2012-04-01 (日) | 編集 |
孫子 兵法 大研究!
本文注釈:孫子 兵法 大研究!
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『曰く、主孰れか道なる、』:本文注釈
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現行孫子はいずれも「曰く、主孰れか有道なる、」につくる。竹簡孫子のこの部分の場所の竹簡が欠損しているため、原文を推定してみると、竹簡孫子の七計の説明の箇所において、「孰れか」の後が必ず漢字一文字で来ているため、「有道」ではなく「道」となっていたと思われる。なお、浅野孫子のみ「主は孰れか賢なる、」につくる。
主-①中心である。おも(な)。②つかさどる(人)。③中心となって管理する。④一家・一国・一団などの長。あるじ。ぬし。⑤宇宙の支配者。神。⑥それを中心とする。⑦他にはたらきかける側。他人を迎えて接待する側の人。客。⑧そこにとどまっているもの。みたましろ。【解字】燭台(しょくだい)の上で静止して燃えたつ炎をかたどった象形文字。一か所にじっと留まる意から、あるじの意となる。「住」「注」「駐」などはこれから派生。
註
○天野孫子:「主」は一国の君主。一説に『国字解』は「主は主将なり」と。「孰」はここでは彼我両国のいずれかの意で、その優劣を問う。「有道」は有徳と同じ。君の有徳。『約説』[何言の「孫子約説」]は「両国の主孰れか道徳ありと為す」と。この句は彼我両国の君主のいずれが有徳の政治を行なっているかの意。従って前段の文における道の定義とは異なった意味を持つ。前段の文の説明には、君の有徳の政治に触れることなく、政治の効果すなわち人心収攬のみを説いている。そこで『外伝』も言うように、それは聖人の道ではないと言われる。一説に梅堯臣は「誰か能く人心を得たる」と。また一説に「道」は民の道であるとして『新釈』は「五事中の『道』の定義を見ると『令民与上同意』であるから、寧ろ『民の道』である。故に主孰れか道あるといふのは『敵か味方か孰れの君主が、より強く民の道の中心となつてゐるか』といふ意である」と。
○重沢孫子:第一は主と道。彼我両国の君主について、そのどちらが前記の”道”の要素をより多く身につけているかを比較する。
○守屋孫子:一、君主は、どちらが立派な政治を行なっているか。
○田所孫子:主孰有道とは、敵と味方の君主のいずれが道に合っているかとの意。孰は敵と味方のどちらかとの意で、以下すべて同様。
○著者不明孫子:【主孰有道】「有道」は「戦うについての正しい道理が有る」との意であるが、この「道」は上の「五事」の第一項に挙げられた「道」であるから、直接には「人の和を得る、民心を得る」ことを意味する。「孰」は「どちらが」の意。
○諺義:『主孰れか道有る、将孰れか能有る、』 主は主人也。主は道を以て本とす。道を心得ざる主人は、たとひ才知かしこくとも人物の大義にくらし。このゆゑに、たとひ軍は當坐のかち(勝)ありともまことの勝をしる事之れ有る可からざる也。道は五事に注せる所の道、人民皆上にしたしみおもひ付きて危きを畏れざる也。孰とは彼我との二つを合せての言也。二國人心の向背いづれか人の心を得て道あるぞと校計してしる也。能と云ふは、材能也。材能と云ふときは、専ら智にかかれり。大将は智を以て第一とす。このゆゑに能と云へり。しかれどもすべて云ふときは智信仁勇厳をさす。此の五つ相備はるを能将と云ふ、乃ち良将の義也。彼の将と我が将といづれが此の五つのものをよくするぞと校計する也。主には道と云ひ、将には能と云ふ、尤も其の心得あること也。主は大要をつくすにあり、将は其のことわざを能く心得て、それそれのわざをつくすべき也。漢祖の将に将たるは道也、韓信の多々益々辨ずるは能也。項羽の嗚呼叱咤して(而)千人廢するは能也。漢祖の寛仁大度[寛大でなさけ深く、度量の大きいこと。]は道也。
○孫子国字解:この曰と云より下は、上文に校之以計と云へる、其たくらべ様を説けり。此品七つあるゆへ、曹操王晳が注より、是を七計と云ひ習はせども、五事の外に、別に、七計なしと知べし。主は主将なり。孰有道とは、敵の主将が道あるか、味方の主将が道あるかと、敵味方をたくらべはかることなり。有道と云は、則前の五事の内に、道者、令民與上同意、可與之死、可與之生、而不畏危也ある處に叶ふを、道あると云なり。むかし韓信項羽を背きて、高祖に歸したりし時、項羽は諸侯の権を取て、威天下に振ひたれども、生得あらけなき大将にて、人を殺すことを好み、さし當りは禮義ありて愛敬らしけれども、人に國郡を與ふることを惜み、又人の異見を用ひぬ人なれば、智謀ある人、みな項羽に従はず、又高祖はわづかに漢中の王にして、小身なれども、器量大やうにして、民を苦しめず、細かなる法度を立ず、面にむかひて人を悪口し、又人をうやまはぬ過あれども、人に國郡を與ることを惜まず、又よく人の諌を用る人なれば、始終の勝利は、高祖の方にあらんとはかりしが、後其はかりたりし如くなりしも、此本文の意なり。
