】形声。音符(=はけで清める)+「皿」。皿の残り物やよごれをはけで除去しつくす意。

害-①そこなう。悪い状態にする。傷つける。②わざわい。不利益。③攻めるのにさまたげとなる所。【解字】会意。上半部は、かぶせる意。下半部「古」は、あたま。頭をおさえて進行のじゃまをする意。





○天野孫子:○不尽知用兵之害 「尽知」は知り尽くす。すみずみまで先々まで知る。「用兵」は戦争を行なうこと。

○フランシス・ワン孫子:註
 一、本項は、「故に、用兵の害を知ることを尽くさざる者は、則ち、用兵の利を知ることを尽くす能わず」とも読まれている。
 一、ところで、この要望に応え得る人物はいるであろうか。古来各国の腐心する所である。このため、現在では、「先見の明ある国家では、万一の場合に備えて、共同研究を通じて、国家の戦争努力を指導する政治・行政・軍事の各エリートを養成せんとしている」(ドゴール)のである。無論、すべての人事がそうである如く、このこととて常に成功しているわけではない。むしろ失敗の方が多いというべきかも。しかも、各国の努力は真剣であり、国民もまた、そのような機関・制度の存在を当然としている。
 一、然るに、大戦後の我国では、反対に、有能な頭脳的中枢部の存在の必要に対する認識は失われ、その再建を怠ったまま今日に至っているのが実情である。言うまでもなく、その理由の一つには、アメリカの教うるシビリアン・コントロールの優越性を、格別の根拠がないにも拘らず、信仰として受け入れていることがある。しかし、シビリアン・コントロールの優越性・信頼性を普遍的なものとする所説が、一つの時代の産物に過ぎずいかに観念的なものであるかは、当のアメリカで、弁護士出身者と地方利益の代表者からなる政治家達が行っている政・戦略指導の実態と、それが、世界の混乱の因となるだけではなく、自国の衰運に拍車をかけるものとなっている有様を見れば明らかであろう。この担うべき責任と能力が一致し難い問題、つまり、国家の政・戦略指導のために最高の資質・能力(頭脳)を有する人物を登用し一つの組織として結集すべき問題の解決に於ても、我々は、もはや他国の物真似或いは僥倖に頼ることは許されず、独自の道を求めねばならぬ時を迎えつつあるのである。しかし、現在の我国には、このための本格的所論は現れず、あるのは、依然として反戦感情に基づく所論だけである。

○守屋孫子:それ故、戦争による損害を十分に認識しておかなければ、戦争から利益をひき出すことはできないのだ。

○田所孫子:○不尽知用兵之害者とは、戦争の害を知りつくさないものとの意。
 ○不能尽知用兵之利也とは、戦争の利を知りつくすことができぬとの意。

○重沢孫子:それ故に用兵の害を理解しつくしていなければ、用兵の利を徹底して理解することはできない。

○孫子諺義:『故に盡く兵を用ふるの害を知らざるときは、則ち盡く兵を用ふるの利を知ること能わざるなり。』
 兵を用ふるの害とは、十萬の兵日につひやす所、及び久しく師に及んで内外つひえる處、皆是れ兵を用ふるの害也。此の害を能く知るときは、害をさけて利につくの謀を用ふ。故に用兵の利を知る也。利と害と損と得と成と敗とは、表裏にして離れず。利をしらんとならば、其の害を詳にいたすにあるべき也。孫子始計の發端兵の大事を云ひ、この篇用兵内外のつひえを論ず、是れ悉く用兵の害をしらしめんがため也。凡そ上兵は利害相交交謀る、このゆゑによく害を考へて其の利を知る。下兵は我が利あることばかりを考へて、害をはからざるゆゑに、つまづいて敗亡をとる也。

○孫子国字解:『故に兵を用るの害を盡く知ざる者は、則兵を用の利を盡く知こと能わざるなり。』
 是又久戦の害を、上の文に云へるを承けて、利害の道理を説けり。用兵之害とは、軍をして害のあることを云へり。用兵之利とは、軍をして益のあることを云へり。盡知とは、入りくますみすみ迄のこる處なく、二重三重の先きまでをも知りつくすことなり。凡利害は付て離れぬものにて、天地の間に於て一切のこと、何事によらず、利あれば害あり、害あれば利あり、利ありて害なきことなく、害ありて利なきことなし。施子美が説に、蘇先生曰、其敗を見て後に其の成を見、其の害を見て後に其の利を見る。心閑かに無事、是以此の若く明也と云を引けり。まことに平心にて見る時は、上智の人ならずとも、利害明かに盡して、くらきことはあるまじけれども、總じて軍をすることは、或は貪欲の心より、國郡を取んとし、或は驕慢の心より、威權をふるはんとするゆへ起ることなれば、大形は軍をして利のあることをのみ思て、害のある處へは心づかず、是利に惑ふ所より、其心蔽ひ昧(くら)まされて、其害甚しけれども覺えぬなり。故に孫子上の文にも、軍に費多く害多く、殊に長陣の害甚しきことを、反覆丁寧に説て、ここに至て利害の道理を一言に説盡して云らく、かくある故に、軍を起して害のあることどもを、根葉を盡して知るべきなり。箇様に計を運らして、ここに勝利あり。ここに得ありて、何ほど明かに知たる様なりとも、それはまだ前方なることなり。小利に目を付けては、見るところ必明かならず。害のある所を、底を盡して知てこそ、利のある處をも、底を盡して知らるべけれ、害のある處を盡して知らざるものは、何としても利のある處を、底を盡して知ることはなるまじきとなり。

○孫子評註:『故に盡(ことごと)く用兵の害を知らざる者は、則ち盡く用兵の利を知る能はず。』
 害を知り利を知るの二句は、上を結び下を起す。立柱分應法(考え方をまとめて主題を確立し、それに応じて細部への論を進める立論展開の方法。)、是れなり。

○杜佑:言うこころは國を謀り軍を動かし師を行るに、先ず危亡の禍いを慮らざれば、則ち利を取るに足らざるなり。秦伯 鄭を襲い之の利を見る。崤函 之の敗を顧みず。呉王齊を伐つの功を矜しみて、姑蘇の禍いを忘るるなり。

○李筌:利害とは相依りて之生ずる所なり。先ず其の害を知らば、然る後其の利を知るなり。

○杜牧:之の害とは人を勞し財を費やすことなり。之の利とは敵を呑み境を拓くなり。苟も己の患を顧みなば、則ち舟中の人盡く敵國を為す。安くんぞ能く利を敵人に取らんや。

○賈林:将驕りて卒惰し、利を貪りて變を忘る。此の害最も甚だしきなり。

○梅堯臣:再び籍せず三載せずは利なり。百姓虚しくし公家費やすは、害なり。苟も害を知らざれば、又安くんぞ利を知らん。

○王晳:久しくして能く勝つとは、未だ害を免ぜざれば、速くして則ち利は斯れ盡きるなり。

○張預:先ず師を老し貨殫きるの害を知らば、然る後能く敵を擒にし勝を制するの利を知る。


意訳
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○金谷孫子:だから、戦争の損害を十分知りつくしていない者には、戦争の利益も十分知りつくすことはできないのである。

○浅野孫子:したがって、軍の運用に伴う損害を徹底的に知りつくしていない者には、軍の運用がもたらす利益を完全に知りつくすこともできないのである。

○町田孫子:だから戦争による損失を熟知しない者は、戦争のもたらす利益についても知悉[ち‐しつ【知悉】知りつくすこと。詳しく知ること。]することはできない。

○天野孫子:それゆえ、戦争についての有害をすべて知り尽さない者は、戦争についての有利をすべて知り尽すことはできない。

○フランシス・ワン孫子:それ故に、武力を行使すれば必ず生ずる前述の害(危険)を知らない者は、利益をもたらす戦争指導・用兵法も理解しえない者といえる。

○大橋孫子:ゆえに戦争を有利に指導しようと思う者は、まず、この戦争の害をよく知り、これを避けることを考えねばならない。

○武岡孫子:この戦争のマイナス面の理解なしに、有効な戦争指導などできるものではない。

○著者不明孫子:だから、戦争をすることの害を知り尽くさぬ者は、戦争をすることの利をも知り尽くすことができないのである。

○学習研究社孫子:だから、軍隊を動かす害を知りつくさない者は、軍隊を動かす利益を知りつくすことができない。

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2012-11-19 (月) | 編集 |
孫子 兵法 大研究!

