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孫子研究ブログです。孫子兵法は別名『孫子兵経』、『SUNTZU』、『The Art of WAR』ともよばれています。ナポレオンや毛沢東も愛読していました。注釈者には曹操、杜牧、山鹿素行、荻生徂徠、新井白石、吉田松陰、等の有名人も多いです。とにかく深いです。

孫子 兵法 大研究!トップ⇒孫子兵法問題集:孫子 兵法 大研究!
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2013-01-01 (火) | 編集 |
孫子 兵法 大研究!

孫子兵法問題集:孫子 兵法 大研究!

孫子兵法問題集(3)

オリジナル問題集です。基本問題から難問までご用意いたしました。解けるかな~?








【1問目】我が国で、応仁の乱以前に著述されたと伝わっている「闘戦経」からの問題です。
「闘戦経」の本文で、「孫子十三篇。(1)の字を免れざるなり。」と言っていますが、(1)の空欄に入る言葉はどれ?

(1)懼
(2)詭譎
(3)奇
(4)軽

【2問目】甲州流武学中興の祖である小幡景憲の門人、北条氏長は、『孫子』の始計三本(五事・七計・詭道)の五事を(1)、七計を(2)、詭道を(3)という言葉に変えて表わしました。
さて、(1)、(2)、(3)に入る言葉はどれ?

(1)(1)主 (2)将 (3)士
(2)(1)治内 (2)知外 (3)応変
(3)(1)上 (2)中 (3)下
(4)(1)大綱領 (2)方円神心 (3)聖人之道

【3問目】有名な『孫子』注釈書である『孫子諺義』を著した山鹿素行は、その自伝の『配所残筆』で、「漸く八歳之頃迄に、(1)大方読み覚え候。」と記している。このことからも、幼少のころより大変な才能があったことがわかるが、さて、(1)に入る言葉はどれ?

(1)四書・五経・七書・詩文の書
(2)論語・孟子・大学・中庸・兵法の書
(3)孔孟・老荘・史書・医書・經書
(4)為政の書・経文・和漢の古への書

【4問目】『孫子』の有名な注釈者である山鹿素行は、『孫子』から、言葉をもらい「素行」の名前をつけましたが、この「素行」の名前の由来となった、「令、素より行われ、以て其の民を教うれば、則ち民服す。」の文は、『孫子』の何篇の言葉でしょう?

(1)九地
(2)九変
(3)軍争
(4)行軍

【5問目】『孫子』の他の篇の言葉から類似の意味の語句を拾い出し、その文章を説明するという、斬新な注釈法を以て著した、江戸時代中期の儒学者としても知られる新井白石の『孫子』注釈書の名前は?

(1)孫子新釈
(2)孫子事活鈔
(3)孫武兵法択
(4)孫子略解

【6問目】江戸時代の儒学者でもある新井白石は、自著の『孫子』注釈書の中で、「(1)」の文章二十余条を引用して、『孫子』を解説している。白石は、「(1)」と『孫子』は非常に関連性が高いと考えていた。『孫子』の原作者である孫武は、軍学において先輩である(1)の兵法を学んで『孫子十三篇』を書いたと、白石は確信していたのである。
さて、(1)に入る人物名はどれでしょう?

(1)老子
(2)諸葛孔明
(3)管子
(4)韓信

【7問目】『孫子』の『勢』篇の文で「戦勢は(1)に過ぎざるも、(1)の変は勝げて窮むべからざるなり。(1)の還りて相い生ずることは、環の端なきが如し。孰か能くこれを窮めんや。」とありますが、さて、(1)に入る言葉はどれ?

(1)虚実
(2)衆寡
(3)得失
(4)奇正

【8問目】『孫子』の最も有名な言葉で、「彼れを知り己れを知らば、百戦殆うからず。」がありますが、その後に続く言葉はあまり知られていません。この文のあとには、「彼れを知らずして己れを知らば、一勝一負す。彼れを知らずして己れを知らざれば、(1)」と続きますが、さて、(1)に入る言葉はどれでしょう?

