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孫子研究ブログです。孫子兵法は別名『孫子兵経』、『SUNTZU』、『The Art of WAR』ともよばれています。ナポレオンや毛沢東も愛読していました。注釈者には曹操、杜牧、山鹿素行、荻生徂徠、新井白石、吉田松陰、等の有名人も多いです。とにかく深いです。

孫子 兵法 大研究!トップ⇒本文注釈:孫子 兵法 大研究!
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2012-02-15 (水) | 編集 |
孫子 兵法 大研究!

本文注釈:孫子 兵法 大研究!

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『天とは、陰陽・寒暑の時を制するなり。順逆にして兵は勝つなり。』:本文注釈

竹簡本以外の諸本では『天とは陰陽・寒暑・時制なり』につくる。

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天-大自然の法則。ここでは戦争について述べているため、狭義の「勝つための法則」での意味合いが強い。

陰陽-中国の易学でいう、相反する性質をもつ陰・陽二種の気。万物の化成はこの二気の消長(衰えることと盛んになること。)によるとする。日・春・南・昼・男は陽、月・秋・北・夜・女は陰とする類。

陰-①日かげ。かげ。山の北側。川の南側。かげる。くもる。②「光陰」の略。時間。月日。③かくれ(てい)る。人目に立たない。ひそか。くらい。④易で、地・月・女・静など、相対的に消極的・受動的なものを表す語。マイナス。特に、月。【解字】形声。右半部「侌」は、音符「今」(=とじこもる)+「云」(=くも)で、とじこもって暗い意。「」(=おか)を加えて、おかの日の当たらない側の意。

陽-①ひなた。山の南側。川の北側。②易で、天・日・男・動など、相対的に積極的・能動的なものを表す語。プラス。特に、日(の光)。③表面に現れている。うわべ。④うわべをよそおう。いつわる。【解字】形声。「阝」(=おか)+音符「昜」(=太陽がのぼる)。おかの日の当たる側の意。

寒暑-①寒さと暑さ。②寒中と暑中。冬と夏。③時候の見舞。 『竹簡孫子』においては「冬と夏」の意から、意訳して「冬夏の戦争」となる。

時-①とき。㋐月日のうつりゆきのくぎり。ときのきざみ。特に、六十分きざみのとき。㋑そのとき。㋒おり。しおどき。②ときどき。ときに。【解字】形声。「日」+音符「寺」(=手足を働かせて仕事をする。進行する)。日のうつりゆきの意。ここの「時」は「時機」で、㋒の意味。

制-①ほどよく整える。(芸術作品を)つくる。②おさえつける。おしとどめる。支配下におく。③標準をととのえる。さだめ。㋐とりきめる。きまり。おきて。㋑天子の命令。みことのり。【解字】会意。「」(=小枝のある木)+「刀」。むだな小枝を切って樹形を整える意。

順逆-順序が正しいことと逆であること。道理にかなうこととかなわないこと。恭順であることと反逆すること。


大きく二つに分けて解釈を試みていく。

【1つ目の解釈】

 「陰陽」の意味は現在「明暗」とする説が主流であり、『孫子兵法』の原文が存在したと思われる当時の時代に近い『詩経』や『春秋左氏伝』に「陰陽」の意味が、「明暗」であったことからも本来は「明暗」の意味でよいだろうと思われる。
しかし『竹簡孫子』においては「陰陽」の意味は別になる。『竹簡孫子』において「陰陽」の意味を考えた場合、後に「順逆兵勝也」の文が存在するため、「相反する二つの気の消長」と解釈したほうが妥当であるからである。また「陰陽」が「寒暑」を生んだことから、「陰陽」が「寒暑」よりも先に記述されていることは理解できる。同様に「時制」においても、「寒暑」が「時制」を生んだという解釈でよいと思う。
 
 各注釈書の「時制」の注をみてみれば、「四季の巡りの規則性」「時の変化についての法則性」等が多い。孫子兵法の原文も「時制」とはおそらくその意味であったろうと思われる。しかしながら、『竹簡孫子』においては「時制」の意は別のものとなる。「四季」は「陰陽」に含まれるためこの意味にはならない(春に対しての秋、夏に対しての冬といった二気の消長によるため)。よってここでの「時制」の意味は「時機をほどよく整える→好機を待つ(準備万端にし、自軍の利益となるタイミングを捉える)」の意となる。しかしながら、ただ黙って待つというわけではなく、はかりごと(順逆の対応)を実行し、敵の思いもよらないところに敵を導くなどの攻撃をおこなうために、積極的に待つということであり、つまりは、自軍の有利となるようにするということである。
 
 さてここで 「時制」の意味についてもう一度考えてみる。孫武が孫子兵法を著した当時にこの文が存在していたと仮定した場合、時の移り変わりを表わす「四季」などの意味と、(竹簡孫子においては「の時([「とき」または「これ」]を制する也」となる。)またもう一つの意味が考えられる。この場合、「時制なり」を「時を制するなり」と読むことで、「時」が、特にあまり意味をもたないことになる可能性がでてくる。「論語」にでてくる有名な文で「学びて時(とき)に之を習う。」がある。この場合の「時」が最も具体例としてわかりやすいものであるが、この「時」もあまり意味をもたない。貝塚茂樹氏の説をとりあげ、(貝塚茂樹訳注 「論語」(中公文庫)に詳しい。)この場合の「時」を「これを」と訳してみると、「天とは陰陽・寒暑のこれを制するなり。」となる。この場合、「天とは明暗と寒暖をおさめることである。(自由自在に自軍の有利となるように利用する。)」となる。

 『竹簡孫子』の解釈として、当然「寒暑」も「陰陽」に含まれるが、当時、兵は寒暑にもっとも左右されていたと考えられるので、あえて記したものと理解できる。『竹簡孫子』において、ここの「寒暑」の意は「寒い暑いの温度」の意ではなく、「冬夏に戦争をする」となり、よって「冬夏に戦争をするには困難を伴うため慎重に好機を待たねばならない」の意となる。また、天のことであれば「晴天」と「雨天」「乾湿」などが記述されていて当然のように思われるが、ここではそのようには記されていない。考えられるのは「陰陽」にその意が含まれているということである。

 「順逆にして兵は勝つなり」は、各注釈書では「天に従い・逆らうことによる勝利。」とあるが、ここでの意味は計篇の「兵は詭道なり~此れ兵家の勝にして、先には伝う可からざるなり。」までの文にあらわされている、「敵の態勢に順逆をもって対処し、(つまり敵の無防備の所、または敵が思いもよらない所を攻めて)戦いに勝つ」の意である。兵家の勝は「其の無備を攻め、其の不意に出づ」して得るのであり、具体的には「故に能なるも之れに不能を視し~親にして之れを離す。」等して敵の状況に順逆の対応をおこなっていくことである。つまり、「順逆」とは、戦の駆け引き、いわゆる無限の応変のことであり、これを以て兵は勝つということである。そして、「順逆」とは、「陰陽」の範疇であり、「天」に属するものであるからここに明記されたと考えられる。しかし、今文孫子には「順逆兵勝也」の文が存在しない。これは「天」の意味を「天候などの自然条件」と解する者が増えたため除外されたものか、あるいは『竹簡孫子』は一部の者のみの間にしか日の目をみることのできないものであったのかのどちらかであろう。『竹簡孫子』は『孫子兵法』の原文に、後世手が加えられたものであり(「順逆兵勝也」の文)、その時代の考えが反映されていると考えられる。


【2つ目の解釈】

 盛唐期の詩人で詩聖と言われた杜甫が詠んだ夔州での懐旧詩「往在」に、「主将暁逆順…。」、とあり「主な武将たちに順逆の大義をさとらせ、」と訳せる文がある。『孫子』の「順逆」がこの意味であれば、「順逆」は「大義」という意味となる。兵に順逆の大義をさとらせることで、国家は統一を実現し、君・臣(民や兵)の上下心を一つにできる、ということである。「順逆」の「大義」は前々から、戦争には「大義名分」が必要なのに、孫子は「大義名分」を軽んじている、という批評が注釈者の間であった。しかし、戦争の大綱である「五事」のひとつに記載されている、となれば、その謗(そし)りは免れるであろう。