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『夫れ兵久しくして国利あるは、未だ之れ有らざるなり。』:本文注釈

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日本では戦国時代末期に豊臣秀吉が北条攻めをおこなったが(有名な「小田原評定」がある。)、このときにはすでに長期戦のやり方が確立されていた。それまで秀吉は数々の兵糧攻めや水攻めなどの長期戦による攻略を経験しており、これまでの長期戦は不利という常識を覆していた。日本では、それまでは長期戦は不利であった。例えば城攻めの場合、城に立て籠もられ、城攻めが長引くと、近隣の敵から援軍を派遣され、城と救援軍から挟撃されるからである。救援が来ないうちや、無い場合のみ城攻めはまだありえる選択肢であった。また、それまでの日本には長期間兵を養っていけるだけの力をもった大名はいなかった。それが農業などの文明や経済の発展とともに、広い領地をもった大名が生まれ、長期戦を可能としていったのである。




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○天野孫子:○未之有也  歴史上そういう事はない。

○フランシス・ワン孫子:註
 一、この言は、二千五百年前の当時、既に人々の心を貫くに足るものがあったが、現在の我々の心も貫いて重い。しかも、人類は、将来に於ても、その言う所を見ることとなろう。本項の註解には、長期戦の特質を捉えて一種の戦争哲学となっているものが多い。李筌は「春秋に曰く、兵は猶火の如きなり。戢(おさ)めざれば、将に自らを焚(や)かんとす」と。戢めるとは兵器を蔵(おさ)めること、つまり戦争をやめることである。その根本に於て戦いは戦いを呼ぶ性質を有するのであって、適時適切の収拾を図ることなく、状勢の赴くままに行動すれば、それは、敵の手を待たずして自ら斃るる道となる、と言うのである。賈林は「兵、久しくして功無ければ、諸侯に(謀反の)心生ず」と言い、杜佑は「兵は凶器なり。久しければ変生ず。…、戦いを好めば武窮まり、未だ亡びざる者は有らざるなり」と。戦争はまた戦争のための戦争へと堕する性質を有するのであって、このため、戦争が長期化すれば、たとえその目的・意義がどうであろうと、内外ともに自己の対応力・制御力を越えた状勢の変化が生じ、やがてその翻弄する所となって、戦争は当初の意図とは全く次元を異にするものへと変質するに至るのである。梅堯臣は「力屈し財殫くれば、何の利か之れ有らん」と曰い、張豫も「師老い財竭くれば国に何の利ぞ」と。我々としては、戦争終結(収拾)の聖断が、神明の加護とも言うべき実に人智による判断を越えた際(きわど)いタイミング-つまり、あの時以上に早くても不可、遅くても不可の時-に於て下されたことを思わざるをえぬ所であろう。 
 一、このため、本項は、一般にすべての長期戦を非とするものと解され、特に我国では昭和の戦争をただ断罪する者の利用する所となって、例の如く絶対のドクトリンとなり、戦争に於て長期戦は、その性格の如何に拘らず、何が何でも不可と言うものとなっている。しかし、このような理解は、またしても自己の思考を硬直させるものであり、我国をめぐる政・戦略状勢(環境)と地位を忘れさせて有害無益である。なぜなら、本項に言う所は、強者(覇王)が攻勢作戦(侵略戦争)を行う場合に於ける戦争型態・方略としての長期戦の利害と結果であり、弱者(被侵略者)が防衛戦争を行う場合の戦争型態としての長期戦の利害ではないからである。而して、現在の我々は曾ての如き大陸或いは大洋に強力な陸・海軍を出征せしめて攻勢戦略を行う強者の立場にはなく、専ら防衛を事とせねばならぬ弱者・被侵略者の立場に立つに至っているのである。つまり、今や時代は根本的に変化し、我々が四囲の国とその雌雄を決するために軍事力を行使することを許した政・戦略状勢は完全に消滅し、我々は幕末時と同じ状勢、即ち四隣の諸国から侵略或いは攻撃を受けることはあっても、我が方から進行することは不可能な状勢の中に置かれるに至っているのである。而して、この敵に城下の盟(ちかい)を求められることはあっても、之を相手国に求めることのできぬ立場は、遠い建国の初めより我国が置かれている基本的立場であり、我々は、この本来の立場にもどったわけであるが、このことは、恐らく、予見せらるる将来とも、変ることはないであろう。然るに、この変化を認識せず、依然として強国の立場からする長期戦の不利論を鵜呑みにし、したり顔をするが如きは哀れむべき滑稽であり、一知半解の愚か者と言わざるをえない。まして、未だに我国が再び軍事大国となり帝国主義的戦争を行う可能性と客観的状勢があるかの如く言い立て、国民を叱責或いは脅かすことを以て飯の種とする徒輩に至っては、国民を愚弄する者と言うべきである。
 一、要するに、現在の我々が、本項から学ばねばならぬのは次の三つである。その第一は、長期戦の不利と害、而してその内包する危険を知り、之を最も恐れているのは、もはや我々ではなく、現在では、米・ソの覇権国、極東にあっては中国と北朝鮮の如き自国の内政上の矛盾を軍事行動によって解決せんとしている国であることである。従って、彼らの軍事戦略は、現在見る如く、すべて速戦速決を以て方針とし、国をあげて決戦能力の向上に狂奔しているのである。その二は、彼らの願望にも拘らず、現代戦の特質は、著しい劣勢にある弱者と雖も、一度決意して準備を固むれば、戦争を長期・持久化することが可能であり、これが攻撃者の泣き所、いわゆるアキレス腱となっていることである。今日、彼らが、昔日の大国にもましてあらゆる手段・術策を弄し、次篇に説く「戦わずして人の兵を屈する謀攻」に出て倦むことがないのは、このためである。その三は、国力・戦力の懸隔[けん‐かく【懸隔】 (古くはケンガクとも) ①かけ離れていること。②程度のはなはだしいこと。]が大である場合、劣勢国が優勢国と同一の方略・戦法をとることは、戦争を優勢国の望む型態とし短期戦としてしまうことである。このことは、大東亜戦争を見れば明らかであろう。大東亜戦争は一見長期戦の如く見える。しかし、我々は敵の長所に於て戦い、利とする所に於て勝負を求めるという誤った方略をとったため、初期に於て「已に敗るる者」(形篇)となり、米軍から見れば、後半はその力を誇示する愉快な掃蕩戦・殺戮ゲームに過ぎなかったと言えるのである。
 一、つまり、本項は、現代の我々にとっては次のことを教うるものである。我々が、近隣の諸国に対して、もし彼らが侵略或いは攻撃行動に出た場合は、それは必ず長期戦となるであろうことを理解させる国家戦略・防衛体制をとることは、却って戦争を回避する道であり、また戦争となった場合に於ても、それは、破局を限定化し早期収拾へ導くことを可能にするものとなることである。第二次大戦に於て、スイスの中立を守り抜き救国の英雄と称えられた将軍アンリ・ギザンがとった国家戦略の概念はこれであり、それは現在に於ても揺るぎなく継承せられている。即ち、第二次大戦に於てフランスが崩壊し、スイスが独・伊の軍隊によって完全に包囲された時、彼は躊躇することなく持久戦略に転じ、スイス陸軍はその後の五年間、いわゆる「砦陣地」に立て籠もったのであるが、ギザン将軍は、その「とりで戦略」を決心した理由を次の如く説明している。即ち、「我々の今後の国土防衛の目的と根拠は、隣接する国々に”スイスとの戦争は必ず長引き、多額の費用の無駄使いとなる冒険であり、しかも、その結果はヨーロッパの中心部には無益でいつまでもくすぶり続ける戦場を残すのがおちである”ことを示すことに終始一貫して置くべきである。我々は、戦争を避けたいと思えば、我々の皮膚-国境-を最も高価なものにすべきである」(『将軍アンリ・ギザン』-植村英一著)と。而して現在のスイスの防衛体制は、「針ねずみならぬ、すずめ蜂の巣である」と言われている。
 一、現在の我国の国家戦略・防衛体制は、周知の如く長期・持久戦の能力を完全に欠除しており、その戦略は米軍の来援に依拠して独善的、短期破滅型である。かくては、米国との同盟関係が損なわれもしくは失われた暁に於ては、国家を防衛するものとはならず、むしろ戦争を招来するものとなるであろう。なお、長期・持久の防衛態勢と戦略の必要を問題とする場合、必ず出てくるのは、我国にはそのための防衛空間がないという声である。しかし、近年の兵器・技術の進歩は、我国のような狭小国にも、強大国が有する地理的空間に匹敵する物理的・技術的空間を形成することを可能とするに至っているのである。それに、海は依然として偉大なる障壁である。我々は、単なる観念論から、この天与の賜物を無にする戦略をとることがあってはならない。
 一、ところで、本項の意義を、以上の如き見地から理解することに疑問を抱く人もいるのではなかろうか。しかし、それが浅見であることは、後に取り上げる「孫子と呉王の兵法問答」を見ても明らかであろう。そこでは、呉王が劣勢若しくは準備未完の国が優勢国から先制攻撃(侵略)を受けた場合の対応の在り方・方略を問うているのであるが、孫子は次の如く答えているのである。即ち「その場合は、戦力・戦略態勢に均衡がとれ作戦の自由を得るまでは、敵を持久戦に引きずりこむべきである」と。そして、同じ原則も、立場と状況を異にする場合は、その理解・応用は反対となることを教えている。いかにそのドクトリンが気に入ったからといって、その理解が、自己の置かれた立場と政・戦略状勢、或いは国力・戦力を無視するものであれば、却って有害となることは、ドイツの軍事思想・用兵論に惚れこみ、これを以て金科玉条とした昭和の我が陸軍の失態を見れば明らかであろう。孫子もクラウゼヴィッツも礼讃するのは結構であるが、我々は、その普遍を知るとともに特殊を知り、その利用に当っては、自ら考える者でなければならないのである。

