2012-08-21 (火) | 編集 |
孫子 兵法 大研究!
本文注釈:孫子 兵法 大研究!
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『孫子曰く、凡そ用兵の法、馳車千駟、革車千乗、帯甲十萬、千里にして糧を饋らんとすれば、』:本文注釈
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凡-①全体をおしなべて。すべて(の)。およそ(の)。②なみの。ありふれた。つまらぬ。【解字】板または広げた布の形を描いた象形文字。広く全体をおおう意を表す。
用兵-よう‐へい【用兵】戦いで軍隊を動かすこと。
馳-馬や車を速く走らせる。はせる。速く走る。
車-①主軸を中心に回転する輪。くるま。②輪の回転を利用して人や物を運ぶ道具。③はぐき。下あごの骨。【解字】くるまの象形文字。
駟-(速力の速い)四頭だての馬車。
革-①毛を除いて陰干しにした獣皮。なめしがわ。②獣皮で作った武具や楽器。③古いものを新しく変える。あらためる。あらたまる。【解字】象形。動物の全身の皮をはぎ、さらしてぴんと広げた形。たるんだものをぴんと張る意から、あらためる意に用いる。
乗-①車・船・馬などにのる。のせる。のりもの。②機会をうまく利用する。つけいる。③〔仏〕衆生を悟りの世界に導く方便。仏法。のりものの意。④記録。史書。記しのせる意。⑤兵車の数を数える語。中国で古くは兵車数が国力の程度を示すものとされた。⑥〔数〕ある数をある数にかける。掛け算。【解字】会意。「大」+「舛」+「木」。人が木の上で両足を大きく開いて踏んばっている(=のる)意。
帯甲-たい‐こう【帯甲】‥カフ 甲(よろい)を着た者、すなわち兵士。
里-①人家の集まっている所。むらざと。②いなか。民間。同義語:俚。③行政区画の名。④周代では人家二十五戸、漢・唐代では百戸、明代では百十戸のまとまり。⑤大宝令では、五十戸のまとまり。⑥みちのりを計る単位。一里は古くは六町、日本では後世三十六町(=約三・九キロ)。古代の耕地で六町平方の区画をも「里」という。【解字】会意。「田」(=四角く区切った田地)+「土」。縦横にきちんと区画した田畑や居住地の意。現代中国語では「裏」の簡体字としても用いる。
糧-かて。食料。旅行や行軍に携帯する米。【解字】形声。「米」+音符「量」(=はかる)。重さや量をはかって用いる主食の意。一説に、「量」は「良」に通じ、良質の食事の意。[粮]は異体字。
饋-おくる。食物や金品を贈る。おくりもの。
註
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○金谷孫子:馳車千駟-戦闘用の軽車千台。駟は一台ごとの四頭だての馬のこと。 革車-輜重の重車。
○浅野孫子:●馳車-四頭だての小型の戦車。 ●革車-皮革で装甲を施し、多くの兵員が乗り込む大型の戦車。『呉子』図国篇に、「革車は戸を奄(おお)い、輪を縵(ゆる)くし、轂(こしき)を籠(つつ)む」とある。 ●帯甲-甲(よろい)を身にまとった歩兵。 ●千里-約四百キロメートルの距離。
○町田孫子:<馳車千駟>馳車は戦闘用の軽車。駟は四頭立ての車の単位。 <革車千乗>革車は輜重用の重車。輜重車千台のこと。
○天野孫子:○凡用兵之法 「凡」は総括して言う時にその意を表わす語。ここでは、次の文によって知るように、どの国においても、いかなる時代においても、おしなべてという意。「兵」は戦争、戦闘。『口義』は「いくさ」と。「用兵」は戦争・戦闘を行なうこと。「法」は法則。
○馳車千駟 「馳車」は軽車とも言い、戦車のこと。『国字解』は「馳車は、曹操(魏武帝)・梅堯臣・施子美(『講義』)が注に、軽車也と云ふ。李筌は戦車也と注し、張預は攻車也と注す。合戦をする車なり。車を小くこしらへ馳引自在なる様にする故、様々の名あり」と。「駟」は馬四匹。戦車一台を馬四匹で引く。『諺義』は「車一両に馬四疋を用ひてこれを引かしむ。二疋は車の轅(ながゑ)の内にあり、二疋は轅の外にあり」と。「千駟」は、馬四千匹。戦車一台を引く馬を駟馬と言うから、千台で「千駟」となる。戦車一台に甲士(車上におる士)三人、歩卒(徒歩の兵)七十二人がつく。范寧『穀梁伝』(文公十四年)注に「甲士三人、歩兵七十二人」と。戦車千台で七万五千人。この句は戦車の数の極めて多いことを表わす。
○革車千乗 「革車」とは皮革で車をおおって堅固にしたもので、食糧・器械・衣服などを運ぶ輜重車。『国字解』は「革車は曹操・梅堯臣・施子美、いづれも重車也と注す。杜牧は輜車重車也と注し、張預は守車也と注す。兵具兵糧衣服等、諸道具をのする車なり。小荷駄のことを輜重と云ふ。重き荷物をのせて馳引自在ならず。革にてつつみて丈夫にこしらへ、守りて動かざる故、あまたの名あり」と。「千乗」は千台。輜重車一台について張預は「炊子(すゐし)十人、守装五人、廐養五人、樵汲(せうきふ)五人、共に二十五人」と。炊子は炊事係。守装は器財・衣類係。廐養は牛馬係。樵汲はたきぎ取り、水汲みの雑役係。この句は輜重車の数の極めて多いことを言う。なお「馳車」「革車」について諸説があるのは他書における用例と異なるからである。『纂注』は「按ずるに、曹公馳車を以て軽車と為し、革車を重車と為すの意は必ず受くる所あらん。然れども孟子・礼記・呉子・淮南子等の諸書、革車と称するは皆戦車にして重車に非ず。且つ馳車の名、古書に甚だ少なし。管子七臣七主篇に瑤台玉餔は処るに足らず、馳車千駟は乗るに足らずの語あり。此は田車を謂ふなり。此を以て之を観れば、馳車は車の名に非ずして、其の馳騁軽捷を言ふなり」と。
○帯甲十万 「帯」は身につける。「甲」はよろい。馳車千台と革車千台とで十万の将兵となる。この句は兵数の極めて多いことを言う。
○千里饋糧 「千里」は極めて長い道のりを表わす。周代の千里は今の約四百キロ余り。「饋糧」は食糧を送る。
○守屋孫子:およそ戦争というのは、戦車千台、輸送車千台、兵卒十万もの大軍を動員して、千里の遠方に糧秣を送らなければならない。
※馳車千駟 馳車は軽戦車。駟は四頭立ての馬車。当時の戦車は馬に引かせた車であった。千駟は千台という意味。
※革車千乗 革車は重装備の戦車。千乗は千台。
※千里 およそ四百キロ。
■孫武の時代は、戦車による車戦で勝敗を決した。ただし、戦車といっても、馬に引かせた車、すなわち馬車である。一台の戦車には原則として三人の戦士が乗り、これを四頭の馬に引かせた。各戦車にはそれぞれ農民兵が従卒として従ったが、その数は七十五人説、三十人説、十人説などがあってはっきりしない。戦車千台の軍備を有する国を「千乗の国」と称したが、これは当時にあっては相当な大国と言ってよい。
○大橋孫子:馳車-速力の速い戦闘用の馬車 千駟-四頭だての輓馬千組 革車千乗-輸送用車千輌 帯甲-武装兵
○武岡孫子:馳車-戦闘馬車、四頭立て牽き、軽車、兵車ともいう 千駟-千両 帯甲-武装兵
○佐野孫子:【校勘】千里而饋糧 「竹簡孫子」には「里」の下に「而」の字があるが、「十一家註本」、「武経本」にはない。「而」は「に・して・にして」などと読み、順接の意を表す接続助詞である。これを補う方が適当であるため、「竹簡孫子」に従って改める。
【語釈】◎馳車千駟 「馳車」は、甲士を乗せて敵を攻める戦車で軽車とも言う。「駟」は一台の軽車を引く馬四頭を指し、この意味から、四頭だての軽車を「一駟」と言う。「馳車千駟」とは、戦車千台の意。因みに、軽車一台に甲士(車上におる士)三人、歩卒七十二人がつくため、軽車千台で七万五千人となる。この句は、概数であって、必ずしも具体的な数をいっているのではない、と解する。
◎革車千乗 「革車」とは皮革で車をおおって堅固にしたもので、食料・器械・衣服などを運ぶ輜重用の重車。輜重車一台については二十五人がつく。「千乗」は千台の意。因みに、革車千台で兵士は二万五千人となる。
◎帯甲十万 「帯甲」とは甲(よろい)(革製のよろい)を身につけた兵士の意。「十万」とは軽車・重車それぞれ千台で、兵士は合計十万人となるの意。
◎千里而饋糧 「里」は周代の場合、今の約四百メートルであり、従って千里は約四百キロメートルとなるが、ここでは極めて長い道のりを表す、と解する。「饋」とは運送の意。
○田所孫子:○用兵之法とは、軍隊が戦闘態勢につくまでの行動法式。
○馳車千駟とは、馬四頭立ての戦車千台。一台には士官三人、兵卒七十二人がつく。
○革車千乗とは、兵糧・武器等を運ぶ軍用トラック千台。一台には、装備兵卒、調理兵卒等二十五人つく。
○帯甲十万とは、甲冑をつけた軍人十万。
○千里饋糧とは、千里も故国を離れた戦場に兵糧を送ること。中国の当時の一里は約五二四米。
○重沢孫子:用兵の一般的な原則は、馳車-攻撃用の戦闘車が千台、革車-輜重用の非戦闘車が千台、武装兵士十万人。この編成部隊を国外千里もの地域に出動させて、駟-馬四頭、馳車一台を四頭で引く。
里-当時の一里は半粁(キロメートル)弱。
○著者不明孫子:【凡用兵之法】 「凡」はすべての意。「用兵」は軍隊を動かす、戦争をすること。「法」は道と同じ。方法の意であるが、単なる方法でなく、根本的な在りかたという意味を含む。
【馳車千駟】 「馳車」は軽快に走り回れる戦闘用の兵車で、馬四頭に引かせる。「駟」は馬四頭、また四頭立ての馬車。
【革車千乗】 「革車」は皮革を張った車。諸説があるが、大きくて丈夫な兵車とする説を採る。兵車一台を一乗という。
【帯甲】 甲(よろい)を帯びる(身につける)つまり、武装すること。ここは武装した兵士・部隊をいう。けっきょく、「帯甲十万」と下の「十万之師」とは同じこと。
【饋】 食糧を送る、また単に「送る」意。
○孫子諺義:『孫子曰はく、凡そ兵を用ふるの法、馳車千駟、革車千乗、帯甲十萬、』
兵を用ふるの法とは軍旅の作法を云ふ也。馳車は四方へかけはせを自由にいたす車、即ち戦車也。輕車とも云ふ。車一兩に馬四疋を用ひてこれを引かしむ。二疋は車のながえ(轅)の内にあり、二疋はながえのそとにあり、是れを駟馬と云ふ、ゆゑに千駟と云へり。千兩と云ふの心也。革車は荷物糧食諸具をつめる小荷駄の車也、是れを重車と號す。車のこしらへ風雨寒暑にもそこねざるごとくならしむるゆゑに、車をおほふに革を以てす。このゆゑにはせ引自由なる車にあらず。是れは牛を以て引かしむ。千乗とは是れ又千兩と云ふの心也。革車は軍のときは備へのあとにおく。古來皆車戦を用ふ、ゆゑに車戦の法をいへる也。異國は土地平陸の處多くして車を用ふるに利多し。このゆゑに古來車戦を用ふる也。近來は車戦の法すたりて、騎戦歩戦を用ふ。唐の房琯(ぼうかん)(唐代の人、自ら謂うて将となり、古代車戦の法を用ひて大敗す)と云ふもの、後世も車戦の法然る可しとて、車戦を用ひ大いにやぶれたることあり。しかれば時代によつて用捨あること也。馳車千兩、革車千兩にては、大數甲武者(よろいむしゃ)十萬也。馳車一兩に士三人、卒七十二人、合せて上下七十五人、革車一兩に夫に付くもの廿五人の大法にて、以上百人なり。これを千兩あわせて十萬の都合たり。馳車・革車について、委細の説多しといへども、ここにはこれを略す。この段の心は十萬の兵を用ふるの大數を論ぜんために、いへることばなれば、ここにこまかなる議論益なき也。
○孫子国字解:『孫子曰、凡兵を用るの法、馳車千駟、革車千乗、帯甲十萬、千里に糧を饋るときは、則内外の費え、賓客の用、膠漆の材、車甲の奉、日々に千金を費やして然して後に十萬の師擧ぐ(矣)。』
則の字なき本もあり。此段は長陣の害を云ん為め、軍をするは費多きことを云へり。凡用兵之法とは、總じて軍をする作法と云ことなり。馳車千駟とは、馳車は、曹操、梅堯臣、施子美が注に、輕車也と云、李筌は戦車也と注し、張預は攻車也と注す。合戦をする車なり。車を小く輕くこしらへ、馳引自在なる様にするゆへ、様々の名あり。千駟とは、駟は馬四匹なり。車一つに馬四匹かくるなり。兩服兩驂とて、轅の内に二匹、これを兩服と云。轅の外に二匹、是を兩驂と云。それゆへ合戦をする車千と云ことを、馳車千駟と云なり。革車千乗とは、革車は曹操、梅堯臣、施子美いづれも重車也と注す。杜牧は輜車重車也と注し、張預は守車也と注す。兵具兵糧衣服等、諸道具をのする車なり。小荷駄のことを輜重と云。重き荷物をのせて馳引自由ならず、革にてつつみて丈夫にこしらへ、守て動かざるゆへ、あまたの名あり。牛十二匹にて引かする也。馳車をは千駟と云ひ、革車をば千乗と云。何れも車千のことなれども、馳車は馬にかけ、はせ引きを第一にするゆへ、馬へかけて詞を立てて、幾駟と云なり。革車は荷物をのする為め、幾乗と云なり。總じて古は車戦と云ことありて、軍には又車を用ゆ。それゆへ軍の字も車に從ふなり。異國は大國にて、平地多きゆへ、車を用たると見えたり。押前には馳車を先へ立て、革車を後にす。陣を取る時は馳車をまはりに置き、革車を中にをく。戦に臨ては車をならべて備を立て、是にて矢鐵砲をも防ぎ、又休息をもするなり。懸れども妄に懸らず、崩るる時も、大崩れすることなし。故に三代戦國の間、專ら是を用ひらるなり。後代に及で、騎兵を專にして合戦をするゆへ自ら車戦の法すたれ、御者の法も、車の制度も、皆絶て傳らず、節制の軍に心ある名将、車戦の法をとり起んとすれども叶はず、代々北狄の禍中國にたえざるも、此法すたれたる故なりと云へり。實に北狄の夷は、馬の名人なれば、馬入れを止むこと、車戦に非んば叶ひ難かるべし。帯甲十萬とは、帯甲は甲を帯すとよむ。武者のことなり。武者十萬とは、馳車には甲士三人、歩卒七十二人、合て七十五人なり。甲士は大将にて車の上にあり。前拒、左角、右角とて、二十四人づつ前と左と右とに備を三つに分けて立るなり。革車には炊子とて、食事を拵(こしらえ)る者十人、守装とて、衣類兵具を司る者五人、厩養とて、馬牛を詞ふ者五人、橅汲とて、薪を取り水を汲むもの五人にて、合て二十五人。然れば馳車一つ、革車一つにて、人數百人づつ、馳車千駟、革車千乗にては、都合十萬人なり。然れども帯甲とある時は、合戦をする武者ばかりのことなれば、馳車の方ばかりを數へて、七十五人づつ、都合七萬五千なるを、孫子大數を擧て十萬と云へるなり。梅堯臣が説には、馳車の方に、甲士歩卒合て二十五人、革車の方に、甲士歩卒合て七十五人にて、都合十萬人と云へり。尤時の手配りによりて、箇様にもあるべけれども、曹操の新書の説より、代々諸家の説前に述る如し、大數を擧ぐと云説に從ふべし。扨十萬と云詞も、大抵百里四方の國を領する、千乗の諸侯の上にて云へるなり。千里饋糧とは、右の人數十萬、馬四千匹、牛一萬二千匹の總數を以て、千里の外へ押出さんに、其兵粮米馬の豆芻等を運ぶことを云なり。但し異國の千里と云は、右は周尺八尺を一歩とす。周の一尺は日本今の曲尺の七寸二分弱なり。これを知ることは、唐書に開元通寶徑八分とあり、今世に殘り傳る開元錢を、曲尺にてはかるに、又八分あり。是唐の尺は即今の曲尺と同きなり。扨周尺は隋書に、後周の玉尺は、晉前尺に比するに、一尺一寸五分八釐と云ひ、通典に、玉尺を論して、大尺の六之五に當ると云り、晉前尺は即周尺なり。大尺は唐尺にて、即今の曲尺なり。因てこれを算して、周尺は今の七寸一分九厘六毫三絲に當ると知る。故に七寸二分弱と云たるなり。一里を三百歩とする時は、曲尺の百七十二丈八尺にて、四町四十八間、千里は四千八百町なれば、百三十三里餘なり。周の末には、或は六尺を一歩とし、或は六尺四寸を一歩として、其制諸國同じからず。秦に至て一統して、六尺一歩に定めたり。