 「順逆」を「大義」と解するこの解釈は、非常に魅力的であるが、問題点がいくつか出てくる。1つ目は、上の「陰陽・寒暑・時制なり。」の文とはどうつながるのか。2つ目は「順逆兵勝也。」の文と、五事の一つである「天」とはどうつながるのか。3つ目は、「順逆」が「大義」という意味であれば、「順逆兵勝也。」の文は、「道」の項目に入っているほうが、適当といえるのではないのか、と言った点である。
 これらの問題点を克服し、「順逆」は「大義」の意味で正しいとするには、ハードルをいくつか越えなければならない。
 まず、この文の解釈の方法は2通りある。1つ目は、「陰陽寒暑時制也。」の文と、「順逆兵勝也。」の文を、同じ文調の言葉として解釈するということ。つまり、「陰陽・寒暑・時制なり。」、「順逆・兵勝なり。」と、各々単語として解する、というのが一つ。もう一つは、「陰陽・寒暑の時を制するなり。」と、「順逆にして兵は勝つなり。」のように、単語の羅列としてではない解釈の、合せて2つである。

 それではまず、一つ目の、「単語の羅列」としての解釈を試みていく。まず、「順逆」と、「兵勝」の単語は、『孫子』編纂当時、疑うべくもなく、「道」よりも「天」との係わりのほうが深いと考えられていたものであるから、「天」に属し、上下心を一つにさせる「道」とは、「人、すなわち統治者」が行うものであるから「道」には属さない、と解釈していく。もう一つの「兵勝」も天から与えられるもの、と解釈する。これには、虚実篇の「兵は敵に因りて勝を制す。」文や、形篇の「勝つべからざるは己れに在るも、勝つべきは敵に在り。」の文からもわかるように、「勝利」は自分にはなく、敵からもたらされるものだ、といっているので、「天」から偶然の幸運によって与えられるものである、と解釈できる。又、古代中国では、戦争の前に、戦勝を祈る儀式が行われ、それは、神前で虎に扮する者が刀で討伐される、というものであった。神前で行なわれた神聖な儀式だったので、「天」とのつながりも深かったと、当時の人は理解していたとも推測できる。
 ここで「兵勝」の単語について述べてみたい。この「兵勝」は、果たして「天」の項目にどうしても必要なものなのか、ちょっと疑問に思われる。しかし、作戦篇にも「兵は勝つことを貴ぶ。」とあるように、この『孫子』は、戦争に勝つための兵書であるのだから、記さないわけにはいかないのだ、と考えることができる。そして、記すなら、当然「天」の項目しかなかった、ということであろう。
 ここでまた疑問点がでてくる。それは、「兵勝」は「道」の次点に置かれている「天」にあるが故に、では「道」とは、「戦争の勝利」よりも尊いものなのか、という疑問である。しかし、これはすぐ解決できる。これは『孟子』に、「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず。」の言葉があり、「勝つ」ための大前提として、上下(君臣)の心の一致がある、ということをいっている。よってつまり、「兵勝」よりも、「上下心を一致」させることが大事であり、それゆえに「道」は「天」よりも上位に置かれている、と解釈できる。

 今度は、「陰陽・寒暑の時を制するなり。」、「順逆にして兵は勝つなり。」というように、「単語の羅列ではない」とする解釈をしてみる。この場合、意訳すれば「(戦に勝つためには、)陰陽・寒暑の好機を逃さず、待つ(時をおさめる。)。また、大義を兵に理解させることで、戦争に勝つのである。」となる。こちらの解釈でも十分納得がいくものとして理解できる。


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○金谷孫子:時制也-竹簡本ではこの下に「順逆兵勝也」の五字がある。「順逆」は天に従うのと逆らうのとで、それによって勝負がきまること。 一 陰陽-明るさ暗さ、晴雨、乾湿などのこと。『国語』越語の注に「陰陽とは剛柔・晦朔[みそかとついたち。]・三光[日・月・星の称。]・盈縮[一杯になり、みちたりるのとちぢまる。]をいう。」とある。

○浅野孫子:陰陽-日かげと日なた、夜と昼、新月と満月、雨天と晴天などの区別をいう。ただし、「凡そ軍は高きを好み下きを悪み、陽を貴びて陰を賤しむ。(中略)丘陵・隄防には必ず其の陽に処る」(行軍篇)といった記述から明らかなように、『孫子』ではもっぱら日かげと日なたの意味で使用されている。 時制-時とは四時(春夏秋冬の四つの時節)のこと。時制は、四季が循環する規則性を指す。 順逆-天に順う行動と、天に逆らう行動。天に対する二通りの対処の仕方を指す。 兵勝-天への随順と背反との如何により決定される勝利。天の情況に従順であれば勝利し、反逆すれば敗北する。なお順逆と兵勝の語は従来のテキストにはなく、竹簡本にのみ存在する。

○天野孫子:天者陰陽寒暑時制也- 「陰陽」とは天候上の明暗を言う。晴天・昼・山の南面などは陽、雨天・夜、山の北面などは陰。行軍篇に「凡そ軍は高きを好みて下きを悪み、陽を貴んで陰を賤しむ」と。『新釈』は「昼は陽、夜は陰。夏は陽、冬は陰。晴天は陽、雨天は陰。山の南は陽、山の北は陰。河の北は陽、河の南は陰等。主として天体の運行に伴ふ陰と陽とをいふのである。孫子十三篇を通じて見るに、孫子の態度は極めて科学的であつて、神秘的宗教的な傾向は極めて少ない」と。一説に陰陽家の術、すなわち天文・暦数・方位などで人事についての吉凶禍福をうらなうことを言うと。杜牧・張預などの説がそれである。「寒暑」とは気候の意。『諺義』は「寒暑は四時なり」と。一説に『新釈』は「夏は暑、冬は寒。昼は暑、夜は寒。南は暑、北は寒。晴天は暑、雨天は寒等である」と。この説によれば、陰陽と寒暑とはあまり変わりがない。「時制」は時の変化についてのさだめ。日月・四時などの移り変わりによって一日・一月・一年の間にも時の変化がある、その法則。一説に王晳は「時制とは時の利害に因りて宜しきを制するなり」と。また一説に『略解』は「天とは陰陽・寒暑の時制なり」と読み、「陰陽・寒暑の天時に随ひ其の宜しきを裁制す」と。

○大橋孫子:時制-時間

○武岡孫子:時制-四季

○佐野孫子:【校勘】順逆兵勝也-「竹簡孫子」には「時制也」の下に「順逆兵勝也」とある。この意は、「天に対する順逆二通りの対応、即ち、天候・気象・時の変化などの条件を順用すること、又は逆用することの両面について、その道理(禍を転じて福となすを本質とする易経の原理でもある)を十分に研究せよ。なぜならば、兵は斯る順逆の理に従いてこそ勝利をおさめるものであるから」と解される。孫子の基本的立場は「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」(「孟子」)の一句に集約されるように、人間的視点に基づく価値判断を天文や地理より上位においている。とは言え、戦争(人間)も自然の摂理(法則)から逃れることはできない。そこで孫子は第二の比較項目として自然界のめぐりを挙げるが、ここでの価値判断基準は、「自然的条件」を知ることと、その条件に対する「順逆の理」を知ることの二つに尽きることは自明の理である。故に、<第十篇>に云う「天を知り地を知れば、勝ち乃ち窮まらず」の立場と軌を一にしていて矛盾はない。【語釈】天者、陰陽・寒暑・時制也-「天」とは、ここでは自然(法則)という意味の天である。「陰陽」とは天候上の明暗を言う。晴天・昼・山の南面などは陽、雨天・夜・山の北面などは陰。「寒暑」とは気候の意。「時制」とは時の変化についての定め。日月・四時などの移り変わりによって一日・一月・一年の間にも時の変化がある、その法則。宋の王晳は「時の利害に因りて宜しきを制する」と。