○守屋孫子:そもそも、長期戦が国家に利益をもたらしたことはないのである。

○重沢孫子:そもそも、戦争が長引いて国が利益を得たことは、まだ一度も例がない。

○佐野孫子:【語釈】◎未兵久而国利者、未之有也  李筌は「春秋に曰く、兵は猶(なお)火の如きなり。戢めざれば、将に自らを焚かんとす」と。「戢める」とは兵器を蔵(おさ)めること。つまり戦争をやめることである。その根本に於て戦いは戦いを呼ぶ性質を有するのであって、適時適切の収拾を図ることなく、状勢の赴くままに行動すれば、それは、敵の手を待たずして自ら斃るる道となる、と言うのである。

○著者不明孫子:【未之有也】あったためしがない。「これまでになかった」という意味を強くいう言いかた。

○孫子諺義:かさねて兵を用ふることの久しき失を論ずる也。久しく兵を外にさらして國に利あることは、あらざる也。たとへば其の軍にかつと云へども、國家のつひえ莫大なるゆゑに、國の敗亡の基たるべき也。兵久しくしては外軍旅のつひえ也。國は國内也。

○孫子国字解:『夫れ兵久して國の利なることは、未だ之有らざるなり。』
 上の段にも夫と云て、ここにも又夫と云ことは、久く戦ふことを孫子深く誡めて、くりかへして云ゆへ、又語の端を更(あらた)めて云なり。軍久くやまずして、其國の利となることはなきことなりと云意なり。

○孫子評註:『夫れ兵久しくして、國、利あるものは未だ之れあらざるなり。』
 三句(「久しければ則ち云々」以下の三句を指す。)を約して一句と為す。粗(ほ)ぼ數字(「夫れ兵を鈍らし云々」の所をさす。)を改め、則の字を以て斡旋し、以下層々轉折(幾重にも文勢が過度に変化して。)し、一つの矣(『孫子』の原文参照。)、二つの也、頓挫し得盡し、(修辞法で、文勢を急に変えること。)人をして凛々(心のひきしまるさま。)として、久しきを以て戒と為さしむ。然れども、是れ唯だ尋常の兵略(戦争の計略。)を以て言ふ、至論に非ず。且(しばら)く下段の分解を看よ。

○杜佑:兵とは凶器にして、久しければ則ち變を生ず。智伯 趙を圍(かこ)み、年逾(こ)えて歸らず、卒(にわか)に襄子 擒(とりこ)となる所と為す、身は死に國は分つが若し。故に新序傳に曰く、戦いを好めば武に窮す。未だ亡ばざる者有らざるなり。

○李筌:春秋に曰く、兵は猶火のごときなり。戢(おさ)めざれば、将に自らを焚(や)かんとす。

○賈林:兵久しければ功無し。諸侯 心を生ず。

○梅堯臣:力屈し貨殫くさば、何ぞ利之れ有らん。

○張預:師老いて財竭くさば、國に於いて何ぞ利あらん。


意訳
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○金谷孫子:そもそも戦争が長びいて国家に利益があるというのは、あったためしがないのだ。

○浅野孫子:そもそも戦争が長期化して国家の利益になったなどということは、いまだかつてあったためしはない。

○町田孫子:そもそも、戦争が長びいて国家に利益があったためしはないのである。

○天野孫子:持久戦となって国家に利益をもたらしたということは、今までになかったことである。

○フランシス・ワン孫子:長期戦に於て利益を得た国はない。

○大橋孫子:戦争が長引いて、國に利益をもたらしたという例はまだない。

○武岡孫子:つまり長期戦を行なって国に利益があったためしはない。

○著者不明孫子:そもそも、戦争が長く続いて国に利益があるなどということは、あったためしがないのである。

○学習研究社孫子:実際、戦闘が長びいて国家に利益があるということは、一度もなかったことである。

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2012-11-12 (月) | 編集 |
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『故に兵は拙速を聞くも、未だ巧久しきを睹ざるなり。』:本文注釈