○孫子評註:「曰く、主(双方の君主のうち、前述の君民一体の道を体しているのは、どちらであるか。)孰れか道ある。将孰れか能ある。」-五事には主の字を露(あらわ)さず、ここに至つて點出し、将と對す。智信の五字を約して一の能の字と為す。将とは大将なり。他皆之れに倣(なら)へ。
○杜牧:孰れは誰かなり。言うこころは我敵人の主と誰か能く佞[口先がうまい。へつらう。おもねる]を遠ざけ賢に親しみ、人に任せ疑わざるやとなり。
○梅堯臣:誰か能く人心を得たる。
○王晳:韓信 項王匹夫の勇、婦人の仁、名は覇を為すと雖も、實は天下 心を失う、を謂い漢王武關に入りて、秋毫害する所無く秦の苛法を除けば、秦民 大王の秦の王を欲さざる者は亡ぶを言うが若きは是なり。
○何氏:書に曰く、我撫せば則后にし、我虐げれば則讎す。撫虐の政、孰れか之れ有る。
○張預:先ず二國の主、誰か恩信の道有るを校ぶ。即ち上に所謂の民をして上と意を同じうせ令むる者の道なり。淮陰項王仁勇高祖に過ぎて有功を賞さず、婦人の仁を為して料るが若きは亦是なり。
意訳
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○浅野孫子:その内訳を述べれば、敵国と自国とで、君主はどちらが民心を掌握できる賢明を備えているか、
○金谷孫子:すなわち、君主は[敵と身方とで]いずれが人心を得ているか、
○町田孫子:すなわち、君主はどちらのほうが道を体得しているか、
○天野孫子:すなわち、彼我両国において、いずれの君主がよりよく有徳であろうか。
○フランシス・ワン孫子:為政者と国民の関係は、何れがより親密であるか(より大きな精神的影響力を持ち、民意を得ているか)。
○大橋孫子:すなわち、どちらの君主がよい政治をしているか。
○田所孫子:まず第一には、わが君主と敵の君主と、どちらが前述の道ということ、すなわち君主と兵士との間に意思の共通点がどれだけあるかということ、
○著者不明孫子:それは-君主はどちらが民衆の心をとらえているか、
○学習研究社孫子:そこで言う。「第一に、どちらの君主が、より多く道を体得しているか。
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『曰く、主孰れか道なる、』:本文注釈
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現行孫子はいずれも「曰く、主孰れか有道なる、」につくる。竹簡孫子のこの部分の場所の竹簡が欠損しているため、原文を推定してみると、竹簡孫子の七計の説明の箇所において、「孰れか」の後が必ず漢字一文字で来ているため、「有道」ではなく「道」となっていたと思われる。なお、浅野孫子のみ「主は孰れか賢なる、」につくる。
主-①中心である。おも(な)。②つかさどる(人)。③中心となって管理する。④一家・一国・一団などの長。あるじ。ぬし。⑤宇宙の支配者。神。⑥それを中心とする。⑦他にはたらきかける側。他人を迎えて接待する側の人。客。⑧そこにとどまっているもの。みたましろ。【解字】燭台(しょくだい)の上で静止して燃えたつ炎をかたどった象形文字。一か所にじっと留まる意から、あるじの意となる。「住」「注」「駐」などはこれから派生。
註
○天野孫子:「主」は一国の君主。一説に『国字解』は「主は主将なり」と。「孰」はここでは彼我両国のいずれかの意で、その優劣を問う。「有道」は有徳と同じ。君の有徳。『約説』[何言の「孫子約説」]は「両国の主孰れか道徳ありと為す」と。この句は彼我両国の君主のいずれが有徳の政治を行なっているかの意。従って前段の文における道の定義とは異なった意味を持つ。前段の文の説明には、君の有徳の政治に触れることなく、政治の効果すなわち人心収攬のみを説いている。そこで『外伝』も言うように、それは聖人の道ではないと言われる。一説に梅堯臣は「誰か能く人心を得たる」と。また一説に「道」は民の道であるとして『新釈』は「五事中の『道』の定義を見ると『令民与上同意』であるから、寧ろ『民の道』である。故に主孰れか道あるといふのは『敵か味方か孰れの君主が、より強く民の道の中心となつてゐるか』といふ意である」と。
○重沢孫子:第一は主と道。彼我両国の君主について、そのどちらが前記の”道”の要素をより多く身につけているかを比較する。
○守屋孫子:一、君主は、どちらが立派な政治を行なっているか。
○田所孫子:主孰有道とは、敵と味方の君主のいずれが道に合っているかとの意。孰は敵と味方のどちらかとの意で、以下すべて同様。