○田所孫子:天とは、陰陽・寒暑等の天象に相応じてさからわず、その時々の都合のよいように取計って行くこと。

○重沢孫子:第二の”天”の内容は、すべて自然現象として理解しなければなりません。陰・陽はすなわち雨・晴、時制は春夏秋冬四時の実態、それに寒・暑の変化を加えた法則的な自然現象を無視してはならないことを述べたものです。当時における兵器の発達段階を考えるなら、戦争が自然条件に著しく制約され、それを無視した作戦が、敗北につながる危険をはらんでいるのは過去の事実が示しています。

○フランシス・ワン孫子:「時制」とは、日時・四季等の如く法則性を以て変化する一般的な天文現象、つまり天行変化の法則を言う。しかし、「天とは陰陽・寒暑の時制なり」と読み、天候の軍事に及ぼす制限、つまり季節等の関係による自然的拘束(時の制限)と解する者も少なくない。曹操は「天行に順い、陰陽・四時の制に因って誅む(征討の事を行う)。故に、司馬法に曰く、冬夏には師を興さず、と。民を兼愛する(平等に愛する)所以なり」と註する。「冬夏に師を興さず」は、支那に於ては王師の理想とせられた所であるが、当時にあっては、軍隊自身が行動に困難で、危険とする所であったのである。なお「天とは、陰陽・寒暑の時を制するなり」とする読み方もある。王晳は「時制とは、時の利害によって宜しきを制するなり」と註する。仏訳はこれをとる。

○守屋孫子:「天」とは、昼夜、晴雨、寒暑、季節などの時間的条件を指している。

○著者不明孫子:【陰陽】 「陰」と「陽」とは元来、暗と明、曇と晴などを表す。さらに、陰と陽との組み合わせやその変化によって、気候・天候その他の自然現象が巡り行くものと考えられた。五行の勢力の消長と結びつけた神秘的な解釈(張預の説など)もあるが、そういう要素は除外して理解するほうがよかろう。 【時制】 よい時期を利用する、または、その時に応じてうまく行動すること(賈林・王晳などの説)。そのほか諸注にいろいろな説明をしているが、要領を得ない。あるいは、単に時機というほどの意味(陰陽・寒暑・時制と三者並列している)なのかも知れない。兪樾『諸子平議補録』は、「時制」は時節であるとする。

○孫子国字解:『天とは、陰陽、寒暑、時制なり』 此の段は、前に云たる五事の内の、二曰天とあるは、如何様のことぞと其わけを説けり。天とは天の時なり。時とは、天のはこびなり。細かに云はば、古より今とはこびゆく上も時なり。一年十二月のはこびも時なり。一月三十日のはこびも時なり。一日十二時のはこびも時なり。天は古より今に至るまで、日夜朝暮はこびめぐるものゆへ、總じて天にかかりたることをば、皆天の時と云にてこもることなり。其天の時のことを、陰陽寒暑時制なりと云は、大綱を挙て云たるものなり。まづ陰陽と云は、日取、時取、方角の吉凶、年月の吉凶、十干[甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の総称。これを五行に配し、おのおの陽すなわち兄(え)と、陰すなわち弟(と)をあてて甲きのえ・乙きのと・丙ひのえ・丁ひのとなどと訓ずる。ふつう、十干と十二支とは組み合わせて用いられ、干支かんしを「えと」と称するに至った。]十二支、五運[①五行[中国古来の哲理にいう、天地の間に循環流行して停息しない木・火・土・金・水の五つの元気。万物組成の元素とする。]の運行。②暦で、火・水・木・金・土星の称。]、七曜、九曜[九曜星(日・月・火・水・木・金・土の七曜星に羅(らご)・計都(けいと)の二星を加えた称。もと仏経から出て、陰陽家ではこれを人の生年に配当して、その運命・吉凶を判断する。)の略。九曜紋(紋所の名。中央に大きな円を置き、周囲に8個の小円を配したもの。ほかに、同じ大きさの円を上下左右に3個ずつ接して並べる並九曜などがある。)の略。]のくり様、雲気煙気の見様、總じて軍配[軍陣の配置・進退などの指揮。]の家に云ひ習はす類は、皆陰陽五行の相生相剋[木から火を、火から土を、土から金を、金から水を、水から木を生じるを相生(そうしょう)という。また、木は土に、土は水に、水は火に、火は金に、金は木に剋(か)つのを相剋(そうこく)という]をもとにして、くみ立たることゆへ、是を陰陽と云なり。智の明らかなる人は、吾心吾身より、家国天下の上までも、明かに其道理事勢に通達して、毫髪[①細い毛。②転じて、わずかなこと。いささかなこと。毫末。]も疑なきゆへ、事を執行ふ上に於ても、其疑なき心より執行ふによりて、迷ひ惑はず、危ぶみ畏れずして、よく其事を成就すれども、愚かなる人は、道理事勢に暗くして、事々の上に迷ひ惑ひ、危ぶみ畏るる心ありて、決定して其事を執行ひ、成就することあたはぬゆへ、古の聖人この陰陽の術を教へて、吉日、吉方、吉相を以て、其志をいさませ、危まず畏れず心を決定して、其事を成就せしむ。是愚民の心を決定すべき為の教にて、実には其用なきゆへ、智者の用る所に非ず。故に古より賢王名将の、此陰陽の術を用ひ玉へることさらになし。されども古より愚かなる人の用ひ習はしたることにて、人皆信ずる者も多ければ、兵家には直に是を取用ひて、愚を使ふの術とするゆへ、孫子もここに挙げたるなり。是に泥むをよしとするには非ず。古呉越の戦の時、呉王夫差越國を攻んとせし時、歳星と云星、越の分野を守れり。分野と云は天の二十八宿[①黄道に沿って、天球を28に区分し、星宿(星座の意)の所在を明瞭にしたもの。太陰(月つき)はおよそ1日に1宿ずつ運行する。中国では蒼竜(東)・玄武(北)・白虎(西)・朱雀(南)の4宮に分け、さらに各宮を七分した。東は角すぼし・亢あみぼし・氏とも・房そい・心なかご・尾あしたれ・箕み、北は斗ひきつ・牛いなみ・女うるき・虚とみて・危うみやめ・室はつい・壁なまめ、西は奎とかき・婁たたら・胃えきえ・昴すばる・畢あめふり・觜とろき・参からすき、南は井ちちり・鬼たまほめ・柳ぬりこ・星ほとほり・張ちりこ・翼たすき・軫みつかけ。 ② ①のうち、牛宿を除いた二十七宿を月日にあてて吉凶を占う法。宿曜道の系統の選日。]を、大唐四百餘州に配当して、此星は何と云国に感通[①自分の思いが他に通じること。②感覚で分かること。ここでは何という国にこの星が通じているのかという意味]すると云ふ習ひなり。歳星は五星[[左伝[襄公28年、注]]中国で古代から知られている五惑星、すなわち歳星(木星)・熒惑(けいごく)(火星)・鎮星(土星)・太白(金星)・辰星(水星)の総称。]の内の一つにて、徳を司る星なり。守ると云は常の行道にはづれて、久く其分野にとどまることなり。歳星は徳を司る星ゆへ、徳ある国の分野を守るわけなれば、越の国は攻ましきことなるに、呉王夫差是を攻てほろびたるとなり。又十六国の時分に、歳星と鎭星は福を司りて、福徳備はるわけなるに、秦の国より是を伐て、却て燕の国にほろぼされたるなり。是みな天の時を考へずして、軍に負をとりしためしなり。又周の武王の紂王を伐玉ふ時、うらかた悪しかりければ[占い(占形-うらないの結果現れたかたち。亀卜(かめのうら)・太占(ふとまに)に現れた縦横の亀裂。)の結果が悪かったので]、太公望龜を焚きすて、蓍[草の名。めどぎ。めどはぎ。めどはぎの茎で作った、占いに用いる道具。筮竹(ぜいちく)。]をおりすて、枯たる草朽たる骨に、何の生靈ありて吉凶を知んとて、遂に紂を亡し玉へり。宋の高祖、劉裕[南朝の宋の初代皇帝。武帝。東晋の軍人となり、軍閥の桓玄を討ち、南燕・後秦を滅ぼす。土断(律令時代、課役を忌避して浮浪する者を、現地で戸籍・計帳に登録し、課役を徴収したこと。中国では東晋などで行われた。)を実施、豪族をおさえ、恭帝を廃して即位。(在位420~422)(363~422)]の慕容[(Bayan)鮮卑三姓の一つ。4~5世紀、遼西・遼東(現、遼寧省)から華北に力を及ぼし、前燕・後燕・西燕・南燕などを建国。]超を征伐ありし時、往亡日[暦注の凶日の一つ。立春から7日目など、1年に12日あり、元服・出陣・旅行・移転などを忌むという日。]にあたれり。往て亡る日なれば、今日の出陣ととまり玉へと、諸将諫ければ、高祖の仰に、「我往て彼亡るなり」とて、搆はず攻て、遂に是を退治す。是みな天の時にかまはずして、勝利をえたるためしなり。用るも破るも、皆愚を使ふの術と知べし。又寒暑と云は、冬の寒気、夏の暑気なり。是は天の時の内にて、実に其用あることを云んため、此二つを挙て、其外をも知らするなり。春夏秋冬、日夜朝暮、飢饉豊年、旱洪水、大風大雨、大雷大雪、潮の満干の類、みな天の時の内にて、実に其用あることなり。たとへば豊作の時軍をおこせば、民の害となり、終に米殻少なくなりて、国の弱みとなる類、又極寒極暑の時は、士卒寒暑に疲れて、働きはかばかしからず、病気を生ずる類、又冬は北国を征伐せず、夏は南国を征伐せずと云ことあり。漢の高祖この誠を知らず、雪中に匈奴と云ふ北国の夷を伐玉へり。匈奴は北国の極寒になれたる者ゆへ、さらにひるむことなし。味方の軍兵は雪になやみて、指のもげたる者、十人の内には二三人ほどづつありければ、遂に白登城と云ふ城にかこまれて、いたく攻られ、難儀に及び玉へり。漢の世四百年が間は、匈奴の勢強くして、代々この患ひ絶ざりしも、高祖の「冬は北を征たず」と云ことを知玉はぬより起れり。又後漢の世の名将に、伏波将軍馬援と云人も、此理に暗くして、極暑の時嶺南と云處の夷を攻たり。嶺南の地は、四季共に雷鳴て、雪と云もの降らず、常に四五月の時分の様にて、殊に瘴気[熱病を起こさせる山川の悪気。]と云て濕熱の気盛んなる国なれば、中国の人、この国にゆけば、必かの瘴気にあたり煩ふなり。馬援が軍兵も、十に八九は疫癘[疫病。流行病。伝染病。]を煩ひて、軍に利なかりしとなり。但し日本の内は、かやうの熱國なければ、「夏は南を征たず」と云ことは、日本にはいらぬことなり。又突厥と云夷は弓を上手に射て、是をせむるに便りを得ざりしに、唐の太宗は長雨の時分、弓の膠とけ、矢の羽ぬれて、弓に利なき時節を伺ひ、是を攻て勝利を得玉へり。又大風大雨には敵多くは油断するものなり。風上より火を放ち、雷の威に乗り、日月を背に負ふて、剣戟の光を添へ、飢饉洪水の弊にのり、夜臥たる所を伺ひ、または節句歳の暮など、人界のつとめずして叶はぬ用事を務るとて士卒のうち散る時節など、細に考へば、いくらもあるべきことなり。此様なる類をば、孫子は寒暑の二字にこめて云たるなり。時制と云は、時とは上の文の陰陽寒暑の時なり。制とはそれを取りはからふことなり。陰陽寒暑のとりはからひ様のよしあしは、たとへば吉日吉方を用ひて、士卒のいさむことあり。破て士卒の勇むことあり。飢饉の弊にのらんとすとも、其手當をよくしたる国をば、飢饉なればとて侮るべからず。風雨にも油断せざる敵あり。寒暑にもひるまぬ敵あり。此様なる類は、みな時のとりはからひのよきとあしきとなり。故にこの陰陽寒暑の時制を以て、敵味方をはかりたくらぶることを、五事の内の天とは云なり。此陰陽と云ふを、張預が説には、陰陽の道理と見たり。それは三才[①易経[説卦]](「才」は働き)天と地と人。②宇宙間の万物。③観相上、額(天)・鼻(人)・顎(地)の称。]に通ずる陰陽にて、天の時に限らぬわけなれば、誤の説なり。又陰と陽と、寒と暑と、時と制と、六につけて説たる説あり。是又くたぐだしき[物の形が崩れたさま。]説なり。用べからず。