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拙速-仕上りはへたでも、やり方が早いこと。

拙-①つたない。まずい。へた。②自分(に関すること)をへりくだっていう語。【解字】形声。「手」+音符「出」(=へこむ)。手わざが人より劣る意。

速-①動きがはやい。すみやか。②はやさ。【解字】形声。「辶」+音符「束」(=せく)。せかせか行く意。

巧-①(物をつくる)わざ。技術。くふう。②じょうずである。たくみである。【解字】形声。「工」(=さいく)+音符「丂」(=屈曲する)。曲げてつくる、手のこんださいく、の意。

久-ひさしい。時間的に長い。長時間そのままになっている。【解字】会意。背の曲がった老人と、これを引き止める意を示す印とから成る。曲がりくねって長い意、長く止まる意などを表す。

睹-よく見る。注目する。


よく「拙速」の意味を「まずくとも速く行動する」、「巧久」を「うまく考えても長くかかる事」とする解釈が多いが、まずくてよいわけがないし、名案を考えつくのに長くかかっても戦に間に合えば問題はない。よってこれらの解釈は間違っていると思われる。よって、拙はあれこれと余計な手を加えない、巧は無駄にあれこれ手をかける、の意で、「拙速」は本来の目的以外のことに時間を割かないで素早く行動する、「巧久」は本来の目的を忘れてあれこれ考えることで無駄に時間を費やすことの意となる。理由は以下に述べる。

この句の「拙速」と「巧久(巧遅とも言われることがあるが)」の語は、評釈者により解釈の仕方が分かれる所である。ここで村山孚の『中国兵法の発想』から、これらの語の解釈について紹介したいと思う。
「戦争は「拙速」で勝つことはよくあるが、「巧久」で勝ったためしはない、というわけである。ここから後に、「兵ハ拙速ヲ貴ブ」ということばが生まれる。そこで問題は、この「拙速」と「巧久」の意味だが、古来、ほとんどの解釈が、「拙速」を「まずくともすばやいこと」と解釈し、「巧久」もしくは「巧遅」を「うまくても長くかかること」としている。だが、『孫子』の一貫した考え方からすると、この解釈は表面的にすぎるといわなければなるまい。それに、右のような解釈だったら、最高のものは「巧速」のはずである。この「拙」と「巧」は、やはり『老子』の影響を受けたことばと考えるべきである。すなわち、『老子』のいう「巧」は、単に「うまい」「上手」ということでなく、「作為がある」とか「つくる」ということを意味する。「巧ヲ絶チ利ヲ棄ツレバ盗賊アルコトナシ」(『老子』十九章) 作為を捨てて自然にまかせ、損得などという考え方をなくすれば、世に盗みなどという行為(あるいは、「盗むとか盗まれるとかいう考え方」ともとれる)はなくなる、というわけだ。「大巧ハ拙ナルガゴトシ」(『老子』十五章) 本当によくつくられたものは、つたないように見える、という。ここで『老子』のいう「拙」は、ただの「つたない」でなく、「作為がない」「自然のまま」という意味を含んでいるのである。したがって、『孫子』のいう「拙速」も、まずくて早いことではなく、「あれこれとよけいな手は使わず、よけいなことは考えず、ともかくすばやく行動する」という意味に解すべきものである。へたな考え休むに似たり、である。ダラダラやったり、小細工を弄したりするのは、かえってエネルギーのロスである。むしろ、短時間のうちに凝縮した行動をとり、緊張し集中してやれば、小さなエネルギーでも大きな威力を発揮する。つまり、「拙速」というのは、孫子の一貫した省力発想から生まれたものなのである。他のものに気をちらさず、短時間にエネルギーを圧縮し、これを爆発させると、その力は二倍にも三倍にもなる。あれこれ考えたり、作為を弄したりする時間的なゆとりを、自ら切り捨ててしまえというのが「拙速」のすすめなのである。もはや説明するまでもなく、「巧久」は「うまくても時間がかかる」ではなく、「迷ったり、あの手この手を使ったりして、ムダな時間をかけてしまうこと」なのである。」
 もしも、「拙速」や「巧久」の語が、『老子』の影響を受けたものだとしたら、他の『孫子』の中の語も少なからず『老子』の影響があると考えるのが自然であろう。そして、この「拙速」「巧久」の言葉が孫武の原作の『孫子』にあったとするならば、孫武は『老子』を学んでいた可能性が見えてくる。『老子』は『兵法』ではないかといわれて久しいが、『孫子』との相性もこのことからみてもよいことが分かってくる。ちなみに『論語』などにでてくる孔子は、世に出る前に老子からいろいろ学んでいたことがわかっている。ほぼ同世代の孫子も老子から何かを学んでいたとしてもおかしくはない。

『論語』の子路第十三 十七に「子夏、筥父(きょほ)の宰と為りて、政を問う。子曰わく、速やかならんと欲すること毋かれ。小利を見ること毋かれ。速やかならんと欲すれば則ち達せず。小利を見れば則ち大事成らず。」とある。これは『孫子』にも通じることで、「拙速」であっても大局をとらえなければ、局地戦で假に勝利を得ても自軍の総合的な勝利にはつながらないということである。。また、その場では利益を得ることができても、「後の憂い」を想像できなければ危ない、ということでもある。どちらも「安易な拙速」の戒めの意味がある。




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孫子の兵法:故に兵は拙速を聞くも、未だ巧久しきを睹ざるなり:故兵聞拙速未覩巧之久也:金谷治○金谷孫子:睹-武経本・平津本・桜田本では「覩」。通用。 巧之久-『北堂書鈔』巻百十三では「巧久」、『文選』巻二十九李注の引用では「工久」とある。「之」の字は除くべきであろう。

孫子の兵法:故に兵は拙速を聞くも、未だ巧久しきを睹ざるなり:故兵聞拙速未覩巧之久也:町田三郎○町田孫子:宋本では「巧之久」とあるが、『北堂書鈔』の引用にしたがって「巧久」とした。

孫子の兵法:故に兵は拙速を聞くも、未だ巧久しきを睹ざるなり:故兵聞拙速未覩巧之久也:天野鎮雄○天野孫子:○兵聞拙速 「兵」は戦争。「拙速」は戦術がたといまずくとも速かにする、速かに勝って終わらせるの意。「聞」とは、拙速という古人の智恵・経験をきくの意で、それは用兵の最上策であるを言外に表わしている。『新釈』は「『聞』とは『兵は拙速主義で功を奏するといふことを聞いてゐる』又は『兵は拙速で功を奏したといふ実例を屢聞く』といふ意。故に『兵は拙速を貴ぶ』といふのとは意味が少し違ふ。孫子は言葉の上では拙速が善いとも悪いとも、貴ぶとも貴ばぬとも言ってゐないのである。ただ拙速といふ実例を聞いてゐるといふ事実を述べて、善悪の批評は言外に含ませてゐるのである」と。拙速と勝について『講義』は「蓋し戦って必勝せずんば、以て戦を言ふ可からず。故に兵を用ふる者、必ず其の勝を欲せば、速勝すること可なり」と。またこの句と次の句について「兵は機を以て用ふ。機に投ずるの会、間に髪を容れず。機を得、機を失ふは、毫釐の間のみ。其の機既に失へば、巧にして久しと雖も何の益かあらん。苟くも其の機を得ば、速にして拙なりと雖も、亦善勝為るを失はず」と。一説に従来の速かに勝つという解釈を批判して『兵法択』は「皆速を解して以て速かに勝つと為す。此の節は専ら兵久しきの弊を言ひて其の勝敗を論ずるに及ばず。且つ諸家説く所も亦皆以て拙は巧に如かずと為す。最も其の義を失ふ。孫武の本旨は直(ただ)拙速を以て巧と為す。故に曰く、未だ巧の久しきを睹ず、と。此に由りて之を観れば、孫武以て兵を用ふるの巧と為す者、亦以て知る可し」と。また一説に『外伝』は「拙速の拙は実の拙に非ず。前(計篇)の謂ふ所の能にして之に不能を示すなり。言ふこころは、古より善く兵を用ふる者は、見る所拙なるが若しと雖も、速かに敵の不意に乗ずる者なり、之を聞く、となり」と。
 ○未覩巧之久也 「覩」はよくみる、たしかに見る。「未覩」について『新釈』は「『歴史上にも、また現在の世間に於ても、事実そんなことの起つたのを見たことがない』の意」と。「巧」は前句の拙に対して言う。戦術のたくみなこと。「久」は前句の「速」に対して言う。久しい間にわたること。「拙速」が速勝のためすべての作戦計画に万全を期することをせず、戦術に若干のまずいことがあっても止むを得ないのに対し、「巧久」は勝つためにすべての作戦計画に万全を期し戦術を巧みにして犠牲を少なくしようとして持久戦になるを言う。ここにおいても「覩」と言って経験を重んじている。なお「拙」と「巧」について『諺義』は「拙と云ふは無造作にして模様無きなり。易簡にして事すくなきなり。巧は造作・模様品々の設計をたくみに致すことなり」と。