六尺を一歩とする時は、一里三百歩は、今の三町三十六間にて、千里は三千六百町即百里なり。されば本文に千里饋粮と云は、大抵日本の里數にて、百里より百二三十里ほどの道なれば、平生の道にして、十日路程を兵粮をはこぶことなり。内外之費とは、内は領内なり。外は軍所なり。賓客之用とは、客人のまかなひなり。軍あれば隣國より使者の往來もあり。又反間游説の士にも入用を考へ、金銀を與へて、諸國へうち散し、計策をなさしむ。漢の高祖の千金を陳平に與へ、反間をなさしむる類、又は軍中にて士卒へ饗應[きょう‐おう【饗応】キヤウ‥(キョウヨウとも)①酒食を供して、もてなすこと。供応。②迎合すること。]を賜るも、軍用の外なれば、この賓客之用と云内にこもると、王晳、施子美が注にあり。膠漆之材とは、弓其外諸の兵具に用る、にかはうるしなり。材と云は、材木の材にて、にかはうるしは、其領内より出るものなれば、是を買取るに及ばず、材木を山より伐り取て使ふ如く、其國より出るものを直に用るを云なり。車甲之奉とは、車は軍車なり。甲は甲冑なり。奉は奉養[ほう‐よう【奉養】‥ヤウ 親や目上の人に仕えて養うこと。]の意にて、車は軍をのせ、甲冑は軍士にきすれば、皆軍士を奉養するものゆへ、奉と云なり。右の膠漆之材は、細かなる費をあげ、車甲之奉は、大きなる費をあげたり。日費千金とは、右の如く十萬の軍兵に、四千匹の馬、萬二千匹の牛を、十日路の外へ出す時は、領内軍所の入目、賓客のもてなし、細にしては膠漆の類、大きにして車甲冑の類、押し合せて云はば、一日に千金の入目を入れずんば、軍用調ふべからずとなり。然後十萬之師擧矣とは、さやうに日々千金づつ入目を入れて、其後やうやうに、十萬の人數はおし出さるると云意なり。さやうの費をいとひては、大軍をやすやすと、十日路の遠方へ運び出すことはならぬとなり。千金と云は、公羊傳[くようでん【公羊伝】‥ヤウ‥「春秋」の注釈書。春秋三伝の一つ。11巻。公羊高の伝述したものを、その玄孫の寿と弟子の胡母生らとが録して一書としたものとされる。]の注には、百萬の錢を百金と云とあれば、千金は千萬の錢なるゆゑ、錢一萬貫のことなり。又漢の食貨志[しょっか‐し【食貨志】シヨククワ‥中国の正史中の一分野。経済に関する記録。]には、黄金四方一寸にて重さ一斤を一金と云とあれば、千金は黄金百六十貫目のことなり。然れども、沈存中が筆談に、古今秤目の不同を論じて、一斤は四十三匁(もんめ)三分なりと云ひ、明の王元美が宛委餘編に、黄金の重さ四十三錢三分は、錢十貫か二十貫にあたると云へり。然れば、公羊傳の注と、大抵符合せり。されども皆大概を云たるものなれば、強ちに千金の數に泥(なず)むべからず。まして今日本の物價とは、はるかに違あるべしと思はる。されども後來の考の為め、里數斤目のことをもあらましを記すなり。
○孫子評註:『孫子曰く、凡そ兵を用ふるの法、馳車千駟(戦車千台、駟は四頭立ての馬車)、革車千乗(革でおおってじょうぶにし、兵具・兵糧・衣服等、諸道具を乗せた車千台。乗は車を数えることば。)、帯甲十萬(よろいを着た将兵。)、千里糧を饋る。』
糧を饋るの下に、或は「則」の字あるも、語勢險急、恐らくは此の字を著(つ)け得ざらん。十萬十里は全篇を通貫す。
孫子十家註:『孫子曰く、凡そ兵を用ふる之法、馳車千駟(御覧は千乗に作る。)、革車千乗、帯甲十萬、』
○曹公:馳車とは輕車なり。駟馬を駕[①馬・馬車に乗る。乗り物をあやつる。乗り物。②のりこえる。しのぐ。](が)す。凡そ千乗なり。革車とは重車なり。萬騎の重を言うなり。一車は四馬を駕す。卒十騎は一重なり。養二人は炊を主る。家子一人は衣装を固く守りて主に保つ。廏二人は馬を養うを主る。凡そ五人なり。歩兵十人は重なり。大車を以て牛を駕す。養二人は炊を主る。家子一人は衣装を守るを主る。凡そ三人なり。帯甲十萬とは士卒の數なり。
○李筌:馳車は戦車なり。革車は輕車なり。帯甲は歩卒なり。車一兩を駕すに駟馬を以てし、歩卒七十人なり。計千駟の軍とは、帯甲七萬、馬四千匹なり。孫子約して軍資の數を以て、十萬を以て率いるを為さば、則ち百萬知る可し、となり。
○杜牧:輕車とは乃ち戦車なり。古くは車戦は、革車輜車重車なり。器械財貨衣装を載するなり。司馬法に曰く、一車 甲士三人、歩卒七十二人、炊家子十人、固守衣装五人、廏養五人、橅汲五人。輕車七十五人。重車二十五人。故に二乗は一百人を兼ね一隊を為す。十萬の衆を擧げるに革車千乗、其の費用を校べ度計れば、則ち百萬の衆皆知る可きなり。
○梅堯臣:馳車は輕車なり。革車は重車なり。凡そ輕車一乗は、甲士歩卒二十五人。重車一乗は、甲士歩卒七十五人。二車各千乗を擧げるに、是れ帯甲者十萬人。
○王晳:曹公曰く、輕車なり。駟馬を駕すは凡そ千乗。晳謂へらく、馳車は革車を駕すを謂うなり。一乗四馬は駟を為す。千駟とは則ち革車千乗なり。曹操曰く、重車なり。晳謂へらく、革車は兵車なり。五戎千乗の賦有り。諸侯の大なる者なり。曹公曰く、帯甲十萬は歩卒の數なり。晳謂へらく、井田の法、甸[①郊外。②都城周辺の、天子直属の地。③周代の税制で、六十四井の土地。→井田④統治する。⑤農産物。⑥狩り。]は兵車一乗、甲士三人、歩卒七十二人を出す。千乗は總七萬五千人。此れ帯甲十萬を言う。豈に當に時權を制すべきか。
○何氏:十萬は成數を擧げるなり。
○張預:馳車は即ち功車なり。革車は即ち守車なり。按ずるに、曹公新書に云わく、攻車一乗は、前拒一隊、左右角二隊、共に七十五人。守車一乗は、炊子十人、守装五人、廐養五人、橅汲五人、共に二十五人。攻守二乗は凡そ一百人、師を興すに十萬なれば、則ち車を用いるは二千。輕重各半。此れを與えるに同じなり。
孫子十家註:『千里糧を饋くる』
○曹公:境を越すに千里なり。
○李筌:道を理(おさ)めるに縣[中国の行政区画の一つ。春秋時代、国を滅ぼして県とすることが一般化。戦国時代以後郡の下に県が置かれ、後代、州または府で県を統べ、民国初めには道の下に県を置く。現在は省(および自治区・直轄市)の下に県がある。]を遠にす。
意訳
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○金谷孫子:孫子はいう。およそ戦争の原則としては、戦車千台、輜重車千台、武具をつけた兵士十万で、千里の外に食糧を運搬するというばあいには、
○浅野孫子:孫子は言う。およそ軍隊を運用するときの一般原則としては、軽戦車千台、重戦車千台、歩兵十万人の編成規模で、千里の外に兵糧を輸送する形態の場合には、
○町田孫子:孫子はいう。およそ戦争の原則は、戦車千台、輜重車千台、武装の兵士が十万で、千里の外に出兵して食糧を輸送するという際には、
○天野孫子:孫子は次のように言う。およそ戦争を行なう場合の法則として、戦車千台、輜重車千台、武装の軍隊十万人を整え、千里の遠方に食糧を輸送するならば、
○フランシス・ワン孫子:およそ戦争には四頭立ての快速戦車千輌と四頭立ての革の装甲輜重車千輌、さらに、鎧・甲(かぶと)の武装兵十万が必要である。遠方千里に食糧を送り、
○大橋孫子:戦いを始め、快速戦車千輌、輸送車千輌、武装兵十万を千里の遠くに出征させ、これに糧秣を送れば、
○武岡孫子:孫子はいう。戦争の一例として、戦車千台を基幹に、軍需品輸送車千台、武装兵十万を伴った軍団を、千里の彼方に派遣し、これに本国から食糧を追送する作戦を行なう場合には、
○著者不明孫子:そもそも軍隊を動かす場合の原則は-四頭立ての軽兵車千台、重兵車千台、戦時装備の兵員十万をそろえて、千里の遠くまで軍糧を運べば、
○学習研究社孫子:孫子は言った-。通常、軍隊を動かす規準を考えてみるに、軽戦車千台、重戦車千台、武装兵十万人を動員し、千里先まで食糧輸送するという設定ならば、
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『孫子曰く、凡そ用兵の法、馳車千駟、革車千乗、帯甲十萬、千里にして糧を饋らんとすれば、』:本文注釈
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凡-①全体をおしなべて。すべて(の)。およそ(の)。②なみの。ありふれた。つまらぬ。【解字】板または広げた布の形を描いた象形文字。広く全体をおおう意を表す。
用兵-よう‐へい【用兵】戦いで軍隊を動かすこと。
馳-馬や車を速く走らせる。はせる。速く走る。
車-①主軸を中心に回転する輪。くるま。②輪の回転を利用して人や物を運ぶ道具。③はぐき。下あごの骨。【解字】くるまの象形文字。
駟-(速力の速い)四頭だての馬車。
革-①毛を除いて陰干しにした獣皮。なめしがわ。②獣皮で作った武具や楽器。③古いものを新しく変える。あらためる。あらたまる。【解字】象形。動物の全身の皮をはぎ、さらしてぴんと広げた形。たるんだものをぴんと張る意から、あらためる意に用いる。
乗-①車・船・馬などにのる。のせる。のりもの。②機会をうまく利用する。つけいる。③〔仏〕衆生を悟りの世界に導く方便。仏法。のりものの意。④記録。史書。記しのせる意。⑤兵車の数を数える語。中国で古くは兵車数が国力の程度を示すものとされた。⑥〔数〕ある数をある数にかける。掛け算。【解字】会意。「大」+「舛」+「木」。人が木の上で両足を大きく開いて踏んばっている(=のる)意。
帯甲-たい‐こう【帯甲】‥カフ 甲(よろい)を着た者、すなわち兵士。
里-①人家の集まっている所。むらざと。②いなか。民間。同義語:俚。③行政区画の名。④周代では人家二十五戸、漢・唐代では百戸、明代では百十戸のまとまり。⑤大宝令では、五十戸のまとまり。⑥みちのりを計る単位。一里は古くは六町、日本では後世三十六町(=約三・九キロ)。古代の耕地で六町平方の区画をも「里」という。【解字】会意。「田」(=四角く区切った田地)+「土」。縦横にきちんと区画した田畑や居住地の意。現代中国語では「裏」の簡体字としても用いる。
糧-かて。食料。旅行や行軍に携帯する米。【解字】形声。「米」+音符「量」(=はかる)。重さや量をはかって用いる主食の意。一説に、「量」は「良」に通じ、良質の食事の意。[粮]は異体字。
饋-おくる。食物や金品を贈る。おくりもの。
註
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○金谷孫子:馳車千駟-戦闘用の軽車千台。駟は一台ごとの四頭だての馬のこと。 革車-輜重の重車。
○浅野孫子:●馳車-四頭だての小型の戦車。 ●革車-皮革で装甲を施し、多くの兵員が乗り込む大型の戦車。『呉子』図国篇に、「革車は戸を奄(おお)い、輪を縵(ゆる)くし、轂(こしき)を籠(つつ)む」とある。 ●帯甲-甲(よろい)を身にまとった歩兵。 ●千里-約四百キロメートルの距離。
○町田孫子:<馳車千駟>馳車は戦闘用の軽車。駟は四頭立ての車の単位。 <革車千乗>革車は輜重用の重車。輜重車千台のこと。
○天野孫子:○凡用兵之法 「凡」は総括して言う時にその意を表わす語。ここでは、次の文によって知るように、どの国においても、いかなる時代においても、おしなべてという意。「兵」は戦争、戦闘。『口義』は「いくさ」と。「用兵」は戦争・戦闘を行なうこと。「法」は法則。
○馳車千駟 「馳車」は軽車とも言い、戦車のこと。『国字解』は「馳車は、曹操(魏武帝)・梅堯臣・施子美(『講義』)が注に、軽車也と云ふ。李筌は戦車也と注し、張預は攻車也と注す。合戦をする車なり。車を小くこしらへ馳引自在なる様にする故、様々の名あり」と。「駟」は馬四匹。戦車一台を馬四匹で引く。『諺義』は「車一両に馬四疋を用ひてこれを引かしむ。二疋は車の轅(ながゑ)の内にあり、二疋は轅の外にあり」と。「千駟」は、馬四千匹。戦車一台を引く馬を駟馬と言うから、千台で「千駟」となる。戦車一台に甲士(車上におる士)三人、歩卒(徒歩の兵)七十二人がつく。范寧『穀梁伝』(文公十四年)注に「甲士三人、歩兵七十二人」と。戦車千台で七万五千人。この句は戦車の数の極めて多いことを表わす。
○革車千乗 「革車」とは皮革で車をおおって堅固にしたもので、食糧・器械・衣服などを運ぶ輜重車。『国字解』は「革車は曹操・梅堯臣・施子美、いづれも重車也と注す。杜牧は輜車重車也と注し、張預は守車也と注す。兵具兵糧衣服等、諸道具をのする車なり。小荷駄のことを輜重と云ふ。重き荷物をのせて馳引自在ならず。革にてつつみて丈夫にこしらへ、守りて動かざる故、あまたの名あり」と。「千乗」は千台。輜重車一台について張預は「炊子(すゐし)十人、守装五人、廐養五人、樵汲(せうきふ)五人、共に二十五人」と。炊子は炊事係。守装は器財・衣類係。廐養は牛馬係。樵汲はたきぎ取り、水汲みの雑役係。この句は輜重車の数の極めて多いことを言う。なお「馳車」「革車」について諸説があるのは他書における用例と異なるからである。『纂注』は「按ずるに、曹公馳車を以て軽車と為し、革車を重車と為すの意は必ず受くる所あらん。然れども孟子・礼記・呉子・淮南子等の諸書、革車と称するは皆戦車にして重車に非ず。且つ馳車の名、古書に甚だ少なし。管子七臣七主篇に瑤台玉餔は処るに足らず、馳車千駟は乗るに足らずの語あり。此は田車を謂ふなり。此を以て之を観れば、馳車は車の名に非ずして、其の馳騁軽捷を言ふなり」と。
○帯甲十万 「帯」は身につける。「甲」はよろい。馳車千台と革車千台とで十万の将兵となる。この句は兵数の極めて多いことを言う。
○千里饋糧 「千里」は極めて長い道のりを表わす。周代の千里は今の約四百キロ余り。「饋糧」は食糧を送る。
○守屋孫子:およそ戦争というのは、戦車千台、輸送車千台、兵卒十万もの大軍を動員して、千里の遠方に糧秣を送らなければならない。
※馳車千駟 馳車は軽戦車。駟は四頭立ての馬車。当時の戦車は馬に引かせた車であった。千駟は千台という意味。
※革車千乗 革車は重装備の戦車。千乗は千台。
※千里 およそ四百キロ。
■孫武の時代は、戦車による車戦で勝敗を決した。ただし、戦車といっても、馬に引かせた車、すなわち馬車である。一台の戦車には原則として三人の戦士が乗り、これを四頭の馬に引かせた。各戦車にはそれぞれ農民兵が従卒として従ったが、その数は七十五人説、三十人説、十人説などがあってはっきりしない。戦車千台の軍備を有する国を「千乗の国」と称したが、これは当時にあっては相当な大国と言ってよい。
○大橋孫子:馳車-速力の速い戦闘用の馬車 千駟-四頭だての輓馬千組 革車千乗-輸送用車千輌 帯甲-武装兵
○武岡孫子:馳車-戦闘馬車、四頭立て牽き、軽車、兵車ともいう 千駟-千両 帯甲-武装兵
○佐野孫子:【校勘】千里而饋糧 「竹簡孫子」には「里」の下に「而」の字があるが、「十一家註本」、「武経本」にはない。「而」は「に・して・にして」などと読み、順接の意を表す接続助詞である。これを補う方が適当であるため、「竹簡孫子」に従って改める。
【語釈】◎馳車千駟 「馳車」は、甲士を乗せて敵を攻める戦車で軽車とも言う。「駟」は一台の軽車を引く馬四頭を指し、この意味から、四頭だての軽車を「一駟」と言う。「馳車千駟」とは、戦車千台の意。因みに、軽車一台に甲士(車上におる士)三人、歩卒七十二人がつくため、軽車千台で七万五千人となる。この句は、概数であって、必ずしも具体的な数をいっているのではない、と解する。
◎革車千乗 「革車」とは皮革で車をおおって堅固にしたもので、食料・器械・衣服などを運ぶ輜重用の重車。輜重車一台については二十五人がつく。「千乗」は千台の意。因みに、革車千台で兵士は二万五千人となる。