○諺義:『天とは、陰陽寒暑時制也』 陰陽は陰陽家の説、天官[①周の六官(りくかん)の一つ。宮廷の運営に当たり、また国政を総轄した。②唐代以降、吏部の雅称。]・時日・災祥・妖瑞・時運・盛衰を考ふる也。寒暑は四時也、時制は時を考へて事を制するなり。云ふ心は、道ありと云へども、時を失ふときは其の和全からず、ゆゑに天を第二とす。天は乃ち時也、陰陽の盛衰、時運の興敗、善悪災祥、是れを陰陽と云ふ。能く陰陽の理をしる時は、天の時に通ず。つねの陰陽師卜占も陰陽の一也。寒暑は猶ほ以て諸卒のつもり考に入ること也。寒暑といへば、四時を含むこと也。中にも極寒極暑について兵の用捨[①用いることと捨てること。取捨。転じて、善悪などの判断を下すこと。②(「容赦」とも書く)ひかえめにすること。遠慮すること。]あること也。司馬法に云はく、冬夏は師を興さずと、呉子の所謂、疾風大寒盛夏炎熱之類也。時はすべてものに時あり、時をうしなふときは其の勢を得ざる也。制は宜かごとくこれをきり(切)たち(裁)いたして、其ののりにかなはしむること也。しかれば陰陽寒暑に定法ありといへども、其の時を考へて、宜ごとく用捨いたす心也。制の一字、天の字を用ふるの極法也。陰陽と云ふに諸説多し。講義には弧虚向背之術也と云ひ、武経通鑑には陰晦[曇って暗いこと]陽明の義也と云ひ、陰晦に兵を行らば則利あらず、陽明に兵を行らば則利ありと。直解に云はく、明晦生殺之類の如し。凡そ星雲風雨之變、以て兵象之勝負を占撿す可き者也。孟氏(唐の人なり。十家註の一人、その他不明)云ふ、陰陽は剛柔盈縮[盈-いっぱいになる。みちたりる。]也。陰を用ふれば則沉虚固静、陽を用ふれば則軽捷猛厲、後は則陰を用ひ、先は則陽を用ふ。陰は蔽[覆い隠す。覆われる。]無き也。陽は察無き也。陰陽之象は定形無し云々。又張預が説に、尉繚子の天官篇を以て云ふときは、陰陽は天官時日に非ず、兵に陰陽有る也。されば太白陰経(唐の李筌著。兵学書)に、天無陰陽篇有り。しかれば孫子の所謂陰陽は、天官の説にあらざるべしと云へり。又杜牧の註に、陰陽向背は定めて信ずるに足らず。孫子之れを敍するは何ぞ也。答へて云はく、夫れ暴君昏主[昏-道理に暗い]は或は一瑤一馬[瑤-美しい玉]の為めに、則必ず人を殘ひ志を逞しくす。天道鬼神を以てするに非ずんば、誰か能く制止せん。故に孫子之れを敍す。蓋し深旨有り。案ずるに、太公云はく、天道鬼神は之れを視れども見えず、之れを聴けども聞えず。故に智者は則とせず。愚者は之れに拘はると。尉繚子云はく、刑以て之れを伐ち、徳以て之れを守る。所謂天官時日陰陽向背に非る也。黄帝は人事而巳と。李筌云はく、天に陰陽無しと。又云はく、天の時は乃ち水旱蝗雹荒亂之天の時にして、弧虚向背之天の時に非る也。此の如く云ふ時は天官陰陽の説用ふるに足らざるが如き也。此の説を用ふる時は天のみにあらず、地亦人の用にしたがふ。しからば孫子は只だ人事のみを論ぜずして、何ぞ天と云ひ地と云へるや。是れ等の説皆用捨にかかはりてこれを論ず、常論に非る也。孫子の所謂五事は、天下古今相通じて用ふるところの常論也。このゆゑに末に時制の字を加へ、之れを讀むものに心をつけたる也。