孫子の兵法:故に兵は拙速を聞くも、未だ巧久しきを睹ざるなり:故兵聞拙速未覩巧之久也:フランシス・ワン仏訳 孫子○フランシス・ワン孫子:註
 一、では、戦争を(政治目的達成のために)用いる場合、どのような戦争指導・作戦を行えば、前述の如き問題を解決し戦争の禍害を回避することができるのか。本項は、この問題に対し、一語以て断案を下せるものであり、本篇の骨子を成す。しかし、本項の意義は之に止まらない。火攻篇の最後に記す全用兵論の結論、「夫れ、戦えば勝ち攻むれば取るも、其の功を修めざる者は凶なり。之を命(な)づけて費留(時間と経済力の無駄使い)と曰う」の言と呼応して、孫子の戦争観(戦争に対する思想)と用兵思想を明らかにするものであり、孫子全篇の骨子をなすものとも言える。要するに、戦争に於て、孫子の貴ぶ所は、たとえそれが不十分な勝利であっても、戦争を速やかに終結してその利を収穫することにあり、厭う所は、たとえそれが完全な勝利・完全なる敵の打倒であっても、戦争を無制限化し長期化することである。つまり、米・英が行った如き無条件降伏を要求する戦争、或いは近代戦の特徴をなしたクラウゼヴィッツのいわゆる絶対型戦争の如きは、将来の禍根を絶つためといった理に基づく最善の行動のつもりかも知れないが、戦争を長期化させる道であり、却って自己を弱化させて国を失うに至る懼れがおおきく、非であると孫子は曰うのである。これまた歴史上常に見られる所であろう。何氏は「速ならば、拙と雖も財力を費やさざるなり。久しければ、巧と雖も恐らくは後患の生ずなり」と註している。
 一、「拙速」と「巧久」 両者は相対する概念である。しかし、これを理解するためには、我々は、ここに用いられている巧拙の二字は、一般に用いられているが如き、方略・手段の巧妙・拙劣に対する言ではなく、戦争目的若しくはその結果に対して用いられた言であることを理解する必要がある。即ち、本項の場合の「拙」とは、屈(かが)む(屈する)若しくは止める(止まる)、或いは志を曲げるの意であり、従って「拙速」とは、たとえば日露戦争の如く、賠償金は取れなくとも或いは敵国の領土の割取・自己の権益の回復拡大が意の如くならずとも、我が欲望を制して、とにかく速やかに戦争を終結に導くことを言う。これに対して「巧」とは、善い或いは好ましいの意であり、従って、「巧久」とは、戦争には本来達成すべき政治目的があり妥協を図るべき限界点があることを忘れて、自己の善し(ベター)とする体制或いは理想・願望の如きを実現すべく飽くまでも戦争を継続し、敵の打倒を図ることを言う。たとえば、第二次大戦に於て、自己の戦力の圧倒的優越と優勢に心傲(おご)れる米・英特に米国が、いわゆる完全なる勝利・敵国の完全打倒(無条件降伏)を以て戦争目的とし、相手国のみならずその国民の抹殺を図る絶対型戦争を遂行、戦争を長期化させた如きが「巧久」である。彼らは、一時的には勝利を謳歌することができたが、今や、その勝利によって生じた「後患」に悩んでいる。また、支那事変に於て、国民が納得しないとか、或いはそのために斃れた幾十万の将兵に対し合わせる顔がないなどといった理由によって戦争に見切りをつけず、いわゆる有利な講和条件に固執して徒らに戦争を長期化させた我が戦争指導の如きも、「巧の久しき」例とすることができよう。「巧久」の例は、最近ではベトナムの戦争指導・国家経営にも見ることができる。古来、劣勢にある者が、戦勢の逆転或いは予想外の推移にのぼせ上り、本来の戦争目的を忘れて収拾する所を見失い、次々と要求を拡大して戦争を継続し、却って勝利を空しくした例も多いが、今や、彼らは、このことのため、一世代だけではなく、二世代・三世代を空しくせんとしつつあるのである。
 一、要するに、本項は次の如く言うものである。即ち「巧久」の戦争・作戦が敵の手によらずして自ら斃るる道であることは歴史の示す所であり、従って、戦争(作戦)は、すべからく限定・短期、「拙速」を以て方途[ほう‐と【方途】ハウ‥進むべき道。方法。しかた。]とすべきである、と。しかし、日露戦争以降の我が国家経営・戦争指導の跡を見るとき、我々は、人が歴史に学ぶことの困難さを痛感せざるをえない。ナポレオンやヒットラーと雖も、この事を知らなかったわけではない。しかし、より好ましい結果を求めるとき、日とは屢々、自分は別と思い、「拙速」を方途とすべきことを忘れるのである。而して、米国・ソ連・中国を見るに、世界は、現在に於ても、「巧の久しき」を以て国家経営・戦争指導の方途とする後継者に欠くることはないようである。昔、後漢の光武帝は、「人は自ら足れりとせざるに苦しむ。既に隴(ろう)を得て復た蜀を望む」との歎を発し、戦争には終止符を打つべき所があるとして、蜀平定後は濫りに兵を動かさず、内治に専念したことは有名であるが、真に稀有の事とすべきであろう。而して、本項も、また光武帝の言も、いわゆる「攻勢の限界を知れ」などといった言とは次元を異にする、歴史と人世の洞察に発する叡知に満ちた言であることは、言うまでもあるまい。
 一、「拙速」に対する誤解 ところで、本項は、孫子の中でも最も有名な言句の一つであり、特に「拙速」は古来愛用される所であるにも拘らず、その理解は正しくなく、与えている影響は必ずしも適切とは言い難いものがあるのである。即ち、「拙速」は、一般には「拙と雖も、速を以てする有らば勝つ」(孟子)の意とされ、曹操の如きも、やや懐疑的であるが、「拙と雖も、速を以てする有らば、勝を未だ睹ざる者は無きを言うなり」と註している。つまり、巧拙を、既述の如き目的・結果に対する言とせず、方略・手段の巧拙の意とし、速は、速やかに戦争を終結に導くの意ではなく、神速即ちスピードの意と解するのである。要するに、戦争に於ては「巧久は拙速に如かず」、つまり、多少方略が拙劣であっても速戦速決、速勝に出た方が、方略の万全を期して戦争を長引かせるよりも有利である、の意と解しているのである。この解釈は、戦場に於ける指揮官が、状況不明の中で、ともすれば消極退嬰[たい‐えい【退嬰】あとへひくこと。しりごみすること。新しい事を、進んでする意気ごみのないこと。]の心理に陥り戦機を失い易い一面の事実に即するものであり、戦場指揮の要諦の一つとして、確かに人を納得させるものがある。このため、本項は、やがて「巧遅は拙速に如かず」と変化し、「兵は拙速を聞くも巧遅は聞かず」(李衛公問対)の如き言を生み、さらに、「兵は拙速を尊ぶ」、或いは「兵は速勝を貴ぶ」となって、戦場に於ける指揮官の決心・決断についての言とされるに至ったのである。つまり、「巧の久しき」は「巧遅」となり、「拙速」は「巧久」ではなく「巧遅」に対する概念となり、速戦速決のための戦争(作戦)指導の要領を言うものとされるに至ったわけである。しかし、右の如きは明らかに誤解である。なぜなら、本篇は戦争計画・戦争指導の根本の方略を説くものであり、戦場の指揮・用兵について論ずるものではないからである。また、以上は、戦場に於ける指揮の理・要諦としても一面に過ぎず、孫子の意を得たものとは言えない。なぜなら、以下の各篇で明らかとなるが、孫子は、果敢なる状況即応・臨機応変の指揮用兵の必要を説く者ではあるが、そのためには情報収集の徹底と共に準備の周到を要求し、決して「方策は拙劣でもよいから、速戦速決を求めよ(若しくは、神速即ちスピードを主体とする勝負に出よ)」などと説く者ではないからである。大体、速戦速決・短期決戦を意図する者ほど運を天に委(まか)せた如き杜撰な作戦を行うことは許されず、その計画と実行に周密と巧妙が要求されるのは理の当然であろう。しかも、以上の如き解釈を行ってその矛盾に気付かないのは、自ら考えることなく物事の規範をすべて他に求めて満足する者、いわゆるドクトリン・スローガンを以て無上のものとする者の陥り易い所である。昭和の我軍もその一人であった。
  一、我軍の場合 日露戦争後、引き続きロシア(ソ連)を仮想敵国の第一とし、大陸を予想戦場とした我軍であるが、日・英同盟も解消して次第に世界に孤立し、独力を以て戦争を遂行せねばならなくなった状勢に於て、国力・軍事力の劣弱を顧みれば、第二次日露戦争に於ても、長期戦を行いえぬことは明白であった。このため、「速戦即決」を以て戦争指導の方針としたのである。無論、これには、ドイツの軍事思想の強い影響がある。しかし、その実行については、内心の不安は覆い難きものがあった。その中にあって、孫子の「拙速」より転じた「兵は拙速を尊ぶ」は、ドイツ流の攻勢戦略に心酔する用兵者にとっては、自己の方針を是認する天来の妙音の如く聞こえ、やがて、それは、その然るべき理由を正されることもなく、戦争指導の段階から作戦・用兵・戦闘のすべての段階に於て、我軍のよるべき思想・用兵原則とされるに至ったのである。実際、「兵は拙速を尊ぶ」は、用兵綱領に記されていたか否かは別として、昭和の我軍にあっては日常耳にする所であり、意気軒昂のスローガンと化していたと言える。つまり、孫子の真意とは異なり、「戦争に於ては万全を期し難い。万全を期すれば、優勢な敵は、その間に却って態勢を強化し、彼我の優劣の差は一層拡大して速戦即決は不可能となる。従って、作戦に於ては、多少方策が拙くとも、兵力の集中が不充分でも、軍隊の精強を信頼し、すべからく果敢断行、初期流動の戦勢に乗じて決勝を求むるに如かず」の意と解し、これを以て我軍独自の思想と自画自賛するに至っていたわけである。国力・戦力の劣弱に泣く者の一途な心理が生んだ悲痛な論理とも言えるが、そもそも、劣勢を以て事に当らざるをえぬのは我国の宿命として国民の直感する所であり、これが我国の武道の極意と相俟って、我々の精神を鼓舞するものであったことも事実である。しかし、この思想が我々を夜郎自大[やろう‐じだい【夜郎自大】‥ラウ‥[史記[西南夷伝]](夜郎の王が漢の広大なことを知らず、自らを強大と思って漢の使者と接したことから)自分の力量を知らないで、幅を利かす態度をとるたとえ。夜郎大。]とし、その指揮を観念化させるのみならず、用兵から堅忍と機略(駆引きの能力)・力の集中を失わせる一因となったことは否めぬ所であろう。第二次大戦に於て、我軍の用兵のパターン化、また兵力の細分化使用・逐次投入の如きは、習性として定評となったが、当時、駐日ドイツ大使館付きであった某海軍武官は、次の如く言っている。「日本海軍には、他の大国のような大規模な作戦は不向であった。これを持続するための底力に欠け、且つそのための意志力も忍耐力もなかった」と。無論、陸軍も同断と言えるが、僅かに四十年前の日露戦争に於て、その用兵能力を世界から称えられたことを思えば、その評価のあまりの変化に、憮然たらざるをえぬ所であろう。
 一、孫子の理解に於て注意せねばならぬことは、個々の言句が有する強烈な魅力或いはその発する珠玉の如き玄妙の光に眩惑されてのぼせ上り、それが、全体の戦争観・用兵思想との関連に於て述べられたものであることを見失い、それ自体で生命を有するドクトリンとして信奉する虞れのあることである。逐条[ちく‐じょう【逐条】‥デウ 箇条を追うこと。箇条を追って順々にすること。]解釈を事とする者の陥り易い弊であるが、本項の誤解はその好例である。我々は今後も、屢々この種の曲解に接することとなろう。