(1)未だ勝つ者有らざるなり。
(2)戦う毎に必ず殆うし。
(3)百戦殆うし。
(4)当に其の地を離るるべし。

【9問目】『孫子』の有名な言葉より問題です。
『孫子』軍争篇に、「軍争の難きは、(1)を以て(2)と為し、患を以て利と為す。故に其の途を(1)にしてこれを誘うに利を以てし、人に後れて発して人に先んじて至る。此れ(1)(2)の計を知る者なり。」とありますが、さて、(1)、(2)に入る言葉はどれ?

(1)(1)分 (2)合
(2)(1)詭 (2)詐
(3)(1)戦 (2)道
(4)(1)迂 (2)直

【10問目】孫子兵法に『用間』篇がありますが、さて、この篇名の『間』の字の意味は次のうちどれ?

(1)長さ・重さの測定法
(2)スパイ
(3)無(特に無形・無声を指す。)
(4)空間









【1問目解説】

(1)の「懼」が正解。

『闘戦経』の著者は、「剛毅・真鋭こそ、日本の武教である。これに反して、漢文(「孫子」のこと)は詭譎を説くにすぎない。」と、『孫子』を全否定している。


【2問目解説】

(1)、(3) 北条氏長は「兵は国の大事なり。」の「兵」を「士」と解釈した。そしてこれを「此士の内にも上中下あり、上は主、中は将、下は士の三段也」と注釈している。

(2)が正解。

(4) 「大綱領」とは、氏長の『孫子外伝』に出てくる言葉から引用した。『外伝』本文で、「兵は国の大事なり、此の語十三篇の大綱領。」と『孫子』の最初の文について解説している。
「方円神心」とは、氏長の『士鑑用法』で、「我流は方円神心の一理を以て始終を云。」と言っており、氏長流の兵理の根本のことを指している。
「聖人之道」とは、『外伝』の言葉から引用した。『外伝』の五事の「道」の説明で、「道は一種の兵の道なり。聖人の道を謂うに非ざるなり。」と本文にみえる。


【3問目解説】

(1)が正解。それにしてもすごい記憶力ですね!

(2)「論語・孟子・大学・中庸」は「四書五経」の内の「四書」です。


【4問目解説】

正解は(4)です。

素行は『孫子』の注釈書を何回か世に出しています。素行はとにかく『孫子』が大好きだったみたいですね。


【5問目解説】

(1)は藤塚鄰、森西洲が著した近代の注釈書。

(2)は江戸時代後期の薩摩藩の軍学者徳田邕興が著した注釈書。

(3)が正解。

(4)は江戸時代後期の仙台藩の藩士桜田迪が著した注釈書。


【6問目解説】

正解(3)

(2)と(4)の諸葛孔明と韓信は孫武より後の時代の人物。

(1)の老子は孫武と時代が同じで、孫武も学んでいた可能性が高いが、白石の注釈書で引用が多かったのは、(3)の管子(管仲)の文。管子は「管鮑の交わり」などで有名な中国春秋時代の斉の国の政治家。孫武より前の時代の人で、管子の兵法は『孫子』が世に出るまでは、当時としては有名な兵法書であったことは間違いない。


【7問目解説】

本文の「戦勢は(1)に過ぎざるも、(1)の変は勝(あ)げて窮むべからざるなり。(1)の還(めぐ)りて相い生ずることは、環の端なきが如し。孰(たれ)か能くこれを窮めんや。」の現代文訳は、「戦闘の勢いは、奇法と正法との二つの運用に過ぎないが、奇法と正法との混じり合った変化は、無数のもので、とても窮めつくせるものではありません。奇法と正法とが互いに生まれ出てくる(奇の中に正があり、正の中に奇があり、奇から正が生まれ、正から奇が生まれるという)その有様は、丸い輪に終点がないようなものです。誰にそれが窮められるでしょうか。」となる。
よって、正解は(4)の「奇正」。


【8問目解説】

正解は(2)です。ご存知の方も多かったとは思いますが、迷っていただくために選択肢づくりに苦心しました。


【9問目解説】

(4)が正解です。

『孫子』で有名な「迂直の計」の説明箇所です。作戦を以て、物理的(時間・距離・速さ)、心理的(意外)に、相手より先回りし、戦を有利にもっていくのが、迂直の計の真髄です。


【10問目解説】

(2)が正解。間は間諜(スパイ)のこと。










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2013-01-01 (火) | 編集 |
孫子 兵法 大研究!