◎帯甲十万 「帯甲」とは甲(よろい)(革製のよろい)を身につけた兵士の意。「十万」とは軽車・重車それぞれ千台で、兵士は合計十万人となるの意。
◎千里而饋糧 「里」は周代の場合、今の約四百メートルであり、従って千里は約四百キロメートルとなるが、ここでは極めて長い道のりを表す、と解する。「饋」とは運送の意。
○田所孫子:○用兵之法とは、軍隊が戦闘態勢につくまでの行動法式。
○馳車千駟とは、馬四頭立ての戦車千台。一台には士官三人、兵卒七十二人がつく。
○革車千乗とは、兵糧・武器等を運ぶ軍用トラック千台。一台には、装備兵卒、調理兵卒等二十五人つく。
○帯甲十万とは、甲冑をつけた軍人十万。
○千里饋糧とは、千里も故国を離れた戦場に兵糧を送ること。中国の当時の一里は約五二四米。
○重沢孫子:用兵の一般的な原則は、馳車-攻撃用の戦闘車が千台、革車-輜重用の非戦闘車が千台、武装兵士十万人。この編成部隊を国外千里もの地域に出動させて、駟-馬四頭、馳車一台を四頭で引く。
里-当時の一里は半粁(キロメートル)弱。
○著者不明孫子:【凡用兵之法】 「凡」はすべての意。「用兵」は軍隊を動かす、戦争をすること。「法」は道と同じ。方法の意であるが、単なる方法でなく、根本的な在りかたという意味を含む。
【馳車千駟】 「馳車」は軽快に走り回れる戦闘用の兵車で、馬四頭に引かせる。「駟」は馬四頭、また四頭立ての馬車。
【革車千乗】 「革車」は皮革を張った車。諸説があるが、大きくて丈夫な兵車とする説を採る。兵車一台を一乗という。
【帯甲】 甲(よろい)を帯びる(身につける)つまり、武装すること。ここは武装した兵士・部隊をいう。けっきょく、「帯甲十万」と下の「十万之師」とは同じこと。
【饋】 食糧を送る、また単に「送る」意。
○孫子諺義:『孫子曰はく、凡そ兵を用ふるの法、馳車千駟、革車千乗、帯甲十萬、』
兵を用ふるの法とは軍旅の作法を云ふ也。馳車は四方へかけはせを自由にいたす車、即ち戦車也。輕車とも云ふ。車一兩に馬四疋を用ひてこれを引かしむ。二疋は車のながえ(轅)の内にあり、二疋はながえのそとにあり、是れを駟馬と云ふ、ゆゑに千駟と云へり。千兩と云ふの心也。革車は荷物糧食諸具をつめる小荷駄の車也、是れを重車と號す。車のこしらへ風雨寒暑にもそこねざるごとくならしむるゆゑに、車をおほふに革を以てす。このゆゑにはせ引自由なる車にあらず。是れは牛を以て引かしむ。千乗とは是れ又千兩と云ふの心也。革車は軍のときは備へのあとにおく。古來皆車戦を用ふ、ゆゑに車戦の法をいへる也。異國は土地平陸の處多くして車を用ふるに利多し。このゆゑに古來車戦を用ふる也。近來は車戦の法すたりて、騎戦歩戦を用ふ。唐の房琯(ぼうかん)(唐代の人、自ら謂うて将となり、古代車戦の法を用ひて大敗す)と云ふもの、後世も車戦の法然る可しとて、車戦を用ひ大いにやぶれたることあり。しかれば時代によつて用捨あること也。馳車千兩、革車千兩にては、大數甲武者(よろいむしゃ)十萬也。馳車一兩に士三人、卒七十二人、合せて上下七十五人、革車一兩に夫に付くもの廿五人の大法にて、以上百人なり。これを千兩あわせて十萬の都合たり。馳車・革車について、委細の説多しといへども、ここにはこれを略す。この段の心は十萬の兵を用ふるの大數を論ぜんために、いへることばなれば、ここにこまかなる議論益なき也。
○孫子国字解:『孫子曰、凡兵を用るの法、馳車千駟、革車千乗、帯甲十萬、千里に糧を饋るときは、則内外の費え、賓客の用、膠漆の材、車甲の奉、日々に千金を費やして然して後に十萬の師擧ぐ(矣)。』
則の字なき本もあり。此段は長陣の害を云ん為め、軍をするは費多きことを云へり。凡用兵之法とは、總じて軍をする作法と云ことなり。馳車千駟とは、馳車は、曹操、梅堯臣、施子美が注に、輕車也と云、李筌は戦車也と注し、張預は攻車也と注す。合戦をする車なり。車を小く輕くこしらへ、馳引自在なる様にするゆへ、様々の名あり。千駟とは、駟は馬四匹なり。車一つに馬四匹かくるなり。兩服兩驂とて、轅の内に二匹、これを兩服と云。轅の外に二匹、是を兩驂と云。それゆへ合戦をする車千と云ことを、馳車千駟と云なり。革車千乗とは、革車は曹操、梅堯臣、施子美いづれも重車也と注す。杜牧は輜車重車也と注し、張預は守車也と注す。兵具兵糧衣服等、諸道具をのする車なり。小荷駄のことを輜重と云。重き荷物をのせて馳引自由ならず、革にてつつみて丈夫にこしらへ、守て動かざるゆへ、あまたの名あり。牛十二匹にて引かする也。馳車をは千駟と云ひ、革車をば千乗と云。何れも車千のことなれども、馳車は馬にかけ、はせ引きを第一にするゆへ、馬へかけて詞を立てて、幾駟と云なり。革車は荷物をのする為め、幾乗と云なり。總じて古は車戦と云ことありて、軍には又車を用ゆ。それゆへ軍の字も車に從ふなり。異國は大國にて、平地多きゆへ、車を用たると見えたり。押前には馳車を先へ立て、革車を後にす。陣を取る時は馳車をまはりに置き、革車を中にをく。戦に臨ては車をならべて備を立て、是にて矢鐵砲をも防ぎ、又休息をもするなり。懸れども妄に懸らず、崩るる時も、大崩れすることなし。故に三代戦國の間、專ら是を用ひらるなり。後代に及で、騎兵を專にして合戦をするゆへ自ら車戦の法すたれ、御者の法も、車の制度も、皆絶て傳らず、節制の軍に心ある名将、車戦の法をとり起んとすれども叶はず、代々北狄の禍中國にたえざるも、此法すたれたる故なりと云へり。實に北狄の夷は、馬の名人なれば、馬入れを止むこと、車戦に非んば叶ひ難かるべし。帯甲十萬とは、帯甲は甲を帯すとよむ。武者のことなり。武者十萬とは、馳車には甲士三人、歩卒七十二人、合て七十五人なり。甲士は大将にて車の上にあり。前拒、左角、右角とて、二十四人づつ前と左と右とに備を三つに分けて立るなり。革車には炊子とて、食事を拵(こしらえ)る者十人、守装とて、衣類兵具を司る者五人、厩養とて、馬牛を詞ふ者五人、橅汲とて、薪を取り水を汲むもの五人にて、合て二十五人。然れば馳車一つ、革車一つにて、人數百人づつ、馳車千駟、革車千乗にては、都合十萬人なり。然れども帯甲とある時は、合戦をする武者ばかりのことなれば、馳車の方ばかりを數へて、七十五人づつ、都合七萬五千なるを、孫子大數を擧て十萬と云へるなり。梅堯臣が説には、馳車の方に、甲士歩卒合て二十五人、革車の方に、甲士歩卒合て七十五人にて、都合十萬人と云へり。尤時の手配りによりて、箇様にもあるべけれども、曹操の新書の説より、代々諸家の説前に述る如し、大數を擧ぐと云説に從ふべし。扨十萬と云詞も、大抵百里四方の國を領する、千乗の諸侯の上にて云へるなり。千里饋糧とは、右の人數十萬、馬四千匹、牛一萬二千匹の總數を以て、千里の外へ押出さんに、其兵粮米馬の豆芻等を運ぶことを云なり。但し異國の千里と云は、右は周尺八尺を一歩とす。周の一尺は日本今の曲尺の七寸二分弱なり。これを知ることは、唐書に開元通寶徑八分とあり、今世に殘り傳る開元錢を、曲尺にてはかるに、又八分あり。是唐の尺は即今の曲尺と同きなり。扨周尺は隋書に、後周の玉尺は、晉前尺に比するに、一尺一寸五分八釐と云ひ、通典に、玉尺を論して、大尺の六之五に當ると云り、晉前尺は即周尺なり。大尺は唐尺にて、即今の曲尺なり。因てこれを算して、周尺は今の七寸一分九厘六毫三絲に當ると知る。故に七寸二分弱と云たるなり。一里を三百歩とする時は、曲尺の百七十二丈八尺にて、四町四十八間、千里は四千八百町なれば、百三十三里餘なり。周の末には、或は六尺を一歩とし、或は六尺四寸を一歩として、其制諸國同じからず。秦に至て一統して、六尺一歩に定めたり。六尺を一歩とする時は、一里三百歩は、今の三町三十六間にて、千里は三千六百町即百里なり。されば本文に千里饋粮と云は、大抵日本の里數にて、百里より百二三十里ほどの道なれば、平生の道にして、十日路程を兵粮をはこぶことなり。内外之費とは、内は領内なり。外は軍所なり。賓客之用とは、客人のまかなひなり。軍あれば隣國より使者の往來もあり。又反間游説の士にも入用を考へ、金銀を與へて、諸國へうち散し、計策をなさしむ。漢の高祖の千金を陳平に與へ、反間をなさしむる類、又は軍中にて士卒へ饗應[きょう‐おう【饗応】キヤウ‥(キョウヨウとも)①酒食を供して、もてなすこと。供応。②迎合すること。]を賜るも、軍用の外なれば、この賓客之用と云内にこもると、王晳、施子美が注にあり。膠漆之材とは、弓其外諸の兵具に用る、にかはうるしなり。材と云は、材木の材にて、にかはうるしは、其領内より出るものなれば、是を買取るに及ばず、材木を山より伐り取て使ふ如く、其國より出るものを直に用るを云なり。車甲之奉とは、車は軍車なり。甲は甲冑なり。奉は奉養[ほう‐よう【奉養】‥ヤウ 親や目上の人に仕えて養うこと。]の意にて、車は軍をのせ、甲冑は軍士にきすれば、皆軍士を奉養するものゆへ、奉と云なり。右の膠漆之材は、細かなる費をあげ、車甲之奉は、大きなる費をあげたり。日費千金とは、右の如く十萬の軍兵に、四千匹の馬、萬二千匹の牛を、十日路の外へ出す時は、領内軍所の入目、賓客のもてなし、細にしては膠漆の類、大きにして車甲冑の類、押し合せて云はば、一日に千金の入目を入れずんば、軍用調ふべからずとなり。然後十萬之師擧矣とは、さやうに日々千金づつ入目を入れて、其後やうやうに、十萬の人數はおし出さるると云意なり。さやうの費をいとひては、大軍をやすやすと、十日路の遠方へ運び出すことはならぬとなり。千金と云は、公羊傳[くようでん【公羊伝】‥ヤウ‥「春秋」の注釈書。春秋三伝の一つ。11巻。公羊高の伝述したものを、その玄孫の寿と弟子の胡母生らとが録して一書としたものとされる。]の注には、百萬の錢を百金と云とあれば、千金は千萬の錢なるゆゑ、錢一萬貫のことなり。又漢の食貨志[しょっか‐し【食貨志】シヨククワ‥中国の正史中の一分野。経済に関する記録。]には、黄金四方一寸にて重さ一斤を一金と云とあれば、千金は黄金百六十貫目のことなり。然れども、沈存中が筆談に、古今秤目の不同を論じて、一斤は四十三匁(もんめ)三分なりと云ひ、明の王元美が宛委餘編に、黄金の重さ四十三錢三分は、錢十貫か二十貫にあたると云へり。然れば、公羊傳の注と、大抵符合せり。されども皆大概を云たるものなれば、強ちに千金の數に泥(なず)むべからず。まして今日本の物價とは、はるかに違あるべしと思はる。されども後來の考の為め、里數斤目のことをもあらましを記すなり。
○孫子評註:『孫子曰く、凡そ兵を用ふるの法、馳車千駟(戦車千台、駟は四頭立ての馬車)、革車千乗(革でおおってじょうぶにし、兵具・兵糧・衣服等、諸道具を乗せた車千台。乗は車を数えることば。)、帯甲十萬(よろいを着た将兵。)、千里糧を饋る。』
糧を饋るの下に、或は「則」の字あるも、語勢險急、恐らくは此の字を著(つ)け得ざらん。十萬十里は全篇を通貫す。
孫子十家註:『孫子曰く、凡そ兵を用ふる之法、馳車千駟(御覧は千乗に作る。)、革車千乗、帯甲十萬、』
○曹公:馳車とは輕車なり。駟馬を駕[①馬・馬車に乗る。乗り物をあやつる。乗り物。②のりこえる。しのぐ。](が)す。凡そ千乗なり。革車とは重車なり。萬騎の重を言うなり。一車は四馬を駕す。卒十騎は一重なり。養二人は炊を主る。家子一人は衣装を固く守りて主に保つ。廏二人は馬を養うを主る。凡そ五人なり。歩兵十人は重なり。大車を以て牛を駕す。養二人は炊を主る。家子一人は衣装を守るを主る。凡そ三人なり。帯甲十萬とは士卒の數なり。
○李筌:馳車は戦車なり。革車は輕車なり。帯甲は歩卒なり。車一兩を駕すに駟馬を以てし、歩卒七十人なり。計千駟の軍とは、帯甲七萬、馬四千匹なり。孫子約して軍資の數を以て、十萬を以て率いるを為さば、則ち百萬知る可し、となり。
○杜牧:輕車とは乃ち戦車なり。古くは車戦は、革車輜車重車なり。器械財貨衣装を載するなり。司馬法に曰く、一車 甲士三人、歩卒七十二人、炊家子十人、固守衣装五人、廏養五人、橅汲五人。輕車七十五人。重車二十五人。故に二乗は一百人を兼ね一隊を為す。十萬の衆を擧げるに革車千乗、其の費用を校べ度計れば、則ち百萬の衆皆知る可きなり。
○梅堯臣:馳車は輕車なり。革車は重車なり。凡そ輕車一乗は、甲士歩卒二十五人。重車一乗は、甲士歩卒七十五人。二車各千乗を擧げるに、是れ帯甲者十萬人。
○王晳:曹公曰く、輕車なり。駟馬を駕すは凡そ千乗。晳謂へらく、馳車は革車を駕すを謂うなり。一乗四馬は駟を為す。千駟とは則ち革車千乗なり。曹操曰く、重車なり。晳謂へらく、革車は兵車なり。五戎千乗の賦有り。諸侯の大なる者なり。曹公曰く、帯甲十萬は歩卒の數なり。晳謂へらく、井田の法、甸[①郊外。②都城周辺の、天子直属の地。③周代の税制で、六十四井の土地。→井田④統治する。⑤農産物。⑥狩り。]は兵車一乗、甲士三人、歩卒七十二人を出す。千乗は總七萬五千人。此れ帯甲十萬を言う。豈に當に時權を制すべきか。
○何氏:十萬は成數を擧げるなり。
○張預:馳車は即ち功車なり。革車は即ち守車なり。按ずるに、曹公新書に云わく、攻車一乗は、前拒一隊、左右角二隊、共に七十五人。守車一乗は、炊子十人、守装五人、廐養五人、橅汲五人、共に二十五人。攻守二乗は凡そ一百人、師を興すに十萬なれば、則ち車を用いるは二千。輕重各半。此れを與えるに同じなり。
孫子十家註:『千里糧を饋くる』
○曹公:境を越すに千里なり。
○李筌:道を理(おさ)めるに縣[中国の行政区画の一つ。春秋時代、国を滅ぼして県とすることが一般化。戦国時代以後郡の下に県が置かれ、後代、州または府で県を統べ、民国初めには道の下に県を置く。現在は省(および自治区・直轄市)の下に県がある。]を遠にす。
意訳
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○金谷孫子:孫子はいう。およそ戦争の原則としては、戦車千台、輜重車千台、武具をつけた兵士十万で、千里の外に食糧を運搬するというばあいには、
○浅野孫子:孫子は言う。およそ軍隊を運用するときの一般原則としては、軽戦車千台、重戦車千台、歩兵十万人の編成規模で、千里の外に兵糧を輸送する形態の場合には、
○町田孫子:孫子はいう。およそ戦争の原則は、戦車千台、輜重車千台、武装の兵士が十万で、千里の外に出兵して食糧を輸送するという際には、
○天野孫子:孫子は次のように言う。およそ戦争を行なう場合の法則として、戦車千台、輜重車千台、武装の軍隊十万人を整え、千里の遠方に食糧を輸送するならば、
○フランシス・ワン孫子:およそ戦争には四頭立ての快速戦車千輌と四頭立ての革の装甲輜重車千輌、さらに、鎧・甲(かぶと)の武装兵十万が必要である。遠方千里に食糧を送り、
○大橋孫子:戦いを始め、快速戦車千輌、輸送車千輌、武装兵十万を千里の遠くに出征させ、これに糧秣を送れば、
○武岡孫子:孫子はいう。戦争の一例として、戦車千台を基幹に、軍需品輸送車千台、武装兵十万を伴った軍団を、千里の彼方に派遣し、これに本国から食糧を追送する作戦を行なう場合には、
○著者不明孫子:そもそも軍隊を動かす場合の原則は-四頭立ての軽兵車千台、重兵車千台、戦時装備の兵員十万をそろえて、千里の遠くまで軍糧を運べば、
○学習研究社孫子:孫子は言った-。通常、軍隊を動かす規準を考えてみるに、軽戦車千台、重戦車千台、武装兵十万人を動員し、千里先まで食糧輸送するという設定ならば、
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2012-08-04 (土) | 編集 |
孫子 兵法 大研究!