孫子の兵法:故に兵は拙速を聞くも、未だ巧久しきを睹ざるなり:故兵聞拙速未覩巧之久也:守屋洋○守屋孫子:短期決戦に出て成功した例は聞いても、長期戦に持ちこんで成功した例は知らない。

孫子の兵法:故に兵は拙速を聞くも、未だ巧久しきを睹ざるなり:故兵聞拙速未覩巧之久也:重沢俊郎○重沢孫子:戦いについて、拙速ということは耳にしているが、巧妙なら長引いてもよいということは見たことがないのは、このためである。

孫子の兵法:故に兵は拙速を聞くも、未だ巧久しきを睹ざるなり:故兵聞拙速未覩巧之久也:田所義行○田所孫子:○兵聞拙速とは、戦争は少しまずくても、早く勝負をつけるのがよいとの意。
 ○未覩巧之久矣とは、戦争を長引かせてうまかったためしがないとの意。

孫子の兵法:故に兵は拙速を聞くも、未だ巧久しきを睹ざるなり:故兵聞拙速未覩巧之久也:大橋武夫○大橋孫子:拙速を聞く-拙速の成功した例を聞く
 巧の久しきを睹ざるなり-巧みでも長引いたものの成功した例を見ない

孫子の兵法:故に兵は拙速を聞くも、未だ巧久しきを睹ざるなり:故兵聞拙速未覩巧之久也:武岡淳彦:新釈孫子○武岡孫子:拙速を聞く-拙速の成功例を聞く
 巧久なるを睹ざるなり-巧みで長引いたという成功例をみない