孫子兵法問題集:孫子 兵法 大研究!

孫子兵法問題集(2)

オリジナル問題集です。これは難しいはず!








【1問目】『形』篇より問題です。
本文に、「是の故に勝兵は先づ勝ちて、而る後に戦を求め、敗兵は先づ戦いて、而る後に(1)を求む。」とありますが、この(1)に入る言葉はどれ?

(1)実
(2)全き
(3)勢
(4)勝

【2問目】『勢』篇より問題です。
本文に「凡そ戦は(1)を以て合い、(2)を以て勝つ。故に善く(2)を出す者、窮まり無きこと天地の如く…。」とありますが、この空欄(1)と(2)に入る言葉はどれ?

(1)(1)実 (2)虚
(2)(1)形 (2)勢
(3)(1)正 (2)奇
(4)(1)守 (2)攻

【3問目】『計』篇より問題です。
軍備をおさめる為に必要な基本項目として、孫子が挙げているものはどれ?

(1)曲制・官道・主用
(2)智・信・仁・勇・厳
(3)仁・義・礼・智・信
(4)道・天・地・将・法

【4問目】『呉越春秋』によると、孫子(孫武)はどこの出身?

(1)斉
(2)魏
(3)楚
(4)呉

【5問目】幕末維新期の軍学者『恩田仰岳』の著した『孫子』の注釈書はどれ?

(1)孫子纂注
(2)孫子講註
(3)孫子兵法択
(4)孫子詳解

【6問目】『謀攻』篇より問題です。
本文に「是の故に百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。」とみえますが、では、この文の「是の故」とは何を指すでしょう?

(1)已に敗るるに勝つ、故に(百戦百勝は善の善なるものに非ざるなり。)
(2)上兵は謀を伐つ、故に(百戦百勝は善の善なるものに非ざるなり。)
(3)窮寇には迫る勿かれ、故に(百戦百勝は善の善なるものに非ざるなり。)
(4)全きを以て上と為す、故に(百戦百勝は善の善なるものに非ざるなり。)

【7問目】『孫子』注釈書で、林羅山(江戸時代初期の朱子学派儒学者)が著したものではない注釈書が一つあります。さて、それはどれ?

(1)孫呉摘語
(2)孫子提要
(3)孫子諺解
(4)孫子抄

【8問目】孫子兵法の原作者である孫武が仕えた君主の名前は『闔廬』ですが、では、闔廬が楚に行っている間に呉でクーデターを起こして王となった、闔廬の弟の名前は?

(1)夫概
(2)諸樊
(3)僚
(4)寿夢

【9問目】『行軍』篇より問題です。
本文に「凡そ地に(1)有らば、必ず亟(すみや)かに之を去りて近づく勿かれ。吾は之に遠ざかり、敵は之に近づかしめ、吾は之を迎へ、敵は之を背にせしめよ。」とありますが、この(1)の空欄に入る言葉はどれでしょう?

(1)圮地・衢地・絶地・圍地・死地
(2)弛む者、陥る者、崩るる者、亂るる者、北ぐる者
(3)通なる者、挂なる者、支なる者、隘なる者、險なる者、遠なる者
(4)絶澗・天井・天牢・天羅・天陥・天隙

【10問目】孫子注釈書に『十一家注孫子』がありますが、つぎのうち『十一家』でない者は誰?

(1)何延錫
(2)趙本学
(3)梅聖兪
(4)曹操










【1問目解説】

正解(4)

戦の前に勝てるかどうか十分に考えてから戦わないと、戦に敗れるということを言っています。


【2問目解説】

正解(3)

「大体、戦というものは、正攻法で相見え、正攻法以外の思いもかけない奇策、謀を以て敵に勝つものである。」ということである。つまり、正攻法だけではなかなか勝利には結びつかない、ということを言っている。


【3問目解説】

正解(4)

(1)は五事の「法」の中身。
(2)は五事の「将」の中身。
(3)は儒教の五常(五徳)。
(4)が正解。この五事が軍事の大本となる。


【4問目解説】

正解(4)

『史記』によれば、孫武は「斉」の人、と紹介されている。しかし、『呉越春秋』では孫武は「呉」の人となっている。はて、真相は果たしてどっち?