○著者不明孫子:【主孰有道】「有道」は「戦うについての正しい道理が有る」との意であるが、この「道」は上の「五事」の第一項に挙げられた「道」であるから、直接には「人の和を得る、民心を得る」ことを意味する。「孰」は「どちらが」の意。
○諺義:『主孰れか道有る、将孰れか能有る、』 主は主人也。主は道を以て本とす。道を心得ざる主人は、たとひ才知かしこくとも人物の大義にくらし。このゆゑに、たとひ軍は當坐のかち(勝)ありともまことの勝をしる事之れ有る可からざる也。道は五事に注せる所の道、人民皆上にしたしみおもひ付きて危きを畏れざる也。孰とは彼我との二つを合せての言也。二國人心の向背いづれか人の心を得て道あるぞと校計してしる也。能と云ふは、材能也。材能と云ふときは、専ら智にかかれり。大将は智を以て第一とす。このゆゑに能と云へり。しかれどもすべて云ふときは智信仁勇厳をさす。此の五つ相備はるを能将と云ふ、乃ち良将の義也。彼の将と我が将といづれが此の五つのものをよくするぞと校計する也。主には道と云ひ、将には能と云ふ、尤も其の心得あること也。主は大要をつくすにあり、将は其のことわざを能く心得て、それそれのわざをつくすべき也。漢祖の将に将たるは道也、韓信の多々益々辨ずるは能也。項羽の嗚呼叱咤して(而)千人廢するは能也。漢祖の寛仁大度[寛大でなさけ深く、度量の大きいこと。]は道也。
○孫子国字解:この曰と云より下は、上文に校之以計と云へる、其たくらべ様を説けり。此品七つあるゆへ、曹操王晳が注より、是を七計と云ひ習はせども、五事の外に、別に、七計なしと知べし。主は主将なり。孰有道とは、敵の主将が道あるか、味方の主将が道あるかと、敵味方をたくらべはかることなり。有道と云は、則前の五事の内に、道者、令民與上同意、可與之死、可與之生、而不畏危也ある處に叶ふを、道あると云なり。むかし韓信項羽を背きて、高祖に歸したりし時、項羽は諸侯の権を取て、威天下に振ひたれども、生得あらけなき大将にて、人を殺すことを好み、さし當りは禮義ありて愛敬らしけれども、人に國郡を與ふることを惜み、又人の異見を用ひぬ人なれば、智謀ある人、みな項羽に従はず、又高祖はわづかに漢中の王にして、小身なれども、器量大やうにして、民を苦しめず、細かなる法度を立ず、面にむかひて人を悪口し、又人をうやまはぬ過あれども、人に國郡を與ることを惜まず、又よく人の諌を用る人なれば、始終の勝利は、高祖の方にあらんとはかりしが、後其はかりたりし如くなりしも、此本文の意なり。
○孫子評註:「曰く、主(双方の君主のうち、前述の君民一体の道を体しているのは、どちらであるか。)孰れか道ある。将孰れか能ある。」-五事には主の字を露(あらわ)さず、ここに至つて點出し、将と對す。智信の五字を約して一の能の字と為す。将とは大将なり。他皆之れに倣(なら)へ。
○杜牧:孰れは誰かなり。言うこころは我敵人の主と誰か能く佞[口先がうまい。へつらう。おもねる]を遠ざけ賢に親しみ、人に任せ疑わざるやとなり。
○梅堯臣:誰か能く人心を得たる。
○王晳:韓信 項王匹夫の勇、婦人の仁、名は覇を為すと雖も、實は天下 心を失う、を謂い漢王武關に入りて、秋毫害する所無く秦の苛法を除けば、秦民 大王の秦の王を欲さざる者は亡ぶを言うが若きは是なり。
○何氏:書に曰く、我撫せば則后にし、我虐げれば則讎す。撫虐の政、孰れか之れ有る。
○張預:先ず二國の主、誰か恩信の道有るを校ぶ。即ち上に所謂の民をして上と意を同じうせ令むる者の道なり。淮陰項王仁勇高祖に過ぎて有功を賞さず、婦人の仁を為して料るが若きは亦是なり。
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○浅野孫子:その内訳を述べれば、敵国と自国とで、君主はどちらが民心を掌握できる賢明を備えているか、
○金谷孫子:すなわち、君主は[敵と身方とで]いずれが人心を得ているか、
○町田孫子:すなわち、君主はどちらのほうが道を体得しているか、
○天野孫子:すなわち、彼我両国において、いずれの君主がよりよく有徳であろうか。
○フランシス・ワン孫子:為政者と国民の関係は、何れがより親密であるか(より大きな精神的影響力を持ち、民意を得ているか)。
○大橋孫子:すなわち、どちらの君主がよい政治をしているか。
○田所孫子:まず第一には、わが君主と敵の君主と、どちらが前述の道ということ、すなわち君主と兵士との間に意思の共通点がどれだけあるかということ、
○著者不明孫子:それは-君主はどちらが民衆の心をとらえているか、
○学習研究社孫子:そこで言う。「第一に、どちらの君主が、より多く道を体得しているか。
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2012-03-29 (木) | 編集 |
孫子 兵法 大研究!