孫子の兵法:故に兵は拙速を聞くも、未だ巧久しきを睹ざるなり:故兵聞拙速未覩巧之久也:佐野寿龍○佐野孫子:【語釈】
◎故兵聞拙速、未睹巧之久也 「拙速」と「巧久」は戦争目的若しくはその結果に対して用いられたものであり、巷間に言われている方策・手段の巧妙・拙劣に対するものではない。何んとなれば、本篇は戦争計画・戦争指導の根本の計略を説くものであり、戦場の指揮・用兵について論ずるものではないからである。縦(よし)んば、「兵は拙速を尊ぶ」が戦場における指揮・要諦としてもそれは一面に過ぎず、孫子の意を得たものとは言えない。なぜならば、「拙速」・「敵に勝ちて強を益す」が如き戦争指導・方策は、その場の思いつきでできるものではなく、それは、予め方針として構想され、計画としてその実行を準備し、全軍に徹底していることによって初めて実現が可能となるものだからである。この大前提の上に、孫子は用兵においては臨機応変、状況即応を説く者であり、たとえそれが表面的には「拙速」に見えたとしても、然(さ)に非ず、その本質は右の如しである。本句は、<第十二篇 火攻>の「夫れ、戦いて勝ち攻めて取るも、其の功を修めざる者は凶なり。之れを命(な)づけて費留(時間と経済力の無駄遣い)と曰う」の句と呼応して、孫子の戦争観と用兵思想を明らかにするものである。戦争に於て、孫子の貴ぶ所は、たとえそれが不十分な勝利であっても、戦争を速やかに終結してその利を収穫することにあり、厭う所は、たとえそれが完全なる勝利・完全なる敵の打倒であっても、戦争を無制限化し長期化することである(F・ワン仏訳「孫子」)。老子曰く「軍の行くところ、土地は荒れていばらが生える。大戦争のあとには、必ず飢饉が来る。だから真の戦上手は、戦いの目的を果たせば直ちに矛を収めて、むやみに勇名を馳せようとはしない」(奥平卓訳「老子」徳間書店)と。

○著者不明孫子:【未睹巧久】「睹」は覩とも書く。音ト。見る。ここは「聞く」と「睹る」とはことばのあやで、どちらでも同じこと。「巧久」は拙速(やりかたがまずくても手早く事を運ぶ)の反対。巧遅ともいう。なお、諸本みな「巧之久」となっているが、武内義雄「孫子考文」は『文選』注の引用文を根拠にして「之」を衍字とする。『文選』注を確実な根拠にできるかどうかは疑問であるが、ともかくここは「之」は削らなければどうしても文章がおかしい。

孫子の兵法:故に兵は拙速を聞くも、未だ巧久しきを睹ざるなり:故兵聞拙速未覩巧之久也:山鹿素行:孫子諺義○孫子諺義:『故に兵は拙くして速なることを聞く。未だ巧にして之久しきことを覩ざるなり。』
 拙と云ふは無造作にして模様無き也。易簡にして事すくなき也。巧は造作模様品々のまうけを、たくみにいたすこと也。未だ覩ざるとは其の之れ無きを言ふ也。云ふ心は、上兵の軍を用ふるは、其の圖を見ては造作模様なくこれを襲ひこれをうつ、疾雷耳を掩ふに及ばざるがごとし。是れ兵を能く用ふるものの軍事をいたす也。愚将妄将はさまざまの巧をいたし手間を入れ、外よりは見事なるごとくみゆるといへども、變に合ひ機に應ずることを知らざるがゆゑに、圖をのばし節を失ひて、久しく兵を外にさらし、つひに利を失ふに至る也。故に拙くして速なるに利あることをきく。巧なれば必ず久し、久しくして利あることはあらざる也。李衞公云はく、兵は機事なり、速を以て神を為すと。一説に、拙は兵を用ふるにつたなき下手也。巧は兵を用ふるにたくみなる上手也。云ふ心は、下手なる大将も速なるに利あることはあり、上手も久しく兵を外にさらせば、其の内に變生じやぶるること出來るものなりと云ふ心なりと云々。魏武・李筌の註之れに從ふ。又云はく、兵巧にして上手なるものの久しく兵を弄することを聞かずと云ふ説あり。直解に云はく、故に兵は拙きを以て速勝之功を成す有るを聞くも、未だ曾て兵を用ふるに巧なる者、反て之れを久しきに失することを見ざる也と。又云はく、拙巧は、機に應じ、てだてをなすの拙と巧と也と。是れ杜牧が注也。大全に云はく、兵は拙にして速勝之功を成すを貴ぶ、拙と雖も亦巧なり、未だ兵に巧にして反つて久しきを見ざる也、巧と雖も亦拙なりと。又云はく、速なれば則拙ならず、拙なれば便ち速ならず、拙と云ふは爾(なんじ)が我れ已に速なりと説く(矣)(一本に、下の句と對と見て、我拙我已速やかにして説く(矣)とあり、この處脱ならんか)、久しければ則巧ならず、巧なれば便ち久しからず、久しと云ふは爾が爾の巧を爾已に久しと説く(矣)、拙巧の二字は全く吞吐輕快に在り、然らざれば直に恁(かく)説き去りて、何ぞ拙字を速字の上に放在し、巧字を久字の上に放在せるに取らんと。又云はく、本文に云ふ、兵は拙にして速なることを聞く、未だ巧にして之久しきことを覩ざる也と、正に是れ速は拙と雖も亦可、若し久しければ巧と雖も不可と言ふ也。

孫子の兵法:故に兵は拙速を聞くも、未だ巧久しきを睹ざるなり:故兵聞拙速未覩巧之久也:荻生徂徠:孫子国字解○孫子国字解:拙速とは、拙はつたなし速はすみやかなり。合戦には謀もつたなく下手なれども、速に火急なるを以て勝利を得ることなり。巧とは合戦のてだてに上手なることなり。一段の意は久く戦て、勢ひたゆみ、勇氣もぬけ、力もつき、財寶もつくる時は、士卒は外に苦み、百姓は國に怨る弊あり。平生は力叶はず、我に從ふ隣國の諸侯、この弊をよき時節と、軍を起し、間に乗て攻め來り、遂に味方の滅亡に及ぶべし。たとひ味方に智謀深き者ありとも、かくの如く軍を遠方へ押出して、久しく戦ひたる國の後々末々まで、何事なくよくととのほり、全くさかふる様にすることはなるまじきとなり。故に合戦の道はたとひ計に拙く、軍に下手なりとも、疾雷耳を掩ふに及ばず(衣+十)電目を瞬くに及ばざるごとく、火急に勝負を決して利を得ることは、古より多く其ほまれ聞えたれども、たとひ計に巧に合戦に上手にても、年月久しく、陣を張りて益あることをば、孫子はいまだ睹ずとなり。上には聞くと云ひ、下には睹ずと云たるは、文を互にしたるものにて、みるもきくも同じことなり。強ち泥むことなかれ。呂氏春秋に、兵は急捷を欲し一決して勝を取る所以なり。久しくして用いる可からずと云へり。急捷は急疾捷先とて、火急にしてはやわざに先をすることなり。軍は火急なるをよしとするゆへ、手ぬるく後になることなき様に、手ばしかき働きをこのむなり。その故は一時に勝負を決して、勝利を取るゆへなり。年月久しく戦ふべからずと云意なり。又呉明徹と云名将は、兵速に在るを貴ふと云ひ、杜佑は兵者凶噐なり。久ときは則變を生と云へり。凶噐はいまいましき物と云ことなり。軍は多くの人を殺すわざなれば、元來いまいましきことにて、人たるものの嫌ふべきわざなれども、悪人を退治し、亂逆を鎭るには、せで叶はぬわけにて、軍をするなり。此道理を知らず、是を好で久く戦をなせば、必下の怨みより、様々の變を生ずると云意なり。又李衞公は、兵は機事なり。速なるを以て神と為すと云へり。機事とは、たとへば禅機の如し。一機相投ずるところ、間に髪を容れず、此圖をはづさず戦て、大敵をも挫くわざなるゆへ、速なるを以て神妙とするなり。故に施子美は、此段を注して、機を得機を失ふは毫釐の間耳と云へり。圖にあたると圖にはづるると、一毫一釐の間だわづかのまなるを、ひたものに戦ふべき圖をはづし、退くべきぐわいを失ひ、おのづからに長陣をすること、誠に愚将のすることなり。