本文注釈:孫子 兵法 大研究!
篇名『作戦』:本文注釈
○金谷孫子:桜田本は「戦篇第二」。竹簡本は「作戦」、武経本・平津本は「作戦第二」。 一 軍を起こすについて。主として軍費のことをのべる。
○浅野孫子:作戦とは、戦いを作(おこ)すことをいう。国内で軍を編成したのち、外征軍を派遣するために必要な軍費と国家経済との関係について述べる。『武経七書』本や平津館本では「作戦第二」とあるが、竹簡本の篇名は十一家注本と同じく「作戦」である。
○町田孫子:戦争の経済について、主として長期戦は避けねばならないことや、遠征の心得などを説く。篇名を「戦」とするものもある。
○天野孫子:この篇は、戦争が国家の経済を甚だしく圧迫するから、戦争をおこすに当たって、その用いる戦法はともかく、速戦して戦争を終えなければならないことを述べる。戦争には十万の大軍を動員し、千里の遠方において戦闘を行なうから、食糧・兵器その他の補給など、一日に千金を消耗し、しかもそれが持久戦になると国家の経済は危機に瀕する。持久戦になって国家に利をもたらした例は過去に全くないから、戦法がたといまずくとも、戦争を速かに終結させることが必要である。本篇は戦争を作(おこ)すに当たって予めの心構えを論ずるという意味で作戦と名づけたものである。なお『古文』には戦篇に作る。
○フランシス・ワン孫子:前言 一、本篇の首題である「作戦」とは、戦いをこしらえる(作る)或いは作(おこ)すの意であり、現代で言う戦争(作戦)計画のことである。廟算の結果、勝利の算が多く、目的を達成するために戦争を用うると決定されたならば、将軍はその判断と構想に基づき戦争指導の方針と策案を定め、且つその遂行のための準備に関して大綱を企画しなければならない。而して、まず問題となるのは戦費であり、第二に軍の装備・資材と兵員の充足並びに補充、第三に糧食の補給、さらに関係諸国(同盟国・友好国・中立国・敵対国)の動向である。曹操は「戦わんと欲すれば、まず費務を算し、糧は敵に因れ、となり」と註している。
一、しかし、本篇の特質は、単に以上の如き問題の戦争遂行上に於ける重要性を説く所にはない。実に、以上の如き諸問題を克服して戦争目的を達成するためには、「兵は勝つことを貴び、久しきは貴ばず」(二十一項)、従って、その戦争指導は「拙速」(六項)を以て主眼とし、「敵に勝ちて強を益す」(二十項)ものでなければならない、と説く所にあるのである。無論、当初にあげる問題は、当時にあっても、現代と同様に戦争遂行上の基本問題であり、損耗を顧みぬ力戦の連続、或いは自己の能力の限度を弁(わきま)えぬ戦争の拡大、或いは戦争の長期化(長期戦争)を許すものではなく、当然これに制約を加える要素であった。而して、之を無視する場合は、たとえ大国と雖も、その戦勝を空しくするのみならず、却って国家の基礎を動揺せしめ墓穴を掘る因となることは、歴史上常に見る所であったからである。
一、なお、孫子は、用兵に於ては臨機応変、状況即応を説く者であるが、以上の如き戦争の基本問題に対しては、次の如く説いて対蹠的である。即ち、「拙速」・「敵に勝ちて強を益す」が如き戦争指導・方策は、その場の思い付きでできるものではない。それは、予め方針として構想され、方略(計画)としてその実行を準備し、全軍に徹底していることによって実現が可能となるものである。このことを無視するならば、たとえ勝利をえても、それは民の幸福と国家の安定という戦争目的を達成するものとはならないであろう(二十一項)と。而して、戦費の調達と敵地に於ける糧食の補給・中立諸国の向背の問題は、当時の戦争指導者が最も腐心した所である。
一、なお再言するが、孫子を読むに当り、我々として心得ておかねばならぬのは次のことである。それは、即ち、孫子は用兵一般(普通的な用兵)を論ずる者ではなく、天下の覇者を志す呉王の立場に於て、「兵は勝つことを貴び、久しきを貴ばず」の見地から決戦的攻勢作戦の原則を説く者であることである。我々は、大東亜戦争に於て、全面的な決戦的攻勢作戦を行う米国に対し、同じく決戦的な反撃作戦を以て応じたわけであるが、反省せざるをえぬ所である。しかも、我々は、今なお自己の政戦略的環境・軍事的立場の基本を理解したとは言い難く、その防衛論に於て、敵の洋上撃滅或いは水際撃滅論、或いは戦車無用論の如き単発的軍事論が抜け抜けと登場し、国民を惑わせている。
○大橋孫子:作戦-戦いをおこす
○武岡孫子:作戦-戦いをおこす
○佐野孫子:【通観】 「作戦」と言う言葉は日本では一般に名詞として用いられており、「戦いを進めてゆく上のはかりごと(作戦を練る)」、又は「戦略単位以上の兵団の、ある期間にわたる対敵行動の総称(作戦計画)」の意と解されている。これに対し、中国で言う「作戦」は動詞と名詞の双方に用いられる言葉であり、取分動詞と解すると「戦う、戦争をする」の意となり、わが国で言う「作戦」とはだいぶ違ってくるのである。そして何よりも本篇では、軍隊を動かせば莫大な経費がかかること、戦争が長期にわたると国力が疲弊すること、国力が疲弊すると、たちまちそれに乗じて近隣の強国が攻め込んで来て、国は滅亡の危機に暴(さら)されるなど主として国家経済的見地よりする戦争論が述べられていて戦争の目的と目標、部隊の行動などを決定する謂(いわゆる)「作戦計画」はどこにも記されていないことから、この「作戦」とは、中国で言う動詞の意、つまり「戦争をする(について)」と解する方がより近い概念であると言える。この意味においては、「作戦」よりも「桜田本」にある「戦篇」の方が、本篇の篇名としてはより適当であると言えなくはない。即ち本篇は、謂(いわゆる)「作戦あるいは作戦計画」について言うものではなく、廟算の結果、勝利の算が多く、しかも目的を達成するために「已むを得ずして之を用うる」に当たって、いかなる戦争を構想するか、(具体的な作戦計画立案の前に)その予めの基本的な心構え(覚悟)を論ずるものである。…。
【校勘】 第二篇 作戦 「十一家註本」の篇名は「作戦篇」。「武経本」では「作戦第二」。「桜田本」は「戦篇第二」。「竹簡孫子」は「作戦」に作る。ここでは、「竹簡孫子」と「竹簡博物館本」に従って「第二篇作戦」とする。
○田所孫子:作戦とは、いよいよ戦闘するについての準備、今日のいわゆる作戦計画。
○著者不明孫子:【作戦】戦争の計画をいう。
○孫子諺義:作戦 作は、造為也。此の篇戦をなすの大綱を論ずるを以て、作戦と云へり。始計相調ひて而して後に戦をおこすべし。故に始計につぐに此の篇を以てする也。又作戦・謀攻はおこして戦ひ、謀りて攻むと云ふの心に見る説あり。此の説にみるときは作の字興起の心あり。之れを鼓し之れを舞する之れを作と謂ふ、云ふ心は、つづみ太鼓にてはやしたてて舞ひうたはしむるの心也。軍を用ふることは士卒の志をふるひおこし、諸卒皆戦を願ふことをいたす。是れ乃ち士卒の心を興起せしむるのゆゑん也。此の如きときは兵士の心ことごとく相戦ふことを苦しまざるゆゑに、興起せしむるの字義あり。講義・全書(武經全書)等皆之れに從ふ。所謂戦氣を振作し、速に勝を取るを圖らば、宜しく持久すべからずと。魏武註及び大全・通鑑には只だ戦を為すの心とばかりみたり。直解に云ふ、説者の謂はく、士氣を作起し、之れをして死戦せ使むと、但だ已むことを得ずして深く死地に入り、氣衰へ力竭くるときは、之れを作して可也、死戦も亦可也、安んぞ師を出すの初にして、即ち此の計を為す有らんや、殆ど孫子が本意に非るや明らか矣し。案ずるに、此の篇末に士卒の氣を激し、賞功を正して其の志をいさましむることを論ず。しかれば興起振作の意ありとみるもたがひ(違)にあらざる也。しかれども前説は、すなほにて鑿(さく)することあらざる也。王鳳洲(王世貞。)曰はく、戦はんと欲せば必ず先づ其の費を算す、故に篇中屢ば久役の害を言ふ。袁了凡曰はく、此の篇先づ食を足らすを言ひ、後進み戦ふを言ふ、故に作戦を以て篇に名づく。李卓吾曰はく、始計の後、便ち作戦を言ふは、師を行らんと欲せば須らく日費の廣、饋糧の難を知り、必ず先づ士氣を振作し、速に勝を取るを圖り、宜しく持久すべからざるを言ふ也。
○孫子国字解:作戦第二 作はおこすと讀て、奮ひ作すことなり。戦は兵を交る也と註して、剣戟を交へて合戦することなり。軍をせんと思には、まつ勝負を目算して、勝つべき計を定めて、其後に合戦に及ぶゆへ、始計篇を第一として、作戦篇を第二とす。奮ひ作すと云こころは、軍兵を押出し、敵の境へ入らんに、日數を久しく經る程、その費大にして、而も兵氣次第にたるむものなるゆへ、士卒の勇氣を奮作して、合戦を速にすべしと云意にて、作戦篇と名付たり。是施子美が説にて、黄獻臣もこれを用たり。王晳張預が説には、作の字を、軍の支度をすることに云へり。此説にても通ずべけれども、一篇の主意、合戦の道、勇氣のたるまぬ様にすべきことを云へるゆへ、前の説に從ふなり。
○孫子評註:作戦第二 作戦(戦をすること。作戦の解にてついては諸家の説がある。)は即ち戦を用ふるなり。此の篇は孫の文の稍(や)や虚なるものなり。
○註家多く言ふ、「作戦篇は客(客となて長居することを嫌う、すなわち戦をしかけておいて、久しく戦うことを貴ばない。)となりて且つ久しきを貴ばず」と。是れ耳食(他人の説を聞いて、すぐそのまま信用すること。)のみ、曾て孫子を讀まざるなり。衞公(唐の太宗の臣李靖。衛国公に封じられた。太宗と李靖との兵法に関する問答を集めたものを李衛公問対といい、武経七書の一。この語はその書の太宗四章に出ている。)云はく、「客を變じて主と為し、主を變じて客と為す」と。破的(的に矢を射あてること。転じて言っていることが正しいこと。)と謂うべし。
○曹公:戦わんと欲せば必ず先ず其の費を算し、務めて糧を敵に因るなり。
○李筌:先ず計を定め、然る後に戦具を修む。是れを以て戦は計の篇の次なり。
○王晳:計を以て勝ちを知る。然る後に戦を興して、軍費を具え、猶お以て久しくす可からざるなり。
○張預:計算已に定むれば、然る後に車馬を完(まっ)とうし、器械を利し、糧草を運び、費用を約し、以て戦備を作す。故に計に次ぐ。
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本文注釈:孫子 兵法 大研究!