○孫子評註:天の字、火攻篇に其の一斑(部分。)を見る。陰陽(中国の易学で、天地間の万物を作り出す二つの相反する気をいう。日時・時節・方角の吉凶・年月の吉凶をはじめ、雲気・煙気の見方にいたるまで陰陽五行の説が兵法家に用いられた。)は其の虚なるもの、寒暑は其の實なるもの、時制とは、時中(時に従ってよろしきを得ること。臨機応変。)・時措(時に応じて適切にとりはからうこと。)・時習(機会あるたびに学ぶこと。)の字の例の如し。時に隨ひて宜しきを制する(とりはからう。)なり。先師云はく、「制の一字は天を用ふるの極法なり」と。

○曹公:天に順い誅め[誅-うちほろぼす]行う。陰陽四時の制に因る。故に司馬法に曰く、冬夏に師を興さず。民を兼愛する所以なり。

○孟氏:兵とは天運[自然のまわりあわせ]を法る[法-おきて。規則。]なり。陰陽とは剛柔盈縮なり。陰を用うれば則沈虚固静す。陽を用うれば則軽捷猛厲す。後は則陰を用ひ、先は則陽を用ふ。陰は蔽無きなり。陽は察無きなり。陰陽之象は定形無し。故に兵は天に法る。天は寒暑有り。生殺有り。天則殺に應じて物を制す。兵則機に應じて形を制す。故に天と曰うなり。

○杜佑:天に順い誅め行うを謂う。陰陽四時剛柔の制に因る。故に司馬法に曰く、冬夏は師を興さず。吾人を愛することを兼ねる所以なり。若し細雨軍を沐せば、機に臨みて必捷[捷-①すばやい。はやい。時間がかからない。②いくさに勝つ。かちいくさ。]有り。回風[つむじ風。旋風。]相觸れば、道還して功無し。雲の羣羊の類は必走の道なり。気の驚鹿の如きは、必敗の勢なり。気雲壘に出づりて、赤[大いに燃える火の色]黒ずんでいる]軍に臨むるは、皆敗の兆しなり。烟の若くして烟に非ずれば、此れ慶雲にして、必ず勝つ。霧の若くして霧に非ずれば、是泣軍なり。必ず敗る。是知風雲の占なり。其の来ること久しきなり。

○李筌:天に應じ、人に順い、時に因りて敵を制す。

○杜牧:陰陽とは五行刑徳向背の類是なり。今五緯の行い止むに最たるは據りて驗す可し。巫咸・甘氏・石氏・唐蒙・史墨・梓愼・裨竈の徒・皆著述有り。咸祕奥と稱し、其の指歸[(指し示すところに帰する意)結論として従うべきこと。模範。]を察するに、皆人事に本づくなり。準星經に曰く、歳星在る所之分あれば、攻める可からず。之を攻むれば反して其の殃を受くなり。左傳、昭の三十二年、夏、呉は越を伐つ。始めて師を越に用う。史墨に曰く、四十年及ばずして、越の其れ呉の有るや。越歳を得るに、呉之を伐つ。必ず其の凶を受く。註して曰く存亡の數三紀[一紀は十二支ひとまわり分。よって三紀は三十六年]に過ぎず。歳星三周三十六歳。故に四十年及ばざるを曰うなり。此の年歳[(中国で、周では「年」、夏では「歳」といった)①とし。②穀物。年穀。③年齢。]星紀[星紀-陰暦11月の異称。]に在らば、星紀に呉に分あるなり。歳星在る所、其の国福有り。呉先んじて兵を用う。故に其の殃を受く。哀の二十二年、越は呉を滅ぼす。此れに至りて三十八歳なり。李淳風曰く天下秦を誅す。歳星東井に聚まる。秦の政暴虐にして、歳星仁和の理を失う。歳星恭肅[うやまいつつしむ。]の道に違えば、諫を拒み讒を信ず。是故に胡亥滅亡に終わる。復曰く、歳星清明潤澤在る所の国分ありて大吉なり。君令時に合えば、則歳星光嘉なり。年の豊は人を安ずる。君の暴虐を尚び、人をして便らざら令むるは、則歳星色芒角にして怒れば則兵起こる。此の由に、之を言う。歳星在る所、或いは福徳有り。或いは災祥有り。豈皆人事に本ならずや。夫れ呉越の君、徳均勢にして敵して、闔閭師を興す。呑みて滅ぼさんと志すも、民の拯いと為るに非ず。故に歳星越を福して呉を禍す。秦の残酷は、天下之を誅す。上は天意に合う。故に歳星秦を禍して漢を祚す。熒りて惑わすは罰星なり。宋の景公一善言うを出づ。熒り惑わすもの三舎に移りて二十七年に延びる。此れを以て之を推すに、歳は善星と為るも、無道は福ならず。火は罰星と為るも、有徳を罰せず。此の二者を挙げるに、其の他知る可し。況や(まして)臨む所之に分かつ。其の政化の善悪に隨う。各其の本色を變じ、芒角の大小は、隨いて禍福と為す。各時に隨いてこれを占う。淳風曰く、夫れ形器は下を著す。精象は上に係る。近く之の身を取る。耳目は肝腎の用を為す。鼻口実に心腹し資する所、彼此影響し、豈然らず歟。易に曰く、天在りて象るを成し、地在りて形を成すは、変化を見すなり。蓋し人事に本づくにして已むなり。刑徳向背の説、尤も信に足らず。夫れ刑徳天官の陳、水に背して陳するものは絶紀を為す。山の坂に向かい陳するものは廢軍を為す。武王紂を伐つ。清水に背して山の坂に向かいて陳す。二萬二千五百人を以て紂の億萬の衆を撃つ。今目覩[(「睹」は見る意)実際に見ること。目撃。]す可きものは、国家元和自ずから已後、今三十年の閒、凡そ四趙寇を伐つ。昭義軍に加え數道の衆を以て常に十萬を號し、之臨城縣を圍む。其の南を攻め拔かず。其の北を攻めず拔かず。其の東を攻め拔かず。其の西を攻め拔かず。其れ四度之を圍み、通して十歳有り。十歳の内、東西南北、豈刑徳向背、王相[相-(内面の本質が)外面にあらわれたかたち。すがた。ありさま。]吉辰[よい時。めでたい日。きちにち。]有らんや。其の拔かざるは、豈城堅にして池深く、糧多くして人一なるを曰ざらんや[どうして~曰わないであろうか、曰うのである。]。復往事[過去の事柄]を以て之を驗すに、秦累世戦いて勝つ。竟に六國を滅ぼす。豈天道二百年間、常に乾方[いぬい。西北の方角]に在りて、福徳常に鶉首に居らざらんや。豈穆公已還りて、身を卑し士に趨き、耕戦に務め、法令明らかにして、之に致るを曰わざらんや。故に梁の恵王尉繚子に問いて曰く、黄帝刑徳有り。以て百戦百勝す可し。其れ之有らんや[どうして之有るだろうか、有りはしない。]。尉繚子曰く、然ず。黄帝所謂刑徳とは、刑を以て之を伐ち、徳を以て之を守る。世の所謂刑徳に非ざるなり。夫れ賢を擧げて能を用いる者は、時日をならずして利なり。法を明らかにし令を審らかにする者は、卜筮[卜法と筮法。亀甲を焼いてうらなうことと、筮竹(ぜいちく)を用いてうらなうこと。うらない。]せずして吉なり。功を貴び勞を養う者は、禱祠せずして福なり。周の武王紂を伐つ。師汜水の共頭山に次ぎ、風雨疾雷、鼓旗毀れ折れる。王の驂乗[貴人の車に陪乗すること。また、その人。]惶懼[おそれいること。恐懼。]して死なんと欲す。太公曰く、夫れ兵を用いる者は、天道に順いて未だ必ず吉ならず。之に逆らいて未だ必ず凶ならず。若し人事を失わば、則三軍敗れて亡びるなり。鬼神之を視るも見ず。之を聴くも聞かず。故に智者は法らず。愚者は之に拘わる。若し乃ち賢を好みて能に任せ、事を挙げて時を得れば、此れ時日を看ずして事を利するなり。卜筮假にせずして事は吉なり。禱祠を待たずして福は従う。遂に命之驅け前進す。周公曰く、今時太歳[暦の八将神の一神。木星の精で、その年の十二支と同じ方角に遊行し、この神の在る方角は吉とされる。ただしこの方角に向かって木を伐るのを忌むという。日本古来の穀神である歳の神とは別。大歳。太歳。]に逆らい、龜灼くは凶を言う。卜筮吉とせず。星凶にして災い為す。請う師を還さん。太公怒りて曰く、今紂此れ干りて剖かる。箕子[殷の貴族。名は胥余(しょよ)。伝説では、紂王(ちゅうおう)の暴虐を諫めたが用いられず、殷が滅ぶと朝鮮に入り、朝鮮王として人民教化に尽くしたとされる]囚われ、飛廉[①中国で、想像上の鳥。頭は雀のようで角を戴き、身は鹿のようで豹文があり、尾は蛇のようであるという。②中国で、風をつかさどるという神。風伯。]を以て政を為す。之を伐つことに何の不可有らん。[何の不可もないのだ。]枯草朽骨、安くんぞ知る可けんや[どうして知ることができようか]。乃ち龜を焚きて蓍を折る。衆を率いて先んじて渉り、武王之に従う。遂に紂を滅す。宋の高祖慕容超に於いて廣く固め圍みて、将に城を攻めんとす。諸将諌めて曰く、今往亡の日[往亡日-暦注の凶日の一つ。]にして、兵家の忌む所なり。高祖曰く我往きて彼亡ぶ。吉孰れぞ大なれば、乃ち命悉く登る。遂に廣く固めて克つ。後魏太祖武帝後燕慕容鱗を討つ。甲子晦日に軍を進める。太史令鼂崇奏して曰く、昔紂甲子の日を以て亡ぶ。帝曰く、周武豈甲子の日を以て興さざらんや。崇以て對え無し。遂に戦いて之を破る。後魏太武帝夏赫連昌の統萬城に征き、師の城下に次ぎ、昌に鼓を噪がせ前にすれば、會ち風雨有りて賊後に従い来る。太史進みて曰く、天人を助けず、将士飢渇す。願わくは且つ之を避けよ。崔浩曰く、千里に勝を制し、一日豈變易を得て、風道人に在らんや。豈常有らんや。待ちて之に従いて、昌に軍大敗す。或るひと曰く、此の如きものは、陰陽向背、定めて信に足らず。孫子之を敍して何ぞや。答えて曰く、夫れ暴君昏主、或いは一瑤一馬を為せば、則必ず人を殘い志を逞しくす。天道鬼神を以てするに非ず。誰か能く制止せん。故に孫子之を敍するに、蓋し深旨有り。寒暑時の気[時の気-はやりやまい。えやみ。疫病。]、其の行くを止めるに節制[度をこさないようにほどよくすること。ひかえめにすること。]するなり。周瑜孫権の為に曹公四敗を數う。一に曰く、今盛寒なり。馬藁草無くして、中国の士衆驅ける。遠くして江湖を渉るも、水土[水と陸地。土地。転じて、その土地の自然の環境。風土。]を習わず。必ず疫病を生む。此れ兵を用いるの忌なり。寒暑同じにして天の時に歸す。故に聯ねて以て之を敍するなり。