【5問目解説】

(1)が正解。
(2)は有沢武貞が著したもの。
(3)は新井白石が著したもの。
(4)は伊藤鳳山が著したもの。


【6問目解説】

(1)「已に敗るるに勝つ」、とは「形篇」の言葉。
(2)「上兵は謀を伐つ」、とは「謀攻篇」の言葉。問題文の本文の後に続く文。
(3)「窮寇には迫る勿かれ」、とは「軍争篇」の言葉。
(4)が正解。戦って相手を破ることよりも、自国の資源を保全して、敵を負かすことを最上とした。


【7問目解説】

(2)が正解。「孫子提要」は久留米藩の儒官、梯隆恭(かけはしたかやす)の著したもの。


【8問目解説】

(1)が正解。ちなみにクーデターを起こしたあとは、闔廬にすぐに鎮圧され、楚に逃げて行った。
(2)諸樊は、春秋時代の呉の第2代の王。姓は姫。名は遏、あるいは謁と表記される。寿夢の子。紀元前561年9月、父の寿夢が死去すると、跡を継いで王となった。闔廬(闔閭)と夫概の父である。
(3)僚は、父は初代の王の寿夢あるいは第4代の王の余昧。闔廬に弑せられ、その後、闔廬は呉王となっている。
(4)寿夢は、春秋時代の呉の初代の王。姓は姫。名は乗。去斉の子。紀元前586年、父の去斉が死去すると跡を継いだ。寿夢の代に呉は強大となり、彼が初めて王を名乗った。

寿夢には4人の子がおり、それぞれ諸樊・余祭・余昧・季札といった。死に際し、寿夢は兄弟の中で最も優秀な末子の季札に跡を継がせようと考えたが、季札は兄たちに遠慮してこれを辞退した。そのため、寿夢の死後は王位を兄弟間で順番に継承する方式を採った。後に余昧の子である僚へと王位が継承されたが、この王位継承順に納得のいかなかった闔廬が反乱を起こし、闔廬が呉王となった。


【9問目解説】

(1)は九変篇の言葉。
(2)、(3)は地形篇の言葉。
(4)が正解。
絶澗とは、嶮(けわ)しい絶壁にはさまれた谷間。
天井とは、四方がそびえ中がくぼんで渓水の落ちこんでいる自然の井戸。
天牢とは、三面が囲まれて入りこむと出られない自然の牢獄。
天羅とは、草木が密生して行動できない自然の捕り網。
天陥とは、地形の落ち込んだ泥沼で自然の陥し穴。
天隙とは、ほら穴のように狭まった深く長い地隙。
いずれの地形も軍が圧倒的不利に陥ることは間違いない。このような地形には、相手を誘い込むことはあっても、絶対に自軍の本命の部隊を行かせてはならない。


【10問目解説】

(2)が正解。明の時代の人。『趙註孫子』を著した。
(3)は十一家である梅堯臣のこと。字を聖兪という。










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2013-01-01 (火) | 編集 |
孫子 兵法 大研究!

孫子兵法問題集:孫子 兵法 大研究!

孫子兵法問題集(1)

オリジナル問題集です。全部解けるかな?







【一問目】春秋時代、呉王闔閭が目を通したとされる孫子兵法の著者はだれ?

(1)孫臏
(2)孫武
(3)孫書
(4)孫明

【二問目】『魏武帝註孫子』は、孫子兵法の文と注釈が載っている有名な『孫子兵法』のひとつであるが、さて、これを記した「魏武」とはだれを指すでしょう?

(1)曹豹
(2)曹植
(3)曹丕
(4)曹操

【三問目】現在、主流となっている孫子兵法の篇数は、何篇?