篇名『作戦』:本文注釈
○金谷孫子:桜田本は「戦篇第二」。竹簡本は「作戦」、武経本・平津本は「作戦第二」。 一 軍を起こすについて。主として軍費のことをのべる。
○浅野孫子:作戦とは、戦いを作(おこ)すことをいう。国内で軍を編成したのち、外征軍を派遣するために必要な軍費と国家経済との関係について述べる。『武経七書』本や平津館本では「作戦第二」とあるが、竹簡本の篇名は十一家注本と同じく「作戦」である。
○町田孫子:戦争の経済について、主として長期戦は避けねばならないことや、遠征の心得などを説く。篇名を「戦」とするものもある。
○天野孫子:この篇は、戦争が国家の経済を甚だしく圧迫するから、戦争をおこすに当たって、その用いる戦法はともかく、速戦して戦争を終えなければならないことを述べる。戦争には十万の大軍を動員し、千里の遠方において戦闘を行なうから、食糧・兵器その他の補給など、一日に千金を消耗し、しかもそれが持久戦になると国家の経済は危機に瀕する。持久戦になって国家に利をもたらした例は過去に全くないから、戦法がたといまずくとも、戦争を速かに終結させることが必要である。本篇は戦争を作(おこ)すに当たって予めの心構えを論ずるという意味で作戦と名づけたものである。なお『古文』には戦篇に作る。
○フランシス・ワン孫子:前言 一、本篇の首題である「作戦」とは、戦いをこしらえる(作る)或いは作(おこ)すの意であり、現代で言う戦争(作戦)計画のことである。廟算の結果、勝利の算が多く、目的を達成するために戦争を用うると決定されたならば、将軍はその判断と構想に基づき戦争指導の方針と策案を定め、且つその遂行のための準備に関して大綱を企画しなければならない。而して、まず問題となるのは戦費であり、第二に軍の装備・資材と兵員の充足並びに補充、第三に糧食の補給、さらに関係諸国(同盟国・友好国・中立国・敵対国)の動向である。曹操は「戦わんと欲すれば、まず費務を算し、糧は敵に因れ、となり」と註している。
一、しかし、本篇の特質は、単に以上の如き問題の戦争遂行上に於ける重要性を説く所にはない。実に、以上の如き諸問題を克服して戦争目的を達成するためには、「兵は勝つことを貴び、久しきは貴ばず」(二十一項)、従って、その戦争指導は「拙速」(六項)を以て主眼とし、「敵に勝ちて強を益す」(二十項)ものでなければならない、と説く所にあるのである。無論、当初にあげる問題は、当時にあっても、現代と同様に戦争遂行上の基本問題であり、損耗を顧みぬ力戦の連続、或いは自己の能力の限度を弁(わきま)えぬ戦争の拡大、或いは戦争の長期化(長期戦争)を許すものではなく、当然これに制約を加える要素であった。而して、之を無視する場合は、たとえ大国と雖も、その戦勝を空しくするのみならず、却って国家の基礎を動揺せしめ墓穴を掘る因となることは、歴史上常に見る所であったからである。
一、なお、孫子は、用兵に於ては臨機応変、状況即応を説く者であるが、以上の如き戦争の基本問題に対しては、次の如く説いて対蹠的である。即ち、「拙速」・「敵に勝ちて強を益す」が如き戦争指導・方策は、その場の思い付きでできるものではない。それは、予め方針として構想され、方略(計画)としてその実行を準備し、全軍に徹底していることによって実現が可能となるものである。このことを無視するならば、たとえ勝利をえても、それは民の幸福と国家の安定という戦争目的を達成するものとはならないであろう(二十一項)と。而して、戦費の調達と敵地に於ける糧食の補給・中立諸国の向背の問題は、当時の戦争指導者が最も腐心した所である。
一、なお再言するが、孫子を読むに当り、我々として心得ておかねばならぬのは次のことである。それは、即ち、孫子は用兵一般(普通的な用兵)を論ずる者ではなく、天下の覇者を志す呉王の立場に於て、「兵は勝つことを貴び、久しきを貴ばず」の見地から決戦的攻勢作戦の原則を説く者であることである。我々は、大東亜戦争に於て、全面的な決戦的攻勢作戦を行う米国に対し、同じく決戦的な反撃作戦を以て応じたわけであるが、反省せざるをえぬ所である。しかも、我々は、今なお自己の政戦略的環境・軍事的立場の基本を理解したとは言い難く、その防衛論に於て、敵の洋上撃滅或いは水際撃滅論、或いは戦車無用論の如き単発的軍事論が抜け抜けと登場し、国民を惑わせている。
○大橋孫子:作戦-戦いをおこす
○武岡孫子:作戦-戦いをおこす
○佐野孫子:【通観】 「作戦」と言う言葉は日本では一般に名詞として用いられており、「戦いを進めてゆく上のはかりごと(作戦を練る)」、又は「戦略単位以上の兵団の、ある期間にわたる対敵行動の総称(作戦計画)」の意と解されている。これに対し、中国で言う「作戦」は動詞と名詞の双方に用いられる言葉であり、取分動詞と解すると「戦う、戦争をする」の意となり、わが国で言う「作戦」とはだいぶ違ってくるのである。そして何よりも本篇では、軍隊を動かせば莫大な経費がかかること、戦争が長期にわたると国力が疲弊すること、国力が疲弊すると、たちまちそれに乗じて近隣の強国が攻め込んで来て、国は滅亡の危機に暴(さら)されるなど主として国家経済的見地よりする戦争論が述べられていて戦争の目的と目標、部隊の行動などを決定する謂(いわゆる)「作戦計画」はどこにも記されていないことから、この「作戦」とは、中国で言う動詞の意、つまり「戦争をする(について)」と解する方がより近い概念であると言える。この意味においては、「作戦」よりも「桜田本」にある「戦篇」の方が、本篇の篇名としてはより適当であると言えなくはない。即ち本篇は、謂(いわゆる)「作戦あるいは作戦計画」について言うものではなく、廟算の結果、勝利の算が多く、しかも目的を達成するために「已むを得ずして之を用うる」に当たって、いかなる戦争を構想するか、(具体的な作戦計画立案の前に)その予めの基本的な心構え(覚悟)を論ずるものである。…。
【校勘】 第二篇 作戦 「十一家註本」の篇名は「作戦篇」。「武経本」では「作戦第二」。「桜田本」は「戦篇第二」。「竹簡孫子」は「作戦」に作る。ここでは、「竹簡孫子」と「竹簡博物館本」に従って「第二篇作戦」とする。
○田所孫子:作戦とは、いよいよ戦闘するについての準備、今日のいわゆる作戦計画。
○著者不明孫子:【作戦】戦争の計画をいう。
○孫子諺義:作戦 作は、造為也。此の篇戦をなすの大綱を論ずるを以て、作戦と云へり。始計相調ひて而して後に戦をおこすべし。故に始計につぐに此の篇を以てする也。又作戦・謀攻はおこして戦ひ、謀りて攻むと云ふの心に見る説あり。此の説にみるときは作の字興起の心あり。之れを鼓し之れを舞する之れを作と謂ふ、云ふ心は、つづみ太鼓にてはやしたてて舞ひうたはしむるの心也。軍を用ふることは士卒の志をふるひおこし、諸卒皆戦を願ふことをいたす。是れ乃ち士卒の心を興起せしむるのゆゑん也。此の如きときは兵士の心ことごとく相戦ふことを苦しまざるゆゑに、興起せしむるの字義あり。講義・全書(武經全書)等皆之れに從ふ。所謂戦氣を振作し、速に勝を取るを圖らば、宜しく持久すべからずと。魏武註及び大全・通鑑には只だ戦を為すの心とばかりみたり。直解に云ふ、説者の謂はく、士氣を作起し、之れをして死戦せ使むと、但だ已むことを得ずして深く死地に入り、氣衰へ力竭くるときは、之れを作して可也、死戦も亦可也、安んぞ師を出すの初にして、即ち此の計を為す有らんや、殆ど孫子が本意に非るや明らか矣し。案ずるに、此の篇末に士卒の氣を激し、賞功を正して其の志をいさましむることを論ず。しかれば興起振作の意ありとみるもたがひ(違)にあらざる也。しかれども前説は、すなほにて鑿(さく)することあらざる也。王鳳洲(王世貞。)曰はく、戦はんと欲せば必ず先づ其の費を算す、故に篇中屢ば久役の害を言ふ。袁了凡曰はく、此の篇先づ食を足らすを言ひ、後進み戦ふを言ふ、故に作戦を以て篇に名づく。李卓吾曰はく、始計の後、便ち作戦を言ふは、師を行らんと欲せば須らく日費の廣、饋糧の難を知り、必ず先づ士氣を振作し、速に勝を取るを圖り、宜しく持久すべからざるを言ふ也。
○孫子国字解:作戦第二 作はおこすと讀て、奮ひ作すことなり。戦は兵を交る也と註して、剣戟を交へて合戦することなり。軍をせんと思には、まつ勝負を目算して、勝つべき計を定めて、其後に合戦に及ぶゆへ、始計篇を第一として、作戦篇を第二とす。奮ひ作すと云こころは、軍兵を押出し、敵の境へ入らんに、日數を久しく經る程、その費大にして、而も兵氣次第にたるむものなるゆへ、士卒の勇氣を奮作して、合戦を速にすべしと云意にて、作戦篇と名付たり。是施子美が説にて、黄獻臣もこれを用たり。王晳張預が説には、作の字を、軍の支度をすることに云へり。此説にても通ずべけれども、一篇の主意、合戦の道、勇氣のたるまぬ様にすべきことを云へるゆへ、前の説に從ふなり。
○孫子評註:作戦第二 作戦(戦をすること。作戦の解にてついては諸家の説がある。)は即ち戦を用ふるなり。此の篇は孫の文の稍(や)や虚なるものなり。
○註家多く言ふ、「作戦篇は客(客となて長居することを嫌う、すなわち戦をしかけておいて、久しく戦うことを貴ばない。)となりて且つ久しきを貴ばず」と。是れ耳食(他人の説を聞いて、すぐそのまま信用すること。)のみ、曾て孫子を讀まざるなり。衞公(唐の太宗の臣李靖。衛国公に封じられた。太宗と李靖との兵法に関する問答を集めたものを李衛公問対といい、武経七書の一。この語はその書の太宗四章に出ている。)云はく、「客を變じて主と為し、主を變じて客と為す」と。破的(的に矢を射あてること。転じて言っていることが正しいこと。)と謂うべし。
○曹公:戦わんと欲せば必ず先ず其の費を算し、務めて糧を敵に因るなり。
○李筌:先ず計を定め、然る後に戦具を修む。是れを以て戦は計の篇の次なり。
○王晳:計を以て勝ちを知る。然る後に戦を興して、軍費を具え、猶お以て久しくす可からざるなり。
○張預:計算已に定むれば、然る後に車馬を完(まっ)とうし、器械を利し、糧草を運び、費用を約し、以て戦備を作す。故に計に次ぐ。
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『夫れ未だ戦わざるに廟算して勝つ者は、算を得ること多ければなり。未だ戦わざるに廟算して勝たざる者は、算を得ること少なければなり。算多きは勝ち、算少なきは敗る。況んや算无きに於いてをや。吾れ此れを以て之れを観るに、勝負見わる。』:本文注釈
2012-07-26 (木) | 編集 |
孫子 兵法 大研究!
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『夫れ未だ戦わざるに廟算して勝つ者は、算を得ること多ければなり。未だ戦わざるに廟算して勝たざる者は、算を得ること少なければなり。算多きは勝ち、算少なきは敗る。況んや算无きに於いてをや。吾れ此れを以て之れを観るに、勝負見わる。』:本文注釈
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「宋本十一家註本」では「…算少なきは勝たず。而るを況んや算なきに於いてをや。」と「況」の字の前に「而」の字が見える。
一度にこれだけの文を解釈するのには最初少し違和感があったが、昔から注釈者達は一度にこれだけの長文をひとまとめにして解釈していたので私も伝統に則ることにする。
廟算-びょう‐さん【廟算】ベウ‥廟策(びょうさく)に同じ。 びょう‐さく【廟策】ベウ‥廟堂すなわち朝廷のはかりごと。廟謨(びょうぼ)。廟算。
算-①数をかぞえる。②思いはかる。見つもる。見込み。③年齢。④「算木さんぎ」の略【解字】会意。「竹」+「具」(=そろえる)。数とりの竹をそろえてかぞえる意。
得-①手に入れる。求めて自分のものにする。うまくかなう。②…できる。…しうる。→動詞のあとにつくこともある。③理解して自分の身につける。さとる。④もうけ(をとる)。利益。【解字】形声。右半部は音符で、「貝」(=財貨)+「寸」(=手)。財貨を手にする意。「彳」(=ゆく)を加えて、出かけて行って物を手に入れる意。
勝負-しょう‐ぶ【勝負】①かちまけ。勝敗。②争ってかちまけを決すること。③ばくちをすること。かけごとをすること。
見-①みる。みえる。②物のみかた。考え。③人にあう。対面する。まみえる。④あらわれる。まのあたり。目の前に。同義「現」。⑤受け身を表す助字。「る」「らる」と訓読する。→そういう目に会うの意から。【解字】会意。「目」+「人」。人が目にとめる意。
註
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○金谷孫子:廟算-開戦出兵に際しては、祖先の霊廟で画策し、儀式を行なうのが、古代の習慣であった。廟算は『淮南子』兵略篇の廟戦と同じで、宗廟で目算すること。兵略篇「凡そ用兵者は必ず先ず自ら廟戦す。…故に籌(はかりごと)を廟堂の上に運(めぐ)らして勝を千里の外に決す。」
○浅野孫子:●廟算-開戦に先立ち、祖先の霊を祀る宗廟において、計算用の竹製の棒(籌(ちゅう))を運用して、彼我の勝算を比較・計量し、それに基づいて作戦計画を立案・策定すること。
●之-『孫子』全体の構成や竹簡本『孫子兵法』の記述からして、「之れを観る」とは、具体的には呉と越の戦争を想定した表現であろう。
○町田孫子:<廟算>宗廟での作戦会議。『淮南子』の「廟戦」と同じ。その兵略篇に「凡そ兵を用うる者は必ず先ず廟戦す。…故に籌(はかりごと)を廟堂の上に運らして勝を千里の外に決す」とある。この廟算をうけたものであろう。
○天野孫子:◎未戦而廟筭勝者得筭多也 「未戦」について『評註』は「未だ戦はずとは、即ち篇目の始の字なり」と。『武経』は始計篇に作っている。その「始」の由来を示す。「廟」は祖先の霊をまつるところ。国家に大事があれば、君臣ともにみたまやに至り、その事を君主の祖先の霊に報告し、霊前において大事を議す。『諺義』は「吉は事の大なるをば潔斎して祖廟に告ぐ。況んや軍旅を起すは国家の大事なるを以て、君臣とも祖廟にいたり、謹んで軍旅を起すことを告げ、而して廟前において軍事を相談し、はかりごとなす」と。「筭」は算の本字。かぞえる、計と同じ。『評註』は「計を換へて算と為す」と。「廟筭」は彼我両国の軍備の優劣を比較し、その得点の数を計算すること。一説に朝廷(廟堂)ではかりごとをなすと。これは前述の軍備の優劣と無関係に言う。張預は「籌策(ちゅうさく)深遠なれば、則ち其の計得る所の者多し。故に未だ戦はずして先づ勝つ。謀慮浅近なれば、則ち其の計得る所の者少なし。故に未だ戦はずして先づ負く」と。籌策ははかりごと。『諺解』などもこの見解。これについて『直解』は「按ずるに筭は即ち計なり。正に五事七計を指して言ふ。別に一意を立てて説く可からず。恐らくは孫子の本意に非ず。道・天・地・将・法の五者は国を治むるの常事なり。故に経と曰ふ」と。また一説に『思想史』は「廟算といふのは、祖廟の前で、五事・七計・詭道を計量し勝敗の数を算定することである」と。「得筭多」とは彼我両国の軍備の優劣を道・将・天・地・法の五部門においてそれぞれ比較して得点の数の多いこと。『直解』は「五事七計を以て、之を校量するに、或は八九を得れば是れ筭を得ること多くして必ず勝つ」と。一説にはかりごとを十分にねると。『諺義』は「多算と云ふは、談合の品々いくへいんもいたして、勝敗の義をかずかずはかるを云ふ」と。
◎不勝者得筭少也 『直解』は『五事七計を以て之を校量するに、或は四、五を得れば、是れ筭を得ること少なくして勝たざるなり」と。また一説に『諺義』は「少算は談合こまやかならず、計、品すくなきを云ふ」と。
◎而況於無筭乎 得点の数がないにおいては、全く勝たないことは言うまでもない。一説に『諺義』は「無算は、廟に告げたる計にて談合評議の内習これ無きことを云ふ」と。内習は下稽古。
◎吾以此観之勝負矣 「此」は廟筭を受ける。「之」はそのさすものが漠然としている。一説に『詳解』は「之の字は戦の字を指す」と。
「以此観之」は廟筭の立場から見るとの意。「見」は現と同じ、現われる。以上の文について、王晳は「此れは、学者先に伝ふ可からざるの説に惑ふを懼る。故に復た計篇の義を言ふ」と。
○守屋孫子:開戦に先だつ作戦会議で、勝利の見通しが立つのは、勝利するための条件がととのっているからである。逆に、見通しが立たないのは、条件がととのっていないからである。条件がととのっていれば勝ち、ととのっていなければ敗れる。勝利する条件がまったくなかったら、まるで問題にならない。この観点に立つなら、勝敗は戦わずして明らかとなる。
○フランシス・ワン孫子:一、本項は本篇の結言であるが、冒頭の句「兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり」と呼応して、孫子の戦争観・用兵思想を一層明らかにするものである。
一、「廟算」 廟算とは、前段で説く五事・七計による彼我の戦力の客観的な算定・評価の上に立って、後段に説く政・戦略による形勢(状勢)作為と詭道を本質とする用兵による戦争の可能性を検討すること、つまり、主体的な努力によって、どのような性格と輪郭の戦争が可能となるか、逆に言えば、どのような戦争をすれば勝算が見出せるかを検討し総合評価することである。
一、しかるに、現在の我国の孫子研究では、この「廟算」を五事・七計のこととのみ解する者が少なくない。無論、その原因は、大東亜戦争に於て敵の物量の前に完敗したこと、それが未だに決定的印象となって残っていることがあげられる。しかし、他にも有力な理由があるのである。それは、即ち、本項の結句「吾れ、此れを以て之を観るに勝負見(あら)わる」と全く同趣旨と思われる句が、既に前段の結句として述べられているからである。即ち「吾れ、此れを以て勝負を知る」(十四項)であるが、この場合の「此れ」が、五事・七計を意味することは明らかである。このため、両者の意義と関係、つまり存在理由を把握しかねた者の中には、「観る」と「知る」、或いは「見わる」の字義の違いを詮索する者もいる。また、両者は同義語であるから何れか一方を削除すべきであると主張し、なかには、十五項以降二十七項までは単なる戦略・戦術論(用兵論)で計篇には適してなく、衍文であろうとする者もいる。しかし、曹操はさすがに孫子の意を得て明快である。既述の如く、彼は、十四項では「七事を以て之を計れば勝負を知る(察知できる)」と註しているが、本項では、「我が道を以て之を観るなり(観察する)と註している。つまり、本項の「此れ」は「吾が道」のことであり、「吾が道」とは、十五項以降に述べる「詭道」を以て本質とする用兵のことと解するのである。戦争は五事、七計によって知ることのできる国力(戦力)が基本であるが、勝負は単にそれだけで決するものではない。その国力(戦力)に相応した勝ち方・勝負の法があるのであって、それによって戦争はその形態と帰趨を大きく異にしてくる。而して、それが政・戦略と用兵(詭道)の効用である、と孫子は言うのである。
一、五事・七計と兵法(詭道)との関係 たとえば、日露戦争である。その本質は大東亜戦争と同じであるが、五事・七計からすれば、国力・軍事力の相対比は、より貧弱であり絶望的ですらあった。極言すれば、日露戦争の勝利は、短期・限定化を目途とした政・戦略と用兵の勝利以外の何物でもなかったと言い得るのである。米国の朝鮮戦争以降の各種の失敗、就中ベトナム戦争に於ける敗退を、彼らの国力・軍事力が劣弱であったためと考える者はいまい。彼らが「我々は自己の戦力を過信し、政・戦略不在の戦争を行った」と慨歎していることは、天下周知の事実であろう。興味をそそられるのは、日・米がともに、勝利の場合は、五事・七計に基づく客観的な戦力判断と主体的な要素である政・戦略が一体化し縦横の機略を発揮する者でありながら、敗北の場合は、これが遊離し、徒に当面の詭道(機略)を弄(もてあそ)ぶ者となっていることである。人が必ずしも経験と共に進歩する者ではなく、特に勝利者がその勝利に学ぶ者とはならないという歴史の教訓は、ここにも見ることができる。しかし、現在の我々にとっての問題は、我々が、米国の保護下に、敗北にも学ぶ者でなくなっていることであろう。