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『故に之れを効すに計を以てし、以て其の情を索む。』:本文注釈
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竹簡孫子以外の諸本では『故に之れを校ぶるに計を以てして、其の情を索む。』につくる。
七つの計がここでは列挙されているが、計は七つと限定しないで解釈したほうがよい。戦に関係ないようなどんな些細なことでも情報収集をおこない、活用することで、勝負の帰趨が決まる。「故」の字は「だから」などの意味のほかに、孫子兵法の文においては、昔から伝わっている有名な言い回しの言葉や、以前に孫子が言った言葉を指している場合が度々ある。また、「故」の字は文章をまとめただけの意味で用いられることがあり、訳すときは、単に改行するだけの方が良い場合もある。
註
○天野孫子:「故」-前文から後文が展開することを示す役割をしているが、ここでは後文が前文の「凡此五者将莫不聞、知之者勝、不知者不勝」から展開するものではない。文意上、後文は「経之以五事、一曰道、二曰天、三曰地、四曰将、五曰法」から展開する。それは軍備をなすことを示すものであり、一方、後文は両国の軍備を比較することを述べている。従って「故」は、両国間にいよいよ事が急な時、そこでの意を表わす。一説に『詳解』は「故の字は上の二句(知之者勝と不知者不勝)を受く」と。
○重沢孫子:五事についての各論が終わったので、いよいよ五事を含む七つの事項について、彼我の実態を比較計量し、勝敗の条件を探索する段階に入ります。
○守屋孫子:さらに、次の七つの基本条件に照らし合わせて、彼我の優劣を比較検討し、戦争の見通しをつける。
○田所孫子:校之以計とは、敵と味方との道天地将法の五事をくらべ合せて、計算するとの意。而索其情とは、敵と味方の実情を探索するとの意。
○諺義:此の故の字は、上の句をうけたる言也。五事をしるものは勝ち、知らざるものは勝たず、ここを以て此の五事を彼我に引合せてはかるを計と云ふ。物をかぞへてはかるは皆計の字也。このすべ(術)の七つをかぞへあげて、いづれか有餘不足とはかる、是れ乃ち計也。此の一句、重ねて之れを言ひて七計の發端とする也。
○孫子国字解:故とは、上の文をうけて、かやうにあるゆへにと云意なり。上文にある如く、五事の至極に通達する人は勝ち、通達せぬ人はまくるゆへに、此五事を目録にして、是にて敵味方をくらべはかり、目算して、その軍情をもとむると云意なり。
○孫子評註:是れ所謂計なり。而して此の一段は是れ一篇の主意なり。 ○計と五事とは唯だ是れ同意にして、而も又未だ嘗て相犯さず。但し五事は道と法と最も重く、計は則ち主と将と最も重し。「將、吾が計を聽く」以下に至りては、専ら將を以て重しと為して看よ。他の言各々當るあり。
○曹公:其の情を索むとは、勝負の情なり。
○杜佑:其の勝負の情を索む。索の音山格に反す。捜索の義なり。
○杜牧:上の五事を謂う。将に聞知せんと欲す。彼我の優劣を校量・計算し、然る後に其の情状を捜索すれば、乃ち能く必勝す。爾ざれば則敗る。
○賈林:書に云わく、知ることは之れ艱しからず、行なうは之れ惟だ難し、と。
○王晳:當に盡く知るべし。言うこころは五事を周知すと雖も、七計を待つを以て其の情を盡すなり。
○張預:上已に五事を陳べる。此れより下、方に彼我の得失を考校し、勝負の情状を探索すべし。
意訳
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○金谷孫子:それゆえ、[深い理解を得た者は、七つの]目算で比べあわせてその時の実情を求めるのである。
○浅野孫子:そこで観念論に陥る危険を避け、彼我の死生の地や存亡の道を明瞭に策定するため、優劣を具体的に比較・計量する基準を双方に当てはめる手段を用い、実際に両者の実情を探索してみるのである。
○町田孫子:だから、真に理解している者は、七つの計算で敵味方の力量を比べあわせて、その実情を求めるのである。
○天野孫子:事急な時、そこでいよいよ彼我両国の軍備を比較するのに、優劣の数を計算して、彼我両国の実情を求め知る。
○フランシス・ワン孫子:戦争計画を立案するに当っては、次の要素をつぶさに吟味し、比較検討せねばならない。
○大橋孫子:よく知るには、次の七つの条件を検討して状況判断する。
○武岡孫子:こうして軍事力を整備しているうちに、かねてから憂慮されていた国との関係が悪化し、戦うか否かの国策を決めなければならなくなったときは、先の五つの基本要因に沿って相手国の最新情報を集め、次の七つの要因に基づいてさらに細かく現状をよく捉えたうえで双方の戦力比較をしなければならない。
○学習研究社孫子:そこで、比較によって力量を判断し、我と敵の実情を知るのである。
○著者不明孫子:そこで、七計について彼我を比較することによって、実情をとらえるように努める。