(1)十三篇
(2)三十六篇
(3)八十二篇
(4)八十九篇

【四問目】戦国時代、武田信玄が軍旗に掲げた孫子兵法の一節の言葉は何?

(1)兵貴拙速
(2)知彼知己百戦不殆
(3)風林火山
(4)攻其無備出其不意

【五問目】「孫子兵法」にある「最上の勝利」とはどれ?

(1)百戦百勝
(2)戦わずして勝つ
(3)城や領土を攻め取る
(4)兵を温存し、持久戦で無傷で勝つ。

【六問目】孫子兵法の著者の一人と考えられている孫武の子孫である孫臏の宿命のライバルはだれ?

(1)曹操
(2)勾践
(3)田忌
(4)龐涓

【七問目】日本に最初に「孫子」を伝えたとされる人物はだれ?

(1)徐福
(2)吉備真備
(3)小野妹子
(4)藤原佐世

【八問目】孫子兵法の「孫子」の「子」とはどういう意味?

(1)先生
(2)神
(3)聖人
(4)帝王

【九問目】中国の主な兵法である、『孫子』『呉子』『尉繚子』『六韜』『三略』『司馬法』『李衛公問対』をまとめて何と言う?

(1)五輪書
(2)闘戦経
(3)兵法三十六計
(4)武経七書

【十問目】孫子兵法の原作者が仕えた人はだれ?

(1)夫差
(2)恵王
(3)闔閭
(4)楽毅









【1問目解説】

(1)は孫武の子孫。

(2)が正解。

(3)は孫武の祖父にあたる人。

(4)孫武の子にあたる人。

『史記』によれば、呉王闔閭が孫武の書いた十三編の兵法を読んだことが記されています。よって、孫武が著者といわれています。ですが、今に伝わる孫子兵法は、孫武一人の著作ではないことが定説となっています。これは、孫武が呉王闔閭に初めてまみえた当時には、記述されることがありえないようなことが記載されていたりしているためです。ですから、孫子兵法は時代とともに、孫子の弟子や子孫(いわゆる孫氏学派)が加説していき作られてきたと考えられています。


【2問目解説】

(1)三国志で有名な陶謙の重臣で、下邳県の相の地位にあった。曹操が陶謙を攻めた時、将軍として曹操軍と戦ったが、敗退している。陶謙の死後、劉備の家臣となった。ちなみになぜ曹豹が世に知られているかというと、光栄のゲーム『三国志』最弱キャラとして有名になってしまったから。

(2)曹植は曹操の正嫡の三男。

(3)曹操の子。三国時代の魏の初代皇帝。

(4)が正解。

曹 操(そう そう、永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日)は、中国後漢末の武将、政治家。詩人、兵法家としても業績を残した。字は孟徳(もうとく)、幼名は阿瞞また吉利。沛国譙県(現在の安徽省亳州市。また河南省永城市という説もある)の人。

後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、謚号は武皇帝。後世では魏の武帝、魏武とも呼ばれる。


【3問目解説】

(1)が正解。

(3)は『漢書』芸文志にある「呉孫子兵法」の篇数。

(4)は『漢書』芸文志にある「斉孫子兵法」の篇数。

現在は孫子兵法といえば、十三篇が主流。前漢時代以前はもっと篇数が存在していたようで、1972年4月に中国、山東省臨沂県銀雀山において十三篇以外の孫子兵法と思われるものが一部みつかった。


【4問目解説】

正解(3)

風林火山とは、甲斐の戦国大名・武田信玄の旗指物(軍旗)に記されたとされている「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」(疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如し、侵略(しんりゃく:おかしかすめる)すること火の如く、動かざること山の如し)の通称。


【5問目解説】

正解 (2)

孫子の思想は基本的に勝算がなければ戦わないという考えです。どうしても戦わなければならない状態になったら、自国の力を損なうことなく敵に勝つことを旨としています。(4)は無傷で勝つという点は良いのですが、持久戦は「孫子」では戒めています。作戦篇の「故に兵は拙速なるを聞くも、未だ巧久しきなるを睹ざるなり。夫れ兵久しくして国の利するは、未だこれ有らざるなり。」という文からもわかるように、いかに作戦がうまくいっても、持久戦は国の費用をたくさん使い、兵も疲れさせるため、持久戦はできるかぎり避けるようにしています。


【6問目解説】

(1)は三国時代の奸雄といわれた漢の丞相、曹操孟徳。

(2)勾践は、中国春秋時代後期の越の王。范蠡の補佐を得て当時華南で強勢を誇っていた呉を滅ぼした。春秋五覇の一人に数えられることもある。臥薪嘗胆という故事の元となった逸話で有名。

(3)田忌は孫臏が仕えた将軍。

(4)が正解。

『史記』によれば、龐涓は若いころ、孫臏とともに兵法を学んでいたが、孫臏にはかなわないことを知り、孫臏を罪に陥れた。その後、孫臏は斉国の軍師となり、敵国の将軍となっていた龐涓を見事作戦にて追い詰め、龐涓は「遂成豎子之名(遂に豎子の名を成さしむ)」と言い残して自刎した、とされる。しかし、1972年に銀雀山で出土した竹簡によれば、龐涓は最後捕えられた、となっている。


【7問目解説】

(1)の徐福は、司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衝山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。また、徐福がひとつの孫子兵法を日本に伝えた可能性があるという期待が昔にあったそうである。

(2)が正解。

(3)の小野妹子は、『日本書紀』によると大唐に派遣され、大禮(冠位十二階の位)蘇因高と呼ばれた。日本の通説では『隋書』が記録する「日出処天子」の文言で知られる国書を携えた使者は小野妹子とされる。

(4)の藤原佐世は、『日本国見在書目録』で、『孫子兵法二巻 呉将孫武撰 孫子兵法書一巻 巨詡(賈詡の誤りであろう)撰、孫子兵書三巻 魏武解、孫子兵書一[巻]魏祖略解」、「孫子兵法八陣図二[巻]」、「続孫子兵法二[巻]魏武帝撰」の六点が見える。

我が国に初めて「孫子」を伝えたのは吉備真備とされている。「続日本紀」に、吉備真備に諸葛亮の八陳・孫子の九地・結営の向背を習わしめられたとあるのがその根拠となっている。


【8問目解説】

正解 (1)

子は敬称である。この選択肢の中からは、(1)の「先生」が意味としては妥当である。(2)(3)(4)は敬称としては、ちょっといきすぎであろう。まあでもひとによっては「神」もありと考える人はいるかもしれないが…。


【9問目解説】

(1)『五輪書』(ごりんのしょ)は、宮本武蔵の著した兵法書。武蔵の代表的な著作である。

(2)『闘戦経』(鬪戰經 とうせんきょう)は、平安時代末期に成立したとみられる日本の兵法書(後述)。現存する国内独自の兵法書としては、最古の兵法書である。

(3)兵法三十六計(へいほうさんじゅうろっけい, 中: 三十六?)とは中世頃の中国の兵法書。兵法における戦術を六段階の三十六通りのに分けてまとめたものである。「三十六計逃げるに如かず」という故事が有名だが、この故事自体は兵法三十六計とは関係ない。

(4)が正解。

武経七書(ぶけいしちしょ)は中国における兵法の代表的古典とされる七つの兵法書。


【10問目解説】

(1)の夫差は、中国春秋時代の呉の第7代、最後の王。姓は姫。春秋五覇の一人に数えられる。先代の呉王闔閭の次男。越王勾践によって討たれた父・闔閭の仇を討つため、伍子胥の尽力を得て国力を充実させ、一時は覇者となったが、勾践の反撃により敗北して自決した。

(2)の恵王は、中国戦国時代の魏の第3代君主(在位:紀元前369年 - 紀元前319年)。または初代の王。

(3)が正解。

(4)楽毅は、、中国戦国時代の燕国の武将。燕の昭王を助けて、斉を滅亡寸前まで追い込んだ。昌国君、または望諸君とも呼ばれる。

呉王闔閭は「史記」によれば、婦人の兵を孫武に指揮させ、その用兵を見て孫武を登用したとされる。










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