一、「多算勝ち、少算は勝たず」 廟算の結果が「算を得ること多き」場合とは、無論、その総合的国力・物理的戦力が敵に比して優勢な場合だけを言うものではない。そのような算定ならば、中学生と雖もなし得る所である。また、もしそれだけで勝負が定まるのであれば、古来見られる、強大国の弱小国に対する敗北の如きはありえず、そもそもこの世に、大国と小国との戦争といった事態は成立するはずがないのである。繰り返すが、廟算とは、次の意である。即ち、曹操が「(戦争は)七事を以て之を計れば勝負を知る」とした上で、「吾が道(詭道)を以て之を観るなり」と言えるが如く、客観的な戦力の算定に基づいて彼我の状勢を察知し、之を詭道を以て本質とする主体的な政・戦略と用兵の面から観察、どのような目的を追求することが可能か、つまり、どのような戦争をすれば勝算を見出せるかを総合判断することである。
一、「而るを況んや算無きに於てをや」 注意すべきは、孫子は、算が多い場合は戦争にふみ切ってもよいとか、算が少ない場合は戦争を用いてはならないなどと言っているのではないことである。彼は、「多算は勝ち、少算は勝たず」が原則であるから、廟算(戦争判断)に際しての問題点は、本篇の後段に述べる詭道による状勢作為と用兵によって、その算をいかに高め得るかにあり、決断はその上に立って下すべきであると言うのである。而して、その算が見出せない場合は、結果は明らかであるから、戦争は断念或いは回避して後図を策するのが賢明である、と。 この種の状況に於ける決心については、易経の蹇(けん)の卦(か)でも、「険を見て能く止まるは知なる哉」と言っている。しかし、この種の決心の奨めが、単に戦争さえ回避すれば後はどうにかなるなどといった無責任な思考に発するものではないことは言うまでもあるまい。なぜなら戦争を回避しても、そもそも戦争をすら覚悟せざるをえなかった事態(状勢)の原因は、何ら解消するものではないからである。このことは、我々が、もし大東亜戦争を回避した場合、その後にはどのような事態を迎えたであろうかを想像すれば分かるであろう。従って、易経は続けて次の如く言っている。「この種の”険を見て止まる”決心は、それだけで終わるものではなく、次のような行動を要求する。即ち、このような困難な時節(時代史的状況)に於ては、さらに、偉大な人物を指導者と仰ぎ、上下一致して国家を正しくする道を守り、逆境を切り抜ける努力をしなければならない。状勢が閉塞した蹇難の時に於ける働き-国家・社会の領導と運用は-誠に重大である」と。即ち、戦争を回避することによって迎えるであろう事態を運命は、ただ赤旗・白旗を立てて降参すれば万事目出度くすむといった論者が想像するようなものではない。恐らくは戦争(敗北)に匹敵する、否、それを上回る困難な事態であり、もし之に対処する覚悟と用意がなく行ったものであれば、より深刻な災厄と不幸を招くだけのものとなろう、と警告するのである。このことは現に見る所であり、例証の必要はないと思う。
一、我々の歴史に於ける「而るを況んや算無きに於てをや」の場合の決断の典型は、日清戦争直後の露・独・仏の三国干渉に対し、時の明治政府が行った遼東半島の還付を伴う戦争回避の決断であろう。而して、これが、その後に迎えねばならぬ長い臥薪嘗胆の日々を、国民が政府と志を一にして甘受するであろうとの信頼の上になされたものであること、また国民が之を裏切る者でなかったことは、我々の今も忘れえざる所であるが、思えば僅かに百年前のことである。それにしても、日露戦争後の特色となり、第二次大戦の経験にも拘らず、今も変ることなく我々を毒している精神、即ち「何も考えないで済むような論理に身を委ねて、すぐに絶対という言葉を振りかざすだけの精神構造」(哲学者・田中美知太郎)と較べる時、その何と異なることか。ドゴールは、このような精神構造・心理を批判して次の如く言っている。「これは危険きわまりない傾向である。危機や意外な事態を回避し制圧できる原理を所有していると信じこんだ時、人間の精神活動は弛緩し、未知の状況は無視してもよいという幻想が生まれてくる」と。
一、最後に言及しておきたいことがある。それは、現在の我々の軽佻浮薄なる、孫子の解釈にも現れ、本篇を以て、戦争の勝敗は単に物理的な戦力の優劣によって定まることを説くものとし、なかには、孫子自体を「不戦の書」とあがめ、得々として軍備無用論の根拠とする愚か者も出てきていることである。しかし、これらは、何れも大東亜戦争の悲惨な体験に淫して事実を見る目を失った結果生じたものであり、また、大東亜戦争を以て唯一普遍の戦争とする考えに立った所論にすぎない。そもそも、孫子が、彼らの言うが如き書であるならば、始計篇はもとより、以下の各篇も悉く無意味な存在となり、むしろ無きに如かずとなることを、我々は思うべきであろう。
○重沢孫子:実戦突入以前、廟算-最高首脳会議-の情勢分析・討論の段階で勝ったのは、得点が多いからであり、勝たなかったのは、得点が少ないからである。多いのは勝ち、少ないのは勝たない。ましてや得点零においてをや。この事実をもって観察すれば、実戦で勝つか負けるかは、ありありと目に見える。
○田所孫子:◎未戦而廟算勝者とは、まだ戦争にはならないうちに、朝廷で御前会議を開き、勝敗の要因を数えて勝つということになるとの意。
◎得算多也とは、戦勝の要因が多いこと。
◎多算勝とは戦勝の要因の多いものは勝つとの意。
◎而況於無算乎とは、戦勝の要因が無ければ、負けるにきまっているとの意。
◎吾以此観之とは、戦勝の要因によって観察してみるとの意。
◎勝負見矣とは、勝敗の決が明らかにわかっているとの意。
○大橋孫子:廟算-先祖をまつった廟堂で状況を判断する 算多し-勝つ見込みが多い
○武岡孫子:廟算-政府内で行なう推算のこと。古代の習慣
○佐野孫子:◎夫未戦而廟算勝者 「廟算」とは、前段で説く五事・七計による彼我の戦力の客観的な算定・評価の上に立って、後段に説く政・戦略による形勢(状勢)作為と詭道を本質とする用兵による戦争の可能性を検討すること、つまり、主体的な努力によって、どのような戦争をすれば勝算が見出せるかを検討し総合評価をすることを言う(F・ワン仏訳「孫子」)。
▼而況於無算乎 孫子は、算が多い場合は戦争にふみ切ってもよいとか、算が少ない場合は戦争を用いてはならないなどと言っているのではない。彼は、「多算は勝ち、少算は勝たず」が原則であるから、廟算(戦争判断)に際しての問題点は、本篇の後段に述べる詭道による状勢作為と用兵によって、その算をいかに高め得るかにあり、決断はその上に立って下すべきであると言うのである(F・ワン仏訳「孫子」)。そして、戦争を用いると決断した場合に於ても、直ちに武力行使と言う短絡的な思考ではなく、飽く迄も<第三篇 謀攻>に曰う「戦わずして勝つ」即ち、「上兵は謀を伐つ、其の次は交を伐つ」を第一義とする両面作戦の構えが必要であると言うのである。換言すれば、兵法「三十六計」の第十計に曰う「笑裏蔵刀(笑いの裏に刀を蔵(かく)す、即ち敵には武力行使はないと信じこませ、油断させ、たかをくくらせておき、こちらは密かに積極的に準備し、時機を待って不意打ちに出る謀略)」の意である。例えば、ペルーの日本大使公邸人質事件に於けるフジモリ大統領の戦略・戦術の如きである。即ち、一九九六年十二月十七日、天皇誕生日の祝賀レセプションで賑わうリマの日本大使館がトゥパク・アマル革命運動のテロリスト十四人の武装グループに襲われ、ゲストら多数が人質となった。平和解決と人質の安全を優先する日本政府の動きで突入はないと安心しているテログループの虚に乗じ、事件発生後から百二十七日目の四月二十二日午後三時二十三分、百四十人のペルー軍特殊部隊をもって地下トンネル及び地上から突入、三十七分間の掃討でテロリスト全員を射殺、人質を解放した(この際、人質一人と突入将校二名が死亡した)。これを逆の立場から曰うものが<第九篇 行軍>の「辞の卑(ひく)くして備えを益す者は、進むなり」、「約なくして和を請う者は、謀るなり」と解する。又、見方を変えれば、この事件におけるフジモリ大統領の多角度・多面的な作戦は正しく孫子が<第二篇 作戦>で曰う「拙速(勝ち易きに勝つ)」を地で行くものであり、従って又、自らの責任で武力突入を決断した最高指導者としてのフジモリ大統領の心境は、正に本篇巻頭言に曰う「兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざる可からざるなり」であった筈である。
◎吾以此観之 「此」は廟算を受ける。「之」は「戦」を指すと解する。
○著者不明孫子:【夫】「発語の辞」といわれる。何かを言い始めるときに最初に発する語。そもそも・さて。 【廟算】宗廟(国君の先祖を祭ってあるお霊屋)において計算する。戦争開始に先立ち、宗廟で軍議を開き、諸般の事態について検討し、有利な条件と不利な条件を比較して数える。これを「廟算」という。そのとき、恐らく算木(数取りの棒)を使ってそれを数えたであろう。算が多いとか少ないとかいうのは、その棒の多少をいうものと思われる。
【而況於無算乎】「而況於…乎」(しかるをいはんや…においてをや)は漢文の基本的な句法の一つ。「まして…の場合はなおさらだ(なおさら勝ちめはない)」の意。 【以此觀之】以上のことから考えると。「此」は上文にあることを受けていう。「觀之」は観察する意。「之」は特定の語を指さない。
【見矣】「見」は現と同じ。現れる、分かる。「矣」は強くいう感じを表す。
○孫子諺義:廟算と云ふは、古は事の大なるをば潔斎して祖廟に告ぐ、況や軍旅をおこすは、國家の大事なるを以て、君臣とも祖廟にいたり、謹みて軍旅を起すことを告げ、而して廟前において各々軍事を相談し、はかりごとをなす、是れを廟算と云ふ也。算は計の字と同意にして、はかりごとの數をかぞへて評議せしむるの心也。第一は先祖を敬するの心、第二は君臣相敬して其の心を一にするの心、第三には謀を洩す可からざるの心也。多算と云へば、談合の品々をいくへにもいたして、勝敗の義を、かずかずはかるを云ひ、少算は談合こまかならず、計品すくなきを云ふ。無算は廟に告げたる計りにて、談合評議の内習之れ無きことを云ふ。云ふ心は、未だ戦はざる以前に廟算せしうるに、勝つべきものは、内習重習幾通もこれあり、勝つ可からざるものは内習もつぶさならず、はかりごとも詳しからざる也。然れば同じ談合内習ありても、其の多少によつて勝負あり。況や内習談合も之れ無くして兵をあげんことは云ふに足らざること也。算の字について説多しといへども之れを用ひず。此の一段は始計一篇の結句にして、計算の道未だ詳かならざることを以て兵法の本とす。乃ち是れ上文の詭道を押へ、遂に又計算のことを云ひてこれを結ぶ也。吾れ此れに於て之れを觀れば勝負見はる矣とは、この計算の多少を以て彼れと我れとの勝負をみるに遁る可からざる也。孫子の兵、勝を廟堂の上に決して後に兵を外に用ふるは、此の心也。此の段は一篇の意を統べて、變詐に依らずして始計を以て兵の要と為すを申(の)ぶ。計算の少き者は、兵を輕んじ事を易んじて怠驕の多き也。故に未だ戦はずして廟算勝負此の如し、況や五事七計の校量無く、明辨審算無き者をや。孫子兵の勝敗を觀るに、始計に於て顯然たり矣。觀は視の詳也。李靖も亦曰はく、多算は少算に勝ち、少算は無算に勝つ。張昭(宋代の學者)曰はく、有數は無數を擒にすと。是れ皆計算の説也。大全に云はく、始計一篇は算字を以て結尾とす。妙最なり。夫れ算は個の廟算を説く。而して算字は重きを歸する處、却りて多字の上に在り。這は未だ戦はざるは是れ竟に戦はざるにあらず。尚ほ未だ戦はざるに過ぎず。這の勝は是れ竟に勝つにあらず。算の勝つに過ぎず。未だ戦ざるの時に當り、廟算已に勝有り了(おわ)る。豈是れ算を得るの多きにあらざずや。然る後去りて戦ふ。自ら是れ一戦一勝、百戦百勝なり。又云はく、多は是れ千萬の説にあらず。少は一二三の説に非ず。總て是れ校計して情を索めば、一著千慮の上に超ゆ。
○孫子国字解:此段は、一篇の結語なり。夫は發語の詞にて、詞の端を更むる時置く詞なり。前に戦に臨み、兵の勢をなすことを云たるによりて、爰(ここ)に至て一篇の主意に反り、語の端を更めて、又五事七計を説て、一篇を結びたるなり。廟算と云は、廟は墓のことには非ず。宗廟とて先祖を祭る處なり。國王の宮殿の東の方にあり。總じて、軍は國の大事にて、其國の存亡のかかるわけゆへ、軍を起さんとする時は、國の老臣を宗廟へ集め、先祖の神主の前にて、右の五事七計にて軍の勝負を目算するなり。是を廟算と云、得算多少と云は、右の五事七計にてめやすを立てて、算木を以て數をとり、敵にいくつ、味方にいくつと、目算するなり。其時その算木の數を多く得たる方勝ち、少く得たる方負くるなり。少きさへ負るを、まして況んや五事七計の内に、一つも叶はずして、算木を一つも置べき様なきをや、是を算なしと云。滅亡すべきこと決定せりとなり。吾れ孫子この廟算を以て、合戦の勝負を觀るに、其勝負のさかひ、明かに見ゆるとなり。
○孫子評註:未だ戦はずとは即ち篇目の「始」の字なり。計を換へて算と為し、悠然として本意に歸入す。勝負見るは「勝負を知る」と照應す。讀みて篇末に至りて然る後五事を囘顧すれば、方(まさ)に始めて著實(ちゃくじつ)(文意がおちつく)なり。蓋し算の多からんことを欲せば、經するに五事を以てするに如くはなし。
○五事以て之れを内に經し、計(前述の七計によって、いくさの諸要件を外敵とひきくらべてみる。)以て之れを外に校し、詭道以て之れを外に佐く。此の篇特(ひと)り十三篇の總括たるのみならず、乃ち天下古今の事、孰れか其の範圍を出づるものぞ。大學(儒教の経典、四書の一。もと『礼記』(らいき)の一編。学問修養にもとづく政治の理想を述べている。)の一書の如き、亦唯だ道の字の註解のみ。孫武の立言、未だ必ずしも然らずと雖も、讀書は須(すべか)らく此(か)くの如く觀るべきなり。
○曹公:吾が道を以て之れを觀るなり。
○李筌:夫れ戦う者は勝ちを廟堂に決し、然る後に人と利を爭う。凡そ叛を伐つは遠きを懷す。亡を推すは存を固にす。弱きを兼ねるは昩を攻む。皆物の出づる所、中外の離心、商周の師の如き者は、是れ未だ戦わずして廟算して勝を為す。太一遁甲は算を置くの法なり。六十算自り已上は多算と為す。六十算已下は少算と為す。客多算にして少算に臨まば、主人敗る。客少算にして多算に臨まば、主人勝つ。此れ皆勝敗見われ易きなり。
○杜牧:廟算とは廟堂の上に於いて計算するなり。
○梅堯臣:多算、故に未だ戦わずして廟謀先ず勝つ。少算、故に未だ戦わずして廟謀勝たず。是れ算無しとする可からず。
○王晳:此れ學者先ず傳う可からざるの説に惑うを懼る。故に復た計篇の義を言うなり。
○何氏:計は巧拙有り。成敗は繫ぐなり。
○張預:古くは師を興し将を命ずるに、必ず齋 廟に致す。授くは成算を以て、然る後に之を遣わす。故に之れ廟算を謂う。籌策 深遠ならば則ち其の計得る所の者多し。故に未だ戦わずして先ず勝つ。謀慮 淺近ならば、則ち其の計得る所の者少なし。故に未だ戦わずして先ず負く。多計は勝つ。少計は勝たず。其の計無きは安くんぞ敗ること無きを得ん。故に曰く、勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求む。敗兵は先ず戦いて而る後に勝を求む、と。計有る計無し、勝負見われ易し。
意訳
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○金谷孫子:一体、開戦の前にすでに宗廟(おたまや)で目算して勝つというのは、[五事七計に従って考えた結果、]その勝ちめが多いからのことである。開戦の前にすでに宗廟で目算して勝てないというのは、[五事七計に従って考えた結果、]その勝ちめが少ないからのことである。勝ちめが多ければ勝つが、勝ちめが少なければ勝てないのであるから、まして勝ちめが全く無いというのではなおさらである。わたしは以上の[廟算という]ことで観察して、[事前に]勝敗をはっきりと知るのである。
○浅野孫子:そもそもまだ開戦もしないうちから、廟堂で籌策してすでに勝つのは、五事七計を基準に比較・計量して得られた勝算が、相手よりも多いからである。まだ戦端も開かぬうちから、廟堂で籌算して勝たないのは、勝算が相手よりも少ないからである。勝算が相手よりも多い側は、実戦でも勝利するし、勝算が相手よりも少ない側は、実戦でも敗北する。ましてや勝算が一つもないというに至っては、何をか言わんやである。私がこうした比較・計算によって、この戦争の行方を観察するに、もはや勝敗は目に見えている。
○町田孫子:いったい、開戦の前の宗廟(おたまや)での作戦会議で、あらかじめ勝利の見こみがたつというのは、上のような五事七計で考えてみて、勝利の条件が多いからのことである。作戦会議で勝利の見こみがたたないのは、勝利の条件が少ないからのことである。勝利の条件が多ければ勝てるし、少なければ勝てない。勝利の条件が全くないというのでは、これは話にならない。わたしは、以上のような観点から、勝敗のゆくえをはっきり見抜くことができるのである。
○天野孫子:戦争に先立って祖先の霊を祭るみたまやで、彼我両国の軍備の優劣を道・将・天・地・法の五部門において計算するに、戦って勝つ者はその得点の数が多く、戦って敗れる者はその得点の数が少ない。得点の数が多ければ戦に勝ち、少なければ勝たない。まして得点の数がないにおいては全く勝つことはできない。このみたまやにおける計算からみると、彼我両国の戦の勝負は既に明らかに現われている。
○フランシス・ワン孫子:扨て、政府・軍首脳による戦争決断会議に於て、客観的総合算定が敵よりも味方の”力”が優勢を告げるものであれば、勝利を意味する。若しも味方の劣勢を告げるものであれば、敗北を意味する。多方面から(客観的)算定をする者は勝利を可能とすることができるが、あまりにも僅かな方面から-主観的・手前勝手な算定しかなさない者には、勝利は不可能である。しかるに、この計算を全くなさない者は、自ら勝利のチャンスを逸する者と言える。私が戦争の勝敗の決末を予測できるのは、以上のような算定によって状況を詳(つまびら)かにするからである。
○大橋孫子:開戦を決するには祖先を祭る霊廟の前で軍議を開くが、ここで心を清め、純白な頭脳をもって合理的に判断した結果、勝利の見込みが多ければ勝ち、少なければ負ける。まして勝つ見込みがないのに勝てることなど絶対にない。合理的に判断すれば、勝算の多少・有無は開戦前でも必ずわかる。無謀なことをしてはならない。兵は国の大事なのである。
○武岡孫子:さて、政府・軍首脳部による宗廟(みたまや)における和戦決定会議において、客観的勝算の算定結果が敵より味方の方が優勢なら勝てる。反対に少なければ敗れる。したがってその算が見出せない場合は戦争は回避・断念すべきである。以上の思考過程によって勝算の有無を詳細に検討すれば、戦争の勝敗を事前に予測することは可能である。
○著者不明孫子:さて、そもそも戦争を始める前に宗廟で五事七計について比較勘定した場合、戦って勝つほうは、有利な条件の数が多く得られ、勝てないほうは、その数が少ししか得られない。有利な条件が多ければ勝ち、少なければ勝てないのであって、まして有利な条件がゼロの場合には全然勝てるはずがない。私は、以上のことから考えて、どちらが勝ちどちらが負けるかが分かるのである。
○学習研究社孫子:こういう現場での変化ということはあるにしても、戦う以前に宗廟(祖先の御霊屋)での計画の段階で勝つというのは、勝つ要素が多いということである。戦う以前に、宗廟での計画の段階で勝てないというのは、勝つ要素が少ないということである。勝つ要素が多い者が勝ち、少ない者は勝てない。まして、勝つ要素が全くないものは、もちろん勝てない。私は、こういう観点から判断して、勝敗を知るのである。
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本文注釈:孫子 兵法 大研究!