○賈林:時制を讀み時気を為す。其の善なる時に従い、其の気候の利を占うを謂うなり。

○梅堯臣:兵必ず天道に參す。気候に順い、時を以て之を制す。所謂制なり。司馬法に曰く、冬夏に師を興さず。民を兼愛する所以なり、と。

○王晳:陰陽を謂うは天道五行四時風雲気象を總するなり。善なるは之を消息し、以て軍勝の助けとす。然るに異人の特に其の訣[秘伝。奥義]を授けるに非ざれば、則未だ由あらずなり。黄石書を張良に授けるは乃ち太公の兵法の若し是なり。意とする者は、豈天機神密なるは常人の知り得る所に非ざらんや。其れ諸十數家紛紜[物事がいりみだれるさま。もめごと。ごたごた。紛擾(ふんじょう)。]し、抑未だ以て審らかに取るに足らざるなり。寒暑は呉起の疾風大寒盛夏炎熱を云うが若きの類なり。時制は時の利害に因りて宜しきを制するなり。范蠡云わく、天は時を作らず。人は客を為さ弗是なり。

○張預:夫れ陰陽は弧虚向背之を謂うなり。蓋し兵は自ずから陰陽有るのみ。范蠡曰く、後なれば則陰を用い、先なれば則陽を用う。敵陽節を盡くせば、吾陰節盈ちて之を奪う。又云わく、右を設けて牝と為し、左を益して牡と為す。早晏以て天道に順う。李衛公の解に曰く、左右とは人の陰陽なり。早晏とは天の陰陽なり。奇正とは天人相變の陰陽なり。此れ皆言うは兵自ずから陰陽剛柔の用有り。天官日時の陰陽に非ざるなり。今尉繚子天官の篇を觀れば、則義最も明らかなり。太白陰経亦天は陰陽無しの篇有り。皆著して巻首と為す。以て世人の惑を決するを欲するなり。太公曰く、聖人は後世の亂を止どむるを欲するなり。故に為に譎書を作る。以て勝は天道に寄り、兵に益無しなり。是亦然りなり。唐太宗亦曰く凶器は兵に甚だ無し。兵の行くは苟も人事に便る。豈避忌を以て疑いを為さんや。寒暑とは冬夏に師を興すを謂うなり。漢匈奴を征す。士の多くは指墮ちる。馬援蠻を征す。卒の多くは疫死す。皆冬夏に師を興すの故なり。時制とは天時に順いて征討[服従しない者を攻め討つこと。征伐。]を制するを謂うなり。太白陰経天時に言う者は乃ち水旱蝗雹荒亂の天時なり。弧虚向背の天時に非ざるなり。


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天、即ち勝つための法則とは、敵のあらゆる二気の消長を捉え、準備を怠りなく行い自軍の有利となる好機を待つということと、冬夏に戦争をするには困難を伴うため慎重に好機を待つということである。戦いに勝つには、敵の態勢に順逆(順序が正しいことと逆であること。道理にかなうこととかなわないこと。恭順であることと反逆すること。)をもって対処する(つまり結果として敵の無防備の所、または敵が思いもよらない所を攻める)のである。


○浅野孫子:二の天とは、日かげと日なた、気温の寒い暑い、四季の推移のさだめや、天に対する順逆二通りの対応、及び天への順応がもたらす勝利などのことである。

○金谷孫子:[第二の]天とは、陰陽や気温や時節[などの自然界のめぐり]のことである。

○天野孫子:第二の天とは、天候上の明暗と、気候と、時の変化についての法則とを言う。

○武岡孫子:天とは天候・気象条件(明暗の度・寒暑・天文現象)に応じてとられる作戦指導の変化。

○大橋孫子:天とは自然現象。

○フランシス・ワン孫子:天候・気象条件によって、自然(天地の運行)の人間に及ぼす力、即ち、冬の寒さや夏の暑さなどの影響を考慮して、夫々の季節に応じてとられる彼我の作戦指導の変化を知るのである。

○著者不明孫子:天とは、陰陽や寒暑のぐあいなど、よい時期を選ぶことである。

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2012-02-04 (土) | 編集 |
孫子 兵法 大研究!

本文注釈:孫子 兵法 大研究!

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『故に之れと死す可く、之れと生く可くして、民詭わざるなり。』:本文注釈

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国民の意志を君主と同じ意志にするには、生死を共にすべきだとここで言っている。君主と国民が一体となっている感じを、国民の心に刻みつければ、勝利のための盤石な土台ができあがったも同然だということである。これは頭ではわかっているが、殆どの者はできない類の問題である。「生死を共にする」ということは、文字通り「命をかける」という意味でもあるが、ここで孫武が言いたいのは、国民(兵士)をいたわり、気配りをし手を掛けよということであろう。これを大げさに言うと、生死を共にせよ、となる。戦争で勝つために言っているのだから、大げさな表現くらいが丁度いい。そうすれば民は疑わないというのである。では民は何を疑わないのであろうか。それはここでは、「君主の戦争に対する方針・方策を疑わない」という意に解するのが妥当であろう。戦争に勝つには、戦争を起す前に民に疑念を抱かせぬ様生死を共にする決意を国民に伝え、苦楽を共にする覚悟を君主は持つよう、孫武は呉王闔閭に伝えたかったにちがいない。『論語』にも、「民信なくんば立たず。」とあり、また「君子信ぜられて後にその民を労す。」とある。


民-官位などの身分をもたぬ人。被治者。一般の人。たみ。【解字】目を針で刺した形を描いた象形文字。目をつぶされた奴隷の意。

詭-①いつわる。あざむく。こじつける。②あやしい。普通とちがっている。同義語:「奇」


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孫子の兵法:故に之れと死す可く、之れと生く可くして、民詭わざるなり:故可與之死、可與之生、民弗詭:町田三郎○町田孫子:『道とは民をして上と意を同じうし、これと死すべく、これと生くべくして、危わざらしむるなり。』
(1)宋本には「同意也、故可与之死」と「也故」の二字があって上下の文は切れているが、諸本にしたがってこの二字を除き、続けて読むことにした。
 (2)宋本では「死」「生」の上におのおの「以」の字があるが、諸本にしたがって除いた。
 (3)宋本では「畏危」とある。清の兪樾の説にしたがって「畏」の字を除いた。

孫子の兵法:故に之れと死す可く、之れと生く可くして、民詭わざるなり:故可與之死、可與之生、民弗詭:金谷治○金谷孫子:可以-竹簡本・武経本・桜田本には「以」の字がない『太平御覧』巻二百七十とも合う。
 不畏危-『通典』では「人不佹」。竹簡本は「民不詭」。魏武注に「危とは危疑なり。」とある。清の兪樾の説に従って「畏」の字を除くのがよい。

孫子の兵法:故に之れと死す可く、之れと生く可くして、民詭わざるなり:故可與之死、可與之生、民弗詭:守屋洋○守屋孫子:これがありさえすれば、国民は、いかなる危険も恐れず、君主と生死を共にする。

孫子の兵法:故に之れと死す可く、之れと生く可くして、民詭わざるなり:故可與之死、可與之生、民弗詭:大橋武夫○大橋孫子:畏危-不安

孫子の兵法:故に之れと死す可く、之れと生く可くして、民詭わざるなり:故可與之死、可與之生、民弗詭:佐野寿龍○佐野孫子:民弗詭也-前後の文意を通観すると、清の兪樾の説に従って「畏」の字を除き、民は「危疑」しないと解するのが適当である。一方、「竹簡孫子」には「民弗詭也」とあり、「民詭わざるなり」あるいは、「民詭わざるなり」または「民詭かざるなり」と解せられ兪樾説と合う。

○著者不明孫子:【可與之死】直訳すれば、いっしょに死ぬことができる。上が民とともに死ぬのか、民が上とともに死ぬのか、問題になりうるが、原文はそういう区別を意識せずに書かれていると思われる。
 【佹】疑う(『通典』の杜佑の注)。もとる(戻[もとる。そむく。道理にはずれる。]・払[はらいのける])の意もある。

孫子の兵法:故に之れと死す可く、之れと生く可くして、民詭わざるなり:故可與之死、可與之生、民弗詭:曹操孟徳:魏武帝註孫子:孫子十家註○曹公:之を道びくに教令を以て謂う。危とは危疑なり。

○孟氏:一に人を疑わずして作す。始終二つの志無きを謂うなり。一に人危まず作す。道とは之を道くに政令を以てし、之を斉うるに礼教を以てするを謂う。故に能く民の志を化服して、上下と同一なり。故に兵を用ふるの妙は権術を以て道と為す。大道[人のふみ行うべき正しい道。根本の道徳]廢れて法有り。法廢れて権[①他人を支配する力・資格。いきおい。②はかりの分銅。おもり。はかり。③かり。臨機応変。間に合わせ。正官に準ずるもの。正道によらずに力だけに頼る意から、臨時の便法という③の意を生じた。【解字】形声。右半部「」が音符で、左右がそろう意。「木」を加えて、左右のバランスをとるさおばかりのおもりの意。転じて、他に影響を与える重み、重さをもつ力の意。]有り。権廢れて勢[①他を押さえ従わせる力。いきおい。②自然のなりゆき。様子。③人数。兵力。④男性の生殖器。⑤「伊勢(いせ)」の略。【解字】会意。上半部「」は「芸」(=藝)の原字で、草木を植える意。「力」を加えて、草木を植え育てる人の力の意。[?]は異体字。]有り。勢廢れて術[①わざ。技芸。②手だて。手段。すべ。③はかりごと。【解字】形声。「行」(=みち)+音符「朮」(=したがう)。人びとが通いなれた道、何かをするための手だて、の意。]有り。術廢れて數[①かず。②かずをかぞえる。→古代中国で知識人の基本的教養とされた六芸りくげいの一つ。「礼楽射御書数」③いくつと定めずいくつかのかずを表す語。㋐多くの。㋑いくつかの。三、四の。五、六の。→古くは「ス」と読みの意に、現代語では「スウ」と読みの意に用いることが多い。④めぐりあわせ。運命。⑤はかりごと。⑥しばしば。たびたび。【解字】会意。「婁」(=じゅずつなぎにつながる)+「攵」(=動詞の記号)。順につながっているかずをかぞえる意。]有り。大道淪替[淪替-おちぶれ、すたれる。]すれば、人情訛り僞る。権數を以てして之を取るに非ざれば、則其の欲せんことを得ざるなり。故に其の権術の道、民をして上下進み趨くに同じうし、愛懀に同じうすれば、利害を一にせ使むるなり。故に人心徳に歸せば人の力を得ん。私無くば之至るなり。故に百萬の衆、其の心一の如し。俱に死力を同じくして動き而して危うくして亡ぶに至らざる可きなり。臣の君に於いて、下の上に於いて、子の父の事、弟の兄の事の若く、手臂の頭目を掉[ふりあげる。ふりおこす。]いて胸臆[胸。心中。]を覆うが若しなり。此の如く始めは上と意を同じうし、死生同じく致り危疑に畏懼せられざる可し。

孫子の兵法:故に之れと死す可く、之れと生く可くして、民詭わざるなり:故可與之死、可與之生、民弗詭:杜佑:孫子十家註○杜佑:之を導くに政令を以てし、之を斉うに禮教を以て謂うなり。危とは疑なり。上仁を施すこと有れば、下能く命を致すなり。故に與に存亡の難き處に傾危の敗を畏れず。晋陽の圍、沈竈[水に沈んだかまど]蛙を産むに、人叛疑心無きが若し。