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『故に之れを効すに計を以てし、以て其の情を索む。』:本文注釈
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竹簡孫子以外の諸本では『故に之れを校ぶるに計を以てして、其の情を索む。』につくる。
七つの計がここでは列挙されているが、計は七つと限定しないで解釈したほうがよい。戦に関係ないようなどんな些細なことでも情報収集をおこない、活用することで、勝負の帰趨が決まる。「故」の字は「だから」などの意味のほかに、孫子兵法の文においては、昔から伝わっている有名な言い回しの言葉や、以前に孫子が言った言葉を指している場合が度々ある。また、「故」の字は文章をまとめただけの意味で用いられることがあり、訳すときは、単に改行するだけの方が良い場合もある。
註
○天野孫子:「故」-前文から後文が展開することを示す役割をしているが、ここでは後文が前文の「凡此五者将莫不聞、知之者勝、不知者不勝」から展開するものではない。文意上、後文は「経之以五事、一曰道、二曰天、三曰地、四曰将、五曰法」から展開する。それは軍備をなすことを示すものであり、一方、後文は両国の軍備を比較することを述べている。従って「故」は、両国間にいよいよ事が急な時、そこでの意を表わす。一説に『詳解』は「故の字は上の二句(知之者勝と不知者不勝)を受く」と。
○重沢孫子:五事についての各論が終わったので、いよいよ五事を含む七つの事項について、彼我の実態を比較計量し、勝敗の条件を探索する段階に入ります。
○守屋孫子:さらに、次の七つの基本条件に照らし合わせて、彼我の優劣を比較検討し、戦争の見通しをつける。
○田所孫子:校之以計とは、敵と味方との道天地将法の五事をくらべ合せて、計算するとの意。而索其情とは、敵と味方の実情を探索するとの意。
○諺義:此の故の字は、上の句をうけたる言也。五事をしるものは勝ち、知らざるものは勝たず、ここを以て此の五事を彼我に引合せてはかるを計と云ふ。物をかぞへてはかるは皆計の字也。このすべ(術)の七つをかぞへあげて、いづれか有餘不足とはかる、是れ乃ち計也。此の一句、重ねて之れを言ひて七計の發端とする也。
○孫子国字解:故とは、上の文をうけて、かやうにあるゆへにと云意なり。上文にある如く、五事の至極に通達する人は勝ち、通達せぬ人はまくるゆへに、此五事を目録にして、是にて敵味方をくらべはかり、目算して、その軍情をもとむると云意なり。
○孫子評註:是れ所謂計なり。而して此の一段は是れ一篇の主意なり。 ○計と五事とは唯だ是れ同意にして、而も又未だ嘗て相犯さず。但し五事は道と法と最も重く、計は則ち主と将と最も重し。「將、吾が計を聽く」以下に至りては、専ら將を以て重しと為して看よ。他の言各々當るあり。
○曹公:其の情を索むとは、勝負の情なり。
○杜佑:其の勝負の情を索む。索の音山格に反す。捜索の義なり。
○杜牧:上の五事を謂う。将に聞知せんと欲す。彼我の優劣を校量・計算し、然る後に其の情状を捜索すれば、乃ち能く必勝す。爾ざれば則敗る。
○賈林:書に云わく、知ることは之れ艱しからず、行なうは之れ惟だ難し、と。
○王晳:當に盡く知るべし。言うこころは五事を周知すと雖も、七計を待つを以て其の情を盡すなり。
○張預:上已に五事を陳べる。此れより下、方に彼我の得失を考校し、勝負の情状を探索すべし。
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○金谷孫子:それゆえ、[深い理解を得た者は、七つの]目算で比べあわせてその時の実情を求めるのである。
○浅野孫子:そこで観念論に陥る危険を避け、彼我の死生の地や存亡の道を明瞭に策定するため、優劣を具体的に比較・計量する基準を双方に当てはめる手段を用い、実際に両者の実情を探索してみるのである。
○町田孫子:だから、真に理解している者は、七つの計算で敵味方の力量を比べあわせて、その実情を求めるのである。
○天野孫子:事急な時、そこでいよいよ彼我両国の軍備を比較するのに、優劣の数を計算して、彼我両国の実情を求め知る。
○フランシス・ワン孫子:戦争計画を立案するに当っては、次の要素をつぶさに吟味し、比較検討せねばならない。
○大橋孫子:よく知るには、次の七つの条件を検討して状況判断する。
○武岡孫子:こうして軍事力を整備しているうちに、かねてから憂慮されていた国との関係が悪化し、戦うか否かの国策を決めなければならなくなったときは、先の五つの基本要因に沿って相手国の最新情報を集め、次の七つの要因に基づいてさらに細かく現状をよく捉えたうえで双方の戦力比較をしなければならない。
○学習研究社孫子:そこで、比較によって力量を判断し、我と敵の実情を知るのである。