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『夫れ未だ戦わざるに廟算して勝つ者は、算を得ること多ければなり。未だ戦わざるに廟算して勝たざる者は、算を得ること少なければなり。算多きは勝ち、算少なきは敗る。況んや算无きに於いてをや。吾れ此れを以て之れを観るに、勝負見わる。』:本文注釈
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「宋本十一家註本」では「…算少なきは勝たず。而るを況んや算なきに於いてをや。」と「況」の字の前に「而」の字が見える。
一度にこれだけの文を解釈するのには最初少し違和感があったが、昔から注釈者達は一度にこれだけの長文をひとまとめにして解釈していたので私も伝統に則ることにする。
廟算-びょう‐さん【廟算】ベウ‥廟策(びょうさく)に同じ。 びょう‐さく【廟策】ベウ‥廟堂すなわち朝廷のはかりごと。廟謨(びょうぼ)。廟算。
算-①数をかぞえる。②思いはかる。見つもる。見込み。③年齢。④「算木さんぎ」の略【解字】会意。「竹」+「具」(=そろえる)。数とりの竹をそろえてかぞえる意。
得-①手に入れる。求めて自分のものにする。うまくかなう。②…できる。…しうる。→動詞のあとにつくこともある。③理解して自分の身につける。さとる。④もうけ(をとる)。利益。【解字】形声。右半部は音符で、「貝」(=財貨)+「寸」(=手)。財貨を手にする意。「彳」(=ゆく)を加えて、出かけて行って物を手に入れる意。
勝負-しょう‐ぶ【勝負】①かちまけ。勝敗。②争ってかちまけを決すること。③ばくちをすること。かけごとをすること。
見-①みる。みえる。②物のみかた。考え。③人にあう。対面する。まみえる。④あらわれる。まのあたり。目の前に。同義「現」。⑤受け身を表す助字。「る」「らる」と訓読する。→そういう目に会うの意から。【解字】会意。「目」+「人」。人が目にとめる意。
註
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○金谷孫子:廟算-開戦出兵に際しては、祖先の霊廟で画策し、儀式を行なうのが、古代の習慣であった。廟算は『淮南子』兵略篇の廟戦と同じで、宗廟で目算すること。兵略篇「凡そ用兵者は必ず先ず自ら廟戦す。…故に籌(はかりごと)を廟堂の上に運(めぐ)らして勝を千里の外に決す。」
○浅野孫子:●廟算-開戦に先立ち、祖先の霊を祀る宗廟において、計算用の竹製の棒(籌(ちゅう))を運用して、彼我の勝算を比較・計量し、それに基づいて作戦計画を立案・策定すること。
●之-『孫子』全体の構成や竹簡本『孫子兵法』の記述からして、「之れを観る」とは、具体的には呉と越の戦争を想定した表現であろう。
○町田孫子:<廟算>宗廟での作戦会議。『淮南子』の「廟戦」と同じ。その兵略篇に「凡そ兵を用うる者は必ず先ず廟戦す。…故に籌(はかりごと)を廟堂の上に運らして勝を千里の外に決す」とある。この廟算をうけたものであろう。
○天野孫子:◎未戦而廟筭勝者得筭多也 「未戦」について『評註』は「未だ戦はずとは、即ち篇目の始の字なり」と。『武経』は始計篇に作っている。その「始」の由来を示す。「廟」は祖先の霊をまつるところ。国家に大事があれば、君臣ともにみたまやに至り、その事を君主の祖先の霊に報告し、霊前において大事を議す。『諺義』は「吉は事の大なるをば潔斎して祖廟に告ぐ。況んや軍旅を起すは国家の大事なるを以て、君臣とも祖廟にいたり、謹んで軍旅を起すことを告げ、而して廟前において軍事を相談し、はかりごとなす」と。「筭」は算の本字。かぞえる、計と同じ。『評註』は「計を換へて算と為す」と。「廟筭」は彼我両国の軍備の優劣を比較し、その得点の数を計算すること。一説に朝廷(廟堂)ではかりごとをなすと。これは前述の軍備の優劣と無関係に言う。張預は「籌策(ちゅうさく)深遠なれば、則ち其の計得る所の者多し。故に未だ戦はずして先づ勝つ。謀慮浅近なれば、則ち其の計得る所の者少なし。故に未だ戦はずして先づ負く」と。籌策ははかりごと。『諺解』などもこの見解。これについて『直解』は「按ずるに筭は即ち計なり。正に五事七計を指して言ふ。別に一意を立てて説く可からず。恐らくは孫子の本意に非ず。道・天・地・将・法の五者は国を治むるの常事なり。故に経と曰ふ」と。また一説に『思想史』は「廟算といふのは、祖廟の前で、五事・七計・詭道を計量し勝敗の数を算定することである」と。「得筭多」とは彼我両国の軍備の優劣を道・将・天・地・法の五部門においてそれぞれ比較して得点の数の多いこと。『直解』は「五事七計を以て、之を校量するに、或は八九を得れば是れ筭を得ること多くして必ず勝つ」と。一説にはかりごとを十分にねると。『諺義』は「多算と云ふは、談合の品々いくへいんもいたして、勝敗の義をかずかずはかるを云ふ」と。
◎不勝者得筭少也 『直解』は『五事七計を以て之を校量するに、或は四、五を得れば、是れ筭を得ること少なくして勝たざるなり」と。また一説に『諺義』は「少算は談合こまやかならず、計、品すくなきを云ふ」と。
◎而況於無筭乎 得点の数がないにおいては、全く勝たないことは言うまでもない。一説に『諺義』は「無算は、廟に告げたる計にて談合評議の内習これ無きことを云ふ」と。内習は下稽古。
◎吾以此観之勝負矣 「此」は廟筭を受ける。「之」はそのさすものが漠然としている。一説に『詳解』は「之の字は戦の字を指す」と。
「以此観之」は廟筭の立場から見るとの意。「見」は現と同じ、現われる。以上の文について、王晳は「此れは、学者先に伝ふ可からざるの説に惑ふを懼る。故に復た計篇の義を言ふ」と。
○守屋孫子:開戦に先だつ作戦会議で、勝利の見通しが立つのは、勝利するための条件がととのっているからである。逆に、見通しが立たないのは、条件がととのっていないからである。条件がととのっていれば勝ち、ととのっていなければ敗れる。勝利する条件がまったくなかったら、まるで問題にならない。この観点に立つなら、勝敗は戦わずして明らかとなる。
○フランシス・ワン孫子:一、本項は本篇の結言であるが、冒頭の句「兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり」と呼応して、孫子の戦争観・用兵思想を一層明らかにするものである。
一、「廟算」 廟算とは、前段で説く五事・七計による彼我の戦力の客観的な算定・評価の上に立って、後段に説く政・戦略による形勢(状勢)作為と詭道を本質とする用兵による戦争の可能性を検討すること、つまり、主体的な努力によって、どのような性格と輪郭の戦争が可能となるか、逆に言えば、どのような戦争をすれば勝算が見出せるかを検討し総合評価することである。
一、しかるに、現在の我国の孫子研究では、この「廟算」を五事・七計のこととのみ解する者が少なくない。無論、その原因は、大東亜戦争に於て敵の物量の前に完敗したこと、それが未だに決定的印象となって残っていることがあげられる。しかし、他にも有力な理由があるのである。それは、即ち、本項の結句「吾れ、此れを以て之を観るに勝負見(あら)わる」と全く同趣旨と思われる句が、既に前段の結句として述べられているからである。即ち「吾れ、此れを以て勝負を知る」(十四項)であるが、この場合の「此れ」が、五事・七計を意味することは明らかである。このため、両者の意義と関係、つまり存在理由を把握しかねた者の中には、「観る」と「知る」、或いは「見わる」の字義の違いを詮索する者もいる。また、両者は同義語であるから何れか一方を削除すべきであると主張し、なかには、十五項以降二十七項までは単なる戦略・戦術論(用兵論)で計篇には適してなく、衍文であろうとする者もいる。しかし、曹操はさすがに孫子の意を得て明快である。既述の如く、彼は、十四項では「七事を以て之を計れば勝負を知る(察知できる)」と註しているが、本項では、「我が道を以て之を観るなり(観察する)と註している。つまり、本項の「此れ」は「吾が道」のことであり、「吾が道」とは、十五項以降に述べる「詭道」を以て本質とする用兵のことと解するのである。戦争は五事、七計によって知ることのできる国力(戦力)が基本であるが、勝負は単にそれだけで決するものではない。その国力(戦力)に相応した勝ち方・勝負の法があるのであって、それによって戦争はその形態と帰趨を大きく異にしてくる。而して、それが政・戦略と用兵(詭道)の効用である、と孫子は言うのである。
一、五事・七計と兵法(詭道)との関係 たとえば、日露戦争である。その本質は大東亜戦争と同じであるが、五事・七計からすれば、国力・軍事力の相対比は、より貧弱であり絶望的ですらあった。極言すれば、日露戦争の勝利は、短期・限定化を目途とした政・戦略と用兵の勝利以外の何物でもなかったと言い得るのである。米国の朝鮮戦争以降の各種の失敗、就中ベトナム戦争に於ける敗退を、彼らの国力・軍事力が劣弱であったためと考える者はいまい。彼らが「我々は自己の戦力を過信し、政・戦略不在の戦争を行った」と慨歎していることは、天下周知の事実であろう。興味をそそられるのは、日・米がともに、勝利の場合は、五事・七計に基づく客観的な戦力判断と主体的な要素である政・戦略が一体化し縦横の機略を発揮する者でありながら、敗北の場合は、これが遊離し、徒に当面の詭道(機略)を弄(もてあそ)ぶ者となっていることである。人が必ずしも経験と共に進歩する者ではなく、特に勝利者がその勝利に学ぶ者とはならないという歴史の教訓は、ここにも見ることができる。しかし、現在の我々にとっての問題は、我々が、米国の保護下に、敗北にも学ぶ者でなくなっていることであろう。
一、「多算勝ち、少算は勝たず」 廟算の結果が「算を得ること多き」場合とは、無論、その総合的国力・物理的戦力が敵に比して優勢な場合だけを言うものではない。そのような算定ならば、中学生と雖もなし得る所である。また、もしそれだけで勝負が定まるのであれば、古来見られる、強大国の弱小国に対する敗北の如きはありえず、そもそもこの世に、大国と小国との戦争といった事態は成立するはずがないのである。繰り返すが、廟算とは、次の意である。即ち、曹操が「(戦争は)七事を以て之を計れば勝負を知る」とした上で、「吾が道(詭道)を以て之を観るなり」と言えるが如く、客観的な戦力の算定に基づいて彼我の状勢を察知し、之を詭道を以て本質とする主体的な政・戦略と用兵の面から観察、どのような目的を追求することが可能か、つまり、どのような戦争をすれば勝算を見出せるかを総合判断することである。
一、「而るを況んや算無きに於てをや」 注意すべきは、孫子は、算が多い場合は戦争にふみ切ってもよいとか、算が少ない場合は戦争を用いてはならないなどと言っているのではないことである。彼は、「多算は勝ち、少算は勝たず」が原則であるから、廟算(戦争判断)に際しての問題点は、本篇の後段に述べる詭道による状勢作為と用兵によって、その算をいかに高め得るかにあり、決断はその上に立って下すべきであると言うのである。而して、その算が見出せない場合は、結果は明らかであるから、戦争は断念或いは回避して後図を策するのが賢明である、と。 この種の状況に於ける決心については、易経の蹇(けん)の卦(か)でも、「険を見て能く止まるは知なる哉」と言っている。しかし、この種の決心の奨めが、単に戦争さえ回避すれば後はどうにかなるなどといった無責任な思考に発するものではないことは言うまでもあるまい。なぜなら戦争を回避しても、そもそも戦争をすら覚悟せざるをえなかった事態(状勢)の原因は、何ら解消するものではないからである。このことは、我々が、もし大東亜戦争を回避した場合、その後にはどのような事態を迎えたであろうかを想像すれば分かるであろう。従って、易経は続けて次の如く言っている。「この種の”険を見て止まる”決心は、それだけで終わるものではなく、次のような行動を要求する。即ち、このような困難な時節(時代史的状況)に於ては、さらに、偉大な人物を指導者と仰ぎ、上下一致して国家を正しくする道を守り、逆境を切り抜ける努力をしなければならない。状勢が閉塞した蹇難の時に於ける働き-国家・社会の領導と運用は-誠に重大である」と。即ち、戦争を回避することによって迎えるであろう事態を運命は、ただ赤旗・白旗を立てて降参すれば万事目出度くすむといった論者が想像するようなものではない。恐らくは戦争(敗北)に匹敵する、否、それを上回る困難な事態であり、もし之に対処する覚悟と用意がなく行ったものであれば、より深刻な災厄と不幸を招くだけのものとなろう、と警告するのである。このことは現に見る所であり、例証の必要はないと思う。
一、我々の歴史に於ける「而るを況んや算無きに於てをや」の場合の決断の典型は、日清戦争直後の露・独・仏の三国干渉に対し、時の明治政府が行った遼東半島の還付を伴う戦争回避の決断であろう。而して、これが、その後に迎えねばならぬ長い臥薪嘗胆の日々を、国民が政府と志を一にして甘受するであろうとの信頼の上になされたものであること、また国民が之を裏切る者でなかったことは、我々の今も忘れえざる所であるが、思えば僅かに百年前のことである。それにしても、日露戦争後の特色となり、第二次大戦の経験にも拘らず、今も変ることなく我々を毒している精神、即ち「何も考えないで済むような論理に身を委ねて、すぐに絶対という言葉を振りかざすだけの精神構造」(哲学者・田中美知太郎)と較べる時、その何と異なることか。ドゴールは、このような精神構造・心理を批判して次の如く言っている。「これは危険きわまりない傾向である。危機や意外な事態を回避し制圧できる原理を所有していると信じこんだ時、人間の精神活動は弛緩し、未知の状況は無視してもよいという幻想が生まれてくる」と。
一、最後に言及しておきたいことがある。それは、現在の我々の軽佻浮薄なる、孫子の解釈にも現れ、本篇を以て、戦争の勝敗は単に物理的な戦力の優劣によって定まることを説くものとし、なかには、孫子自体を「不戦の書」とあがめ、得々として軍備無用論の根拠とする愚か者も出てきていることである。しかし、これらは、何れも大東亜戦争の悲惨な体験に淫して事実を見る目を失った結果生じたものであり、また、大東亜戦争を以て唯一普遍の戦争とする考えに立った所論にすぎない。そもそも、孫子が、彼らの言うが如き書であるならば、始計篇はもとより、以下の各篇も悉く無意味な存在となり、むしろ無きに如かずとなることを、我々は思うべきであろう。
○重沢孫子:実戦突入以前、廟算-最高首脳会議-の情勢分析・討論の段階で勝ったのは、得点が多いからであり、勝たなかったのは、得点が少ないからである。多いのは勝ち、少ないのは勝たない。ましてや得点零においてをや。この事実をもって観察すれば、実戦で勝つか負けるかは、ありありと目に見える。