○李筌:危うは亡ぶなり。道を以て衆を理むれば、人自ずから之と化す。其の同じ用を得るに、何をか亡びて之有らん。

孫子の兵法:故に之れと死す可く、之れと生く可くして、民詭わざるなり:故可與之死、可與之生、民弗詭:杜牧:孫子十家註○杜牧:道とは仁義なり。李斯兵を荀卿に問う。對えて曰く、彼の仁義とは政を修むる所以の者なり。政修むるとは則民其の上に親しく、其の君に楽しむ。輕んじて之を為すは死す。復趙の孝成王に對えて兵を論じて曰く、百将心を一にし、三軍力を同じうすれば、臣の君に於けるや、下の上に於けるや、子の父の事、弟の兄の事の若く、手臂の頭目を掉いて胸臆を覆うが若しなり。此の如く始めに上と意を同じうすれば死生同じう致り、危疑を畏懼せざら令む可きなり。

○陳皡:註して杜牧と同じ。

○賈林:将能く道を以て心を為す。人と利を同じうし患いを共にすれば、則士卒服す。自然に心上の者と同じうなるなり。士卒をして我懷しむこと父母の如く、敵を視ること仇讎の如くせ使む者は、道に非ず能くせざるなり。黄石公云わく、道を得る者は昌なり。道を失う者は亡ぶなり。

孫子の兵法:故に之れと死す可く、之れと生く可くして、民詭わざるなり:故可與之死、可與之生、民弗詭:梅堯臣:梅聖兪:孫子十家註○梅堯臣:危は戻る[もとる。そむく。道理にはずれる。]なり。主道有らば則政教行わる。人心同じうすれば則危戻去らん。故に主安を与うれば安なり。主危を与うれば危なり。

○王晳:道は主の道の有るを謂う。能く民心を得ればなり。夫れ民の心を得る者は死力を得る所以なり。死力を得る者は、患難を濟する所以なり。易に曰く、悦は以て難を犯す。民其の死を忘るる。是の如くすれば則安くんぞ難の事を畏危せんや[どうして容易でないことを畏れ危ぶもうか、畏れ危ぶむことはない。]

○張預:危は疑なり。士卒恩を感じ、死生存亡、上と之を同じうし、決然として疑懼[疑いおそれること。]する所無し。


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○金谷孫子:そこで人民たちは死生をともにして疑わないのである。

○浅野孫子:平時からこれが実現されておればこそ、戦時において、民衆に為政者と死生を共にさせることが可能となり、民衆は統治者の命令に疑心を抱かないのである。

○天野孫子:従って民は君主とその死生を同じくして危険を恐れなくなる。

○守屋孫子:これがありさえすれば、国民は、いかなる危険も恐れず、君主と生死を共にする。

○著者不明孫子:そうすれば、生死をともにしようという気持ちになって、民衆は疑うことがない。

○学習研究社孫子:だから、民は君主の命令に従わせることができるので、君主は人民と生きるのも死ぬのも同じであり、しかも人民は君主に対して疑う心を持たないのである。

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2012-01-30 (月) | 編集 |
孫子 兵法 大研究!

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『道とは民をして上と意を同じうせ令むる者なり。』:本文注釈

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 道とは、民の意志を上が考えている意志と同じくさせることだとここで述べている。同じくさせる意志とは、敵に対する戦意や、一致団結して戦っていこうという意志のことであろう。ここで「道」の意味について考えてみたい。孫武は、道とは国民に主君が考えている方針といったものを理解してもらい、同じ道を進んでいこうとさせることであると言っているが、この意味だと「道」は「導」の意味を連想させる。「道」は「導」の意味としても使われてきた漢字であるから、どちらの意味でも本来構わないはずである。だが、「導く」の意味だと、五事にはふさわしくないような気がする。「道」とは、ここでは、世の中を支配する真理や条理という意味であるとすれば、ここでいう「道」とは、戦争に特化した意味を持つことを前提としたうえで考えれば、後ろの文に民との関係を述べていることから、戦争に勝つために国の礎である国民とうまく付き合っていくための理を述べたものと解釈できる。民が兵士となり、国のために戦う訳であるから、民と君主と一心同体となることを理想としたわけである。要するに、「人の和」が第一であると孫武はここで提唱し、君主と民が一致団結して大事である戦争に向かって対処すべきであると、ここでことわったわけである。そして、具体的にどのようにするかというのが次の文で述べられている。

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孫子の兵法:道とは民をして上と意を同じうせ令むる者なり:道者令民與上同意者也:守屋洋○守屋孫子:「道」とは大義名分の意である。中国人はむかしから「師を出すに名(大義名分)あり」でなければならないと考えてきた。大義名分のない軍事行動は「無名の師」として退けられてきたのである。なぜ大義名分が必要なのか。言うまでもなく、それがなければ、将兵を奮起させることができず、挙国一致の態勢がとれないからである。

孫子の兵法:道とは民をして上と意を同じうせ令むる者なり:道者令民與上同意者也:フランシス・ワン仏訳 孫子○フランシス・ワン孫子:一、「道」とは、本来は真直な道・人の履み行うべき理義の意であり、個々の人間は勿論、その人間が構成するあらゆる団体・社会・国家にとって、その存在の本義を問う道理であり道徳である。しかし、孫子が本項で言う「道」とは、一国の政治(内政・治績)の如何であり、仏訳は、端的に「政府特に君主(最高政治指導者)と国民の関係」と解する。言うまでもなく、戦争は国民の自覚とその上下が一体となることの如何によって、その帰趨を大きく異にしてくるものである。
 一、しからば、国民をして指導者を信頼し、一体的努力をなさしむるためには何が必要かと言うに、他の何物にもまして必要なことは、「君主(指導者)が、正義・仁愛・誠実の諸徳を踏まえて行動する」ことである。…。曹操は、後句に「之を導くに教令を以てするを謂う。危うき者は(国民の)危疑なり」と註している。即ち、戦争の遂行に当り国家として最も警戒せねばならぬことは、国民と軍隊がその指導者と政府にたいして危疑の念を抱くことであり、之を防止するためには、教令を以て導かねばならないと言うのである。…。
一、孫子が戦争判断に於ける根本要素とする五事の中で、「道」を第一にあげたのは、決して衒学[衒学-学問のあることをひけらかし、自慢すること。]のためではない。実際にその意義と価値を重視する者であったからである。彼が、この問題を重視する者であったかは、以下の各論の末尾に於て必ず展開する将帥論によって、一層よく理解することができよう。この「道」の問題を軽視する所に戦争の遂行また真の勝利(戦争目的の達成)などありえない、とするのも彼の根本思想の一つであり、一貫して説く所である。…。

孫子の兵法:道とは民をして上と意を同じうせ令むる者なり:道者令民與上同意者也:田所義行○田所孫子:道とは人民が君主と同意するもので、人民が君主と死生をともにし、しかもそれをおそれたりあやぶんだりしないものであるとの意。

孫子の兵法:道とは民をして上と意を同じうせ令むる者なり:道者令民與上同意者也:金谷治○金谷孫子:同意也故-竹簡本には「意」の下に「者」の字がある。武経本・平津本・桜田本には「也故」の二字がない。

孫子の兵法:道とは民をして上と意を同じうせ令むる者なり:道者令民與上同意者也:重沢俊郎○重沢孫子:まず第一の”道”というのは、大きくみれば支配階級と人民との、小さく見れば現場の指揮官と兵卒との間の結びつき方、つまり戦時下における信頼関係のあるべき姿を意味します。人民と上層部との意志が完全に一致しているならば、信頼度は百パーセント、もっとも望ましい状態ですから、死ぬにしろ生きるにしろ、よろこんで運命を共にし、人民や兵士が一身の危険を恐れるようなことはなくなります。戦争の前夜、世論の統一に向ってあらゆる手段が用いられるのは、結局”道”を確立するために外なりません。

孫子の兵法:道とは民をして上と意を同じうせ令むる者なり:道者令民與上同意者也:町田三郎○町田三郎「孫