孫子の兵法:故に兵は拙速を聞くも、未だ巧久しきを睹ざるなり:故兵聞拙速未覩巧之久也:吉田松陰:孫子評註○孫子評註:『故に兵(いくさ。戦争。)は拙速(作戦計画が不備で戦争にまずいところがあっても、火急に勝負を決して利を得たことは、古来耳にしている。)を聞く、未だ巧(たとい、作戦計画が巧みで戦争が上手でも、長期間、出陣していて益のあったことは、みたことがない。)の久しきを覩ざるなり。』
 謀なくして武進するは、或は謀を好みて斷(戦争遂行の決断。)少なきに勝るものあり。拙速の二字を點し、假(拙速を貴ぶ、巧久を貴ばず、と言わないで、拙速を聞く、巧の久しきを覩(み)ずと、実際の見聞のように言っている。)を以て眞と為す。孫の文の人を眩(くらま)するに巧なる處なり。兵の情は速を主とす。疾く戦はざれば則ち亡ぶ。而して轒轀距堙(ふんうんきょいん)、三月城を攻むるを下策と為す。兵法に固(もと)より之れあり。亦之れを用ふるの何如(いかん)に在るのみ。

孫子の兵法:故に兵は拙速を聞くも、未だ巧久しきを睹ざるなり:故兵聞拙速未覩巧之久也:曹操孟徳:魏武帝註孫子:孫子十家註○曹公・李筌:拙と雖も速を以て勝つこと有り。未だ其れ無きを言う者を睹ざるなり。

○孟氏:拙と雖も速をもって勝つこと有り。

孫子の兵法:故に兵は拙速を聞くも、未だ巧久しきを睹ざるなり:故兵聞拙速未覩巧之久也:杜佑:孫子十家註○杜佑:孟氏と同じ。

孫子の兵法:故に兵は拙速を聞くも、未だ巧久しきを睹ざるなり:故兵聞拙速未覩巧之久也:杜牧:孫子十家註○杜牧:攻取の間、機智に於いて拙と雖も、然れば神速を以て上と為す。蓋し師を老し財を費やし兵を鈍らすの患無ければ、則ち巧と為すなり。

○陳皡:所謂疾雷耳を掩うに及ばず。卒電は目に瞬く及ばず。

孫子の兵法:故に兵は拙速を聞くも、未だ巧久しきを睹ざるなり:故兵聞拙速未覩巧之久也:梅堯臣:梅聖兪:孫子十家註○梅堯臣:拙尚お速を以て勝つ。未だ工(巧)にして久しくす可きを見ざるなり。

○王晳:晳謂いへらく久しければ則ち師を老し財を費やす。國虚にして人困す。巧者は保ちて患う所無きなり。

○何氏:速とは拙と雖も財力を費やさざるなり。久とは巧と雖も恐れて後患を生ずるなり。後秦姚萇 苻登と相持つ。苟も躍らば逆に萬堡に據りて、密かに苻登に引く。萇 登と戦い、馬頭原に敗る。衆を収め復た戦う。姚碩徳諸将に謂曰く、上 輕戦を愼しみ、毎に計を以て之れを取らんと欲す。今戦い既に利を失して、更に賊逼(せま)る。必ずや由有らんや。萇聞きて碩徳に謂いて曰く、登 兵を用い遅緩す。虚實を識らず。今輕兵直進す。徑 吾れ東に據る。必ずや苟曜之れと連結するのみ。事久しくして變を成す。其の禍測り難し。以て速く成す所の者、苟曜豎子、之を謀り未だ就かず、之を好み未だ深からざらしめんと欲するのみ。果して大いに之を敗る。武后初め、徐敬業 兵 江都に挙げ、復た皇家を匡(ただ)すと稱し、(幸+攵+下に皿の漢字)屋尉魏思恭を以て謀主と為す。計 思恭に問う。對えて曰く、明公 既に大后少主を幽縶するを以て、志 匡して復た在り。兵拙速を貴ぶ。宜しく早く淮北に渡り、親にして大衆を率いて、直ぐ東都に入るべし。山東将士 公 勤王の擧がる有るを知る。必ずや死を以て從わん。此れ則ち日を指し期を刻む。天下必ず定む。敬業其の策に從わんと欲す。薛璋又た説いて曰く、金陵の地、王の氣已に見る。宜しく早く之に應ずべし。兼て大江 險を設ける有り。以て自ら固くす可きに足る。請う且つ常潤等州を攻取し、以て王霸の業を為し、然る後兵を率い北上し、鼓行して前にす。此れ則ち退きて歸る所有り。進みて利にせざる無し。實に良き策なり。敬業以て然るを為す。乃ち自ら兵四千人を率い、南に渡り以て潤州を撃つ。思恭密かに杜求仁に謂いて曰く、兵勢合うに宜しく分つ可からず。今敬業力を并せ淮に渡り、山東の衆を率い以て洛陽に合うを知らず。必ずや能く事を成すこと無し。果して敗る。

○張預:但し能く勝を取らば、則ち寧ろ拙速にして、巧久無し。司馬宣王上庸を伐つに一月を以て一年を圖りて、死傷を計らずして糧を與え競うが若しとは、斯の拙速を欲するを謂う可きなり。


意訳

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○金谷孫子:だから、戦争には拙速-まずくともすばやく切りあげる-というのはあるが、巧久-うまくて長びく-という例はまだ無い。

○浅野孫子:だから戦争には、多少まずい点があっても迅速に切り上げるという事例はあっても、完璧を期したので長びいてしまったという事例は存在しない。

○町田孫子:だから、戦争には「拙(まず)くとも早くきりあげる」ということはあるが、「巧(うま)くて長びく」という例はみたことがない。

○天野孫子:そういう訳で、戦争は戦術がまずくとも速かに勝って、戦争を終結させるということを聞いている。

○フランシス・ワン孫子:それ故に、私は、戦争に於ては、たとえそれが不充分な勝利であっても、速やかに終結に導くことによって戦争目的を達成したということは聞くが、これに反し、完全勝利を求めて戦争を長期化させ、結果がよかった例を、未だ見たことがないのである。

○大橋孫子:それゆえ、戦いは、次善の作戦でも、速やかに勝を決すれば成功するが、最善の作戦でも、長くかかったものがよい結果を得たためしがなく、

○武岡孫子:だから戦争は拙速-勝利は不充分でも速く終わる-というのはあるが、巧久-完全勝利を求めて長期化-でよかった例はない。

○著者不明孫子:したがって、戦争には拙速ということは聞いても、巧久というのは見たことがない。

○学習研究社孫子:実際、戦闘が長びいて国家に利益があるということは、一度もなかったことである。

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