○田所孫子:◎未戦而廟算勝者とは、まだ戦争にはならないうちに、朝廷で御前会議を開き、勝敗の要因を数えて勝つということになるとの意。
◎得算多也とは、戦勝の要因が多いこと。
◎多算勝とは戦勝の要因の多いものは勝つとの意。
◎而況於無算乎とは、戦勝の要因が無ければ、負けるにきまっているとの意。
◎吾以此観之とは、戦勝の要因によって観察してみるとの意。
◎勝負見矣とは、勝敗の決が明らかにわかっているとの意。
○大橋孫子:廟算-先祖をまつった廟堂で状況を判断する 算多し-勝つ見込みが多い
○武岡孫子:廟算-政府内で行なう推算のこと。古代の習慣
○佐野孫子:◎夫未戦而廟算勝者 「廟算」とは、前段で説く五事・七計による彼我の戦力の客観的な算定・評価の上に立って、後段に説く政・戦略による形勢(状勢)作為と詭道を本質とする用兵による戦争の可能性を検討すること、つまり、主体的な努力によって、どのような戦争をすれば勝算が見出せるかを検討し総合評価をすることを言う(F・ワン仏訳「孫子」)。
▼而況於無算乎 孫子は、算が多い場合は戦争にふみ切ってもよいとか、算が少ない場合は戦争を用いてはならないなどと言っているのではない。彼は、「多算は勝ち、少算は勝たず」が原則であるから、廟算(戦争判断)に際しての問題点は、本篇の後段に述べる詭道による状勢作為と用兵によって、その算をいかに高め得るかにあり、決断はその上に立って下すべきであると言うのである(F・ワン仏訳「孫子」)。そして、戦争を用いると決断した場合に於ても、直ちに武力行使と言う短絡的な思考ではなく、飽く迄も<第三篇 謀攻>に曰う「戦わずして勝つ」即ち、「上兵は謀を伐つ、其の次は交を伐つ」を第一義とする両面作戦の構えが必要であると言うのである。換言すれば、兵法「三十六計」の第十計に曰う「笑裏蔵刀(笑いの裏に刀を蔵(かく)す、即ち敵には武力行使はないと信じこませ、油断させ、たかをくくらせておき、こちらは密かに積極的に準備し、時機を待って不意打ちに出る謀略)」の意である。例えば、ペルーの日本大使公邸人質事件に於けるフジモリ大統領の戦略・戦術の如きである。即ち、一九九六年十二月十七日、天皇誕生日の祝賀レセプションで賑わうリマの日本大使館がトゥパク・アマル革命運動のテロリスト十四人の武装グループに襲われ、ゲストら多数が人質となった。平和解決と人質の安全を優先する日本政府の動きで突入はないと安心しているテログループの虚に乗じ、事件発生後から百二十七日目の四月二十二日午後三時二十三分、百四十人のペルー軍特殊部隊をもって地下トンネル及び地上から突入、三十七分間の掃討でテロリスト全員を射殺、人質を解放した(この際、人質一人と突入将校二名が死亡した)。これを逆の立場から曰うものが<第九篇 行軍>の「辞の卑(ひく)くして備えを益す者は、進むなり」、「約なくして和を請う者は、謀るなり」と解する。又、見方を変えれば、この事件におけるフジモリ大統領の多角度・多面的な作戦は正しく孫子が<第二篇 作戦>で曰う「拙速(勝ち易きに勝つ)」を地で行くものであり、従って又、自らの責任で武力突入を決断した最高指導者としてのフジモリ大統領の心境は、正に本篇巻頭言に曰う「兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざる可からざるなり」であった筈である。
◎吾以此観之 「此」は廟算を受ける。「之」は「戦」を指すと解する。
○著者不明孫子:【夫】「発語の辞」といわれる。何かを言い始めるときに最初に発する語。そもそも・さて。 【廟算】宗廟(国君の先祖を祭ってあるお霊屋)において計算する。戦争開始に先立ち、宗廟で軍議を開き、諸般の事態について検討し、有利な条件と不利な条件を比較して数える。これを「廟算」という。そのとき、恐らく算木(数取りの棒)を使ってそれを数えたであろう。算が多いとか少ないとかいうのは、その棒の多少をいうものと思われる。
【而況於無算乎】「而況於…乎」(しかるをいはんや…においてをや)は漢文の基本的な句法の一つ。「まして…の場合はなおさらだ(なおさら勝ちめはない)」の意。 【以此觀之】以上のことから考えると。「此」は上文にあることを受けていう。「觀之」は観察する意。「之」は特定の語を指さない。
【見矣】「見」は現と同じ。現れる、分かる。「矣」は強くいう感じを表す。
○孫子諺義:廟算と云ふは、古は事の大なるをば潔斎して祖廟に告ぐ、況や軍旅をおこすは、國家の大事なるを以て、君臣とも祖廟にいたり、謹みて軍旅を起すことを告げ、而して廟前において各々軍事を相談し、はかりごとをなす、是れを廟算と云ふ也。算は計の字と同意にして、はかりごとの數をかぞへて評議せしむるの心也。第一は先祖を敬するの心、第二は君臣相敬して其の心を一にするの心、第三には謀を洩す可からざるの心也。多算と云へば、談合の品々をいくへにもいたして、勝敗の義を、かずかずはかるを云ひ、少算は談合こまかならず、計品すくなきを云ふ。無算は廟に告げたる計りにて、談合評議の内習之れ無きことを云ふ。云ふ心は、未だ戦はざる以前に廟算せしうるに、勝つべきものは、内習重習幾通もこれあり、勝つ可からざるものは内習もつぶさならず、はかりごとも詳しからざる也。然れば同じ談合内習ありても、其の多少によつて勝負あり。況や内習談合も之れ無くして兵をあげんことは云ふに足らざること也。算の字について説多しといへども之れを用ひず。此の一段は始計一篇の結句にして、計算の道未だ詳かならざることを以て兵法の本とす。乃ち是れ上文の詭道を押へ、遂に又計算のことを云ひてこれを結ぶ也。吾れ此れに於て之れを觀れば勝負見はる矣とは、この計算の多少を以て彼れと我れとの勝負をみるに遁る可からざる也。孫子の兵、勝を廟堂の上に決して後に兵を外に用ふるは、此の心也。此の段は一篇の意を統べて、變詐に依らずして始計を以て兵の要と為すを申(の)ぶ。計算の少き者は、兵を輕んじ事を易んじて怠驕の多き也。故に未だ戦はずして廟算勝負此の如し、況や五事七計の校量無く、明辨審算無き者をや。孫子兵の勝敗を觀るに、始計に於て顯然たり矣。觀は視の詳也。李靖も亦曰はく、多算は少算に勝ち、少算は無算に勝つ。張昭(宋代の學者)曰はく、有數は無數を擒にすと。是れ皆計算の説也。大全に云はく、始計一篇は算字を以て結尾とす。妙最なり。夫れ算は個の廟算を説く。而して算字は重きを歸する處、却りて多字の上に在り。這は未だ戦はざるは是れ竟に戦はざるにあらず。尚ほ未だ戦はざるに過ぎず。這の勝は是れ竟に勝つにあらず。算の勝つに過ぎず。未だ戦ざるの時に當り、廟算已に勝有り了(おわ)る。豈是れ算を得るの多きにあらざずや。然る後去りて戦ふ。自ら是れ一戦一勝、百戦百勝なり。又云はく、多は是れ千萬の説にあらず。少は一二三の説に非ず。總て是れ校計して情を索めば、一著千慮の上に超ゆ。
○孫子国字解:此段は、一篇の結語なり。夫は發語の詞にて、詞の端を更むる時置く詞なり。前に戦に臨み、兵の勢をなすことを云たるによりて、爰(ここ)に至て一篇の主意に反り、語の端を更めて、又五事七計を説て、一篇を結びたるなり。廟算と云は、廟は墓のことには非ず。宗廟とて先祖を祭る處なり。國王の宮殿の東の方にあり。總じて、軍は國の大事にて、其國の存亡のかかるわけゆへ、軍を起さんとする時は、國の老臣を宗廟へ集め、先祖の神主の前にて、右の五事七計にて軍の勝負を目算するなり。是を廟算と云、得算多少と云は、右の五事七計にてめやすを立てて、算木を以て數をとり、敵にいくつ、味方にいくつと、目算するなり。其時その算木の數を多く得たる方勝ち、少く得たる方負くるなり。少きさへ負るを、まして況んや五事七計の内に、一つも叶はずして、算木を一つも置べき様なきをや、是を算なしと云。滅亡すべきこと決定せりとなり。吾れ孫子この廟算を以て、合戦の勝負を觀るに、其勝負のさかひ、明かに見ゆるとなり。
○孫子評註:未だ戦はずとは即ち篇目の「始」の字なり。計を換へて算と為し、悠然として本意に歸入す。勝負見るは「勝負を知る」と照應す。讀みて篇末に至りて然る後五事を囘顧すれば、方(まさ)に始めて著實(ちゃくじつ)(文意がおちつく)なり。蓋し算の多からんことを欲せば、經するに五事を以てするに如くはなし。
○五事以て之れを内に經し、計(前述の七計によって、いくさの諸要件を外敵とひきくらべてみる。)以て之れを外に校し、詭道以て之れを外に佐く。此の篇特(ひと)り十三篇の總括たるのみならず、乃ち天下古今の事、孰れか其の範圍を出づるものぞ。大學(儒教の経典、四書の一。もと『礼記』(らいき)の一編。学問修養にもとづく政治の理想を述べている。)の一書の如き、亦唯だ道の字の註解のみ。孫武の立言、未だ必ずしも然らずと雖も、讀書は須(すべか)らく此(か)くの如く觀るべきなり。
○曹公:吾が道を以て之れを觀るなり。
○李筌:夫れ戦う者は勝ちを廟堂に決し、然る後に人と利を爭う。凡そ叛を伐つは遠きを懷す。亡を推すは存を固にす。弱きを兼ねるは昩を攻む。皆物の出づる所、中外の離心、商周の師の如き者は、是れ未だ戦わずして廟算して勝を為す。太一遁甲は算を置くの法なり。六十算自り已上は多算と為す。六十算已下は少算と為す。客多算にして少算に臨まば、主人敗る。客少算にして多算に臨まば、主人勝つ。此れ皆勝敗見われ易きなり。
○杜牧:廟算とは廟堂の上に於いて計算するなり。
○梅堯臣:多算、故に未だ戦わずして廟謀先ず勝つ。少算、故に未だ戦わずして廟謀勝たず。是れ算無しとする可からず。
○王晳:此れ學者先ず傳う可からざるの説に惑うを懼る。故に復た計篇の義を言うなり。
○何氏:計は巧拙有り。成敗は繫ぐなり。
○張預:古くは師を興し将を命ずるに、必ず齋 廟に致す。授くは成算を以て、然る後に之を遣わす。故に之れ廟算を謂う。籌策 深遠ならば則ち其の計得る所の者多し。故に未だ戦わずして先ず勝つ。謀慮 淺近ならば、則ち其の計得る所の者少なし。故に未だ戦わずして先ず負く。多計は勝つ。少計は勝たず。其の計無きは安くんぞ敗ること無きを得ん。故に曰く、勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求む。敗兵は先ず戦いて而る後に勝を求む、と。計有る計無し、勝負見われ易し。
意訳
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○金谷孫子:一体、開戦の前にすでに宗廟(おたまや)で目算して勝つというのは、[五事七計に従って考えた結果、]その勝ちめが多いからのことである。開戦の前にすでに宗廟で目算して勝てないというのは、[五事七計に従って考えた結果、]その勝ちめが少ないからのことである。勝ちめが多ければ勝つが、勝ちめが少なければ勝てないのであるから、まして勝ちめが全く無いというのではなおさらである。わたしは以上の[廟算という]ことで観察して、[事前に]勝敗をはっきりと知るのである。
○浅野孫子:そもそもまだ開戦もしないうちから、廟堂で籌策してすでに勝つのは、五事七計を基準に比較・計量して得られた勝算が、相手よりも多いからである。まだ戦端も開かぬうちから、廟堂で籌算して勝たないのは、勝算が相手よりも少ないからである。勝算が相手よりも多い側は、実戦でも勝利するし、勝算が相手よりも少ない側は、実戦でも敗北する。ましてや勝算が一つもないというに至っては、何をか言わんやである。私がこうした比較・計算によって、この戦争の行方を観察するに、もはや勝敗は目に見えている。
○町田孫子:いったい、開戦の前の宗廟(おたまや)での作戦会議で、あらかじめ勝利の見こみがたつというのは、上のような五事七計で考えてみて、勝利の条件が多いからのことである。作戦会議で勝利の見こみがたたないのは、勝利の条件が少ないからのことである。勝利の条件が多ければ勝てるし、少なければ勝てない。勝利の条件が全くないというのでは、これは話にならない。わたしは、以上のような観点から、勝敗のゆくえをはっきり見抜くことができるのである。
○天野孫子:戦争に先立って祖先の霊を祭るみたまやで、彼我両国の軍備の優劣を道・将・天・地・法の五部門において計算するに、戦って勝つ者はその得点の数が多く、戦って敗れる者はその得点の数が少ない。得点の数が多ければ戦に勝ち、少なければ勝たない。まして得点の数がないにおいては全く勝つことはできない。このみたまやにおける計算からみると、彼我両国の戦の勝負は既に明らかに現われている。
○フランシス・ワン孫子:扨て、政府・軍首脳による戦争決断会議に於て、客観的総合算定が敵よりも味方の”力”が優勢を告げるものであれば、勝利を意味する。若しも味方の劣勢を告げるものであれば、敗北を意味する。多方面から(客観的)算定をする者は勝利を可能とすることができるが、あまりにも僅かな方面から-主観的・手前勝手な算定しかなさない者には、勝利は不可能である。しかるに、この計算を全くなさない者は、自ら勝利のチャンスを逸する者と言える。私が戦争の勝敗の決末を予測できるのは、以上のような算定によって状況を詳(つまびら)かにするからである。
○大橋孫子:開戦を決するには祖先を祭る霊廟の前で軍議を開くが、ここで心を清め、純白な頭脳をもって合理的に判断した結果、勝利の見込みが多ければ勝ち、少なければ負ける。まして勝つ見込みがないのに勝てることなど絶対にない。合理的に判断すれば、勝算の多少・有無は開戦前でも必ずわかる。無謀なことをしてはならない。兵は国の大事なのである。
○武岡孫子:さて、政府・軍首脳部による宗廟(みたまや)における和戦決定会議において、客観的勝算の算定結果が敵より味方の方が優勢なら勝てる。反対に少なければ敗れる。したがってその算が見出せない場合は戦争は回避・断念すべきである。以上の思考過程によって勝算の有無を詳細に検討すれば、戦争の勝敗を事前に予測することは可能である。
○著者不明孫子:さて、そもそも戦争を始める前に宗廟で五事七計について比較勘定した場合、戦って勝つほうは、有利な条件の数が多く得られ、勝てないほうは、その数が少ししか得られない。有利な条件が多ければ勝ち、少なければ勝てないのであって、まして有利な条件がゼロの場合には全然勝てるはずがない。私は、以上のことから考えて、どちらが勝ちどちらが負けるかが分かるのである。
○学習研究社孫子:こういう現場での変化ということはあるにしても、戦う以前に宗廟(祖先の御霊屋)での計画の段階で勝つというのは、勝つ要素が多いということである。戦う以前に、宗廟での計画の段階で勝てないというのは、勝つ要素が少ないということである。勝つ要素が多い者が勝ち、少ない者は勝てない。まして、勝つ要素が全くないものは、もちろん勝てない。私は、こういう観点から判断して、勝敗を知るのである。
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