○著者不明孫子:そこで、七計について彼我を比較することによって、実情をとらえるように努める。
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『凡そ此の五者は、将は聞かざること莫きも、之れを知る者は勝ち、知らざる者は勝たず。』:本文注釈
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「道」で自国の民の協力度を計れば、やれることが限定されてくる。「天」で戦における自然的な要素を把握し、「地」により具体的な局地戦の場所が特定でき、「将」で優秀な人物を任務につけ、権力を集中させることで将の能力を十分発揮させ、「法」により将や兵卒を統制し、法を破るものは厳罰に処するようにすることで、軍のもっている力を最大限活用する。
註
○天野孫子:「凡」は総括して言う時にその意を表わすものとして用いる語。「此五者」とは前文の五事とそれについての説明とを受ける。「将」は将軍、一国の総大将。「知」はここでは心にとどめて理解するの意。五者を知る知らないで戦いに勝つ勝たないというのは言い過ぎであろう。一説に「知」は、つかさどる、おさめるの意であると。『評註』は「知は即ち王守仁謂ふ所の知州・知県の知なり」と。この説によると、将軍は五事についての全責任者となる。五事においては、君主と将軍とはその責任を異にし、軍備の責任、従って戦争の責任は君主と将軍とにあることとなっていて、ここに矛盾が生ずる。この句は単に五事の重要性を強調するために、後から附加したものと解される。
○佐野孫子:孫子の曰う「知る」とは、単に頭で理解したと言う意味ではなく、それを自家薬篭中のものとして自由に使いこなすことの意をも含むものである。書経に曰く、「之を知ることの難きに非ず、之を行うことの難きなり」と。
○守屋孫子:この五つの基本原則は、将帥たるもの誰でも一応は心得ている。しかし、これを真に理解している者だけが勝利を収めるのだ。中途半端な理解では、勝利はおぼつかない。
○田所孫子:将莫不聞とは、将軍・大将たるものは、以上の五事をすべて承知しないものはないはずであるとの意。
○重沢孫子:以上の五者は、部隊の活動にとって不可欠なものですから、すべて規定に従って処理されなければならないという観点から、”法”として一括提示されています。部隊組織が乱れたり、金銭や物資の処理に不正が生じる可能性は、古今を問わず常にあったにちがいありません。一般に、以上の五者は、将たるものが耳にしていないことはない。しかし、それだけでは不十分で、真に理解しているかどうかが勝敗の分れるところ。真によく理解していれば勝てるし、そうでなければ勝てないことを、孫子は鋭く指摘します。
○著者不明孫子:【将莫不聞】この「将」は大将の意にとるのが普通の解釈であるが、「まさに…す」という助字(聞かないものはないだろうの意)と解した。杜牧の注に「将欲聞知」とあるのも、そのように解したものと思われる。
○諺義:凡そと云ふ者は、大概と云ふに同じ。莫しの字、下知之言也。此の五つの者は主将聞かずして叶はざる事也。このゆゑに聞かざるといふこと莫しと、主将をいましめたる也。此の五事をしるものは勝つ、知らざるものは勝たず、されば之れを聞かざるといふこと莫しといましむる也。知の字尤も心あり、察の字と相通じて見る可し。講義・直解・開宗の舊説皆(莫字を)なしと云ふ心に用ひて、人々同聞と注するはあやまりなり。案ずるに、之れを知る者は勝つ、知らざるものは勝たずの一句は、下七計を云ふべきための言也。下の句と引合はせてよむべき也。李卓吾云はく、凡そ将為る者は孰れか之れを熟聞せざらんや。荀子或は之れを語るに此の五事を以てせば、又孰れか以て皆老将の常談[つねの話。普通の話。]する所と為さざらんや。然れども其の実は知れざるなり。其の実知らざれば則日に五事を聞くと雖も何の益あらんや。故に曰はく、此の五つの者は将聞かざるということ莫し。之れを知る者は勝つ、知らざる者は勝たずと。之れを聞きて知らず。此れ将の難き所以なり。大全に云はく、聞かざるということ莫れとは言ふこころは五事皆聞くなり。聞の字知の字に較ぶれば略ぼ分別有り。聞は耳に聞き、知は心に知る。文を作るには吞吐[呑むことと吐くこと。呑んだり吐いたりすること。]を要し、下知の字を虚含す。知の字は大に議論を発するを要す。勝は乃ち是れ知の效験[(古くコウゲンとも)はたらきかけた結果のしるし。ききめ。祈祷や治療のしるし。]の處、惟だ其れ知の實落功夫有り。所以に往くとして勝たざる無し。
○孫子国字解:此段は、右の五事の變極の理に通達すべきことを云へり。凡とは、總じてと云ことなり。此五者とは、右の五事を云。将は主将なり。聞と云も知ることなり。知れども變極の理に通達せぬを、孫子は聞と云、變極の理に通達するを知と云なり。變極の理に通達すとは、右の五事の上に於て、千變萬化する所を、一々に其至極にぬけとをりて、我物とすることなり。總じて右の五事をば、主将たる程の人は、誰も皆知たることにて、珍らしきことには非ず。されども人々われも知たるとは思へども、其變極の理に通達する人はまれなり。通達する人は軍に勝ち、通達せぬ人は負く。通達せずして叶はぬことなりとぞ。
○孫子評註:莫(原文「将莫不聞」の莫の字に注したもの。)とは者なきなり。知とは即ち王守仁(王陽明のこと。陽明は知行を論じ、知とは知州知県の知であると言った。伝習録の「人の学を論ずるに答ふる書」参照。また第九巻『西遊日記』参照。)の所謂、知州知縣の知なり。
○曹公:同じく五者を聞く。将其の變極を知れば即ち勝つなり。
○張預:以上の五事は人々同聞す。但し深く變極の理を曉れば則勝つ。然ざれば則敗る。
意訳
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○金谷孫子:およそこれら五つの事は、将軍たる者はだれでも知っているが、それを深く理解している者は勝ち、深く理解していない者は勝てない。
○浅野孫子:およそこれら五つの基本事項は、いやしくも将軍である以上、誰でも聞き知ってはいるが、これらの重要性を骨の髄まで思い知っている者は勝ち、単に観念的知識としてしか知らない者は勝てない。
○町田孫子:およそこの五つの事項については、将軍たる者だれでも一応は心得ているが、真に理解している者は勝ち、真に理解していない者は勝てない。
○フランシス・ワン孫子:此の五点を耳にしたことのない将軍はいない。これを体得した者は勝利し、体得しない者は敗北する。
○天野孫子:およそ将軍はこの五つの事を聞かないものはない。そしてこれをよく知っている者が戦争に勝ち、よく知らない者は戦争に敗れるのである。
○武岡孫子:この五項目で敵味方を比べ、どちらが整備できているかが、いざ戦争となるとものをいう。このことは将軍たるものは誰でも知っているが、本当に深く理解しているものは少ない。したがってよく認識して施策に反映させるものは勝てるが、そうでないものは敗れる。
○著者不明孫子:以上の五者は、だれも聞かない者はいないはずであるが、それをよく知っているほうは勝ち、よく知らないほうは勝てない。
○学習研究社孫子:通常、この五つの観点から軍事力を判断するということは、指揮官ならば知らない者はいないが、しかし、実際に調査している者は勝ち、調査しない者は勝てない。
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本文注釈:孫子 兵法 大研究!
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『凡そ此の五者は、将は聞かざること莫きも、之れを知る者は勝ち、知らざる者は勝たず。』:本文注釈
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「道」で自国の民の協力度を計れば、やれることが限定されてくる。「天」で戦における自然的な要素を把握し、「地」により具体的な局地戦の場所が特定でき、「将」で優秀な人物を任務につけ、権力を集中させることで将の能力を十分発揮させ、「法」により将や兵卒を統制し、法を破るものは厳罰に処するようにすることで、軍のもっている力を最大限活用する。
註
○天野孫子:「凡」は総括して言う時にその意を表わすものとして用いる語。「此五者」とは前文の五事とそれについての説明とを受ける。「将」は将軍、一国の総大将。「知」はここでは心にとどめて理解するの意。五者を知る知らないで戦いに勝つ勝たないというのは言い過ぎであろう。一説に「知」は、つかさどる、おさめるの意であると。『評註』は「知は即ち王守仁謂ふ所の知州・知県の知なり」と。この説によると、将軍は五事についての全責任者となる。五事においては、君主と将軍とはその責任を異にし、軍備の責任、従って戦争の責任は君主と将軍とにあることとなっていて、ここに矛盾が生ずる。この句は単に五事の重要性を強調するために、後から附加したものと解される。
○佐野孫子:孫子の曰う「知る」とは、単に頭で理解したと言う意味ではなく、それを自家薬篭中のものとして自由に使いこなすことの意をも含むものである。書経に曰く、「之を知ることの難きに非ず、之を行うことの難きなり」と。
○守屋孫子:この五つの基本原則は、将帥たるもの誰でも一応は心得ている。しかし、これを真に理解している者だけが勝利を収めるのだ。中途半端な理解では、勝利はおぼつかない。
○田所孫子:将莫不聞とは、将軍・大将たるものは、以上の五事をすべて承知しないものはないはずであるとの意。
○重沢孫子:以上の五者は、部隊の活動にとって不可欠なものですから、すべて規定に従って処理されなければならないという観点から、”法”として一括提示されています。部隊組織が乱れたり、金銭や物資の処理に不正が生じる可能性は、古今を問わず常にあったにちがいありません。一般に、以上の五者は、将たるものが耳にしていないことはない。しかし、それだけでは不十分で、真に理解しているかどうかが勝敗の分れるところ。真によく理解していれば勝てるし、そうでなければ勝てないことを、孫子は鋭く指摘します。
○著者不明孫子:【将莫不聞】この「将」は大将の意にとるのが普通の解釈であるが、「まさに…す」という助字(聞かないものはないだろうの意)と解した。杜牧の注に「将欲聞知」とあるのも、そのように解したものと思われる。
○諺義:凡そと云ふ者は、大概と云ふに同じ。莫しの字、下知之言也。此の五つの者は主将聞かずして叶はざる事也。このゆゑに聞かざるといふこと莫しと、主将をいましめたる也。此の五事をしるものは勝つ、知らざるものは勝たず、されば之れを聞かざるといふこと莫しといましむる也。知の字尤も心あり、察の字と相通じて見る可し。講義・直解・開宗の舊説皆(莫字を)なしと云ふ心に用ひて、人々同聞と注するはあやまりなり。案ずるに、之れを知る者は勝つ、知らざるものは勝たずの一句は、下七計を云ふべきための言也。下の句と引合はせてよむべき也。李卓吾云はく、凡そ将為る者は孰れか之れを熟聞せざらんや。荀子或は之れを語るに此の五事を以てせば、又孰れか以て皆老将の常談[つねの話。普通の話。]する所と為さざらんや。然れども其の実は知れざるなり。其の実知らざれば則日に五事を聞くと雖も何の益あらんや。故に曰はく、此の五つの者は将聞かざるということ莫し。之れを知る者は勝つ、知らざる者は勝たずと。之れを聞きて知らず。此れ将の難き所以なり。大全に云はく、聞かざるということ莫れとは言ふこころは五事皆聞くなり。聞の字知の字に較ぶれば略ぼ分別有り。聞は耳に聞き、知は心に知る。文を作るには吞吐[呑むことと吐くこと。呑んだり吐いたりすること。]を要し、下知の字を虚含す。知の字は大に議論を発するを要す。勝は乃ち是れ知の效験[(古くコウゲンとも)はたらきかけた結果のしるし。ききめ。祈祷や治療のしるし。]の處、惟だ其れ知の實落功夫有り。所以に往くとして勝たざる無し。
○孫子国字解:此段は、右の五事の變極の理に通達すべきことを云へり。凡とは、總じてと云ことなり。此五者とは、右の五事を云。将は主将なり。聞と云も知ることなり。知れども變極の理に通達せぬを、孫子は聞と云、變極の理に通達するを知と云なり。變極の理に通達すとは、右の五事の上に於て、千變萬化する所を、一々に其至極にぬけとをりて、我物とすることなり。總じて右の五事をば、主将たる程の人は、誰も皆知たることにて、珍らしきことには非ず。されども人々われも知たるとは思へども、其變極の理に通達する人はまれなり。通達する人は軍に勝ち、通達せぬ人は負く。通達せずして叶はぬことなりとぞ。
○孫子評註:莫(原文「将莫不聞」の莫の字に注したもの。)とは者なきなり。知とは即ち王守仁(王陽明のこと。陽明は知行を論じ、知とは知州知県の知であると言った。伝習録の「人の学を論ずるに答ふる書」参照。また第九巻『西遊日記』参照。)の所謂、知州知縣の知なり。
○曹公:同じく五者を聞く。将其の變極を知れば即ち勝つなり。
○張預:以上の五事は人々同聞す。但し深く變極の理を曉れば則勝つ。然ざれば則敗る。
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○金谷孫子:およそこれら五つの事は、将軍たる者はだれでも知っているが、それを深く理解している者は勝ち、深く理解していない者は勝てない。
○浅野孫子:およそこれら五つの基本事項は、いやしくも将軍である以上、誰でも聞き知ってはいるが、これらの重要性を骨の髄まで思い知っている者は勝ち、単に観念的知識としてしか知らない者は勝てない。
○町田孫子:およそこの五つの事項については、将軍たる者だれでも一応は心得ているが、真に理解している者は勝ち、真に理解していない者は勝てない。
○フランシス・ワン孫子:此の五点を耳にしたことのない将軍はいない。これを体得した者は勝利し、体得しない者は敗北する。
○天野孫子:およそ将軍はこの五つの事を聞かないものはない。そしてこれをよく知っている者が戦争に勝ち、よく知らない者は戦争に敗れるのである。
○武岡孫子:この五項目で敵味方を比べ、どちらが整備できているかが、いざ戦争となるとものをいう。このことは将軍たるものは誰でも知っているが、本当に深く理解しているものは少ない。したがってよく認識して施策に反映させるものは勝てるが、そうでないものは敗れる。
○著者不明孫子:以上の五者は、だれも聞かない者はいないはずであるが、それをよく知っているほうは勝ち、よく知らないほうは勝てない。
○学習研究社孫子:通常、この五つの観点から軍事力を判断するということは、指揮官ならば知らない者はいないが、しかし、実際に調査している者は勝ち、調査しない者は勝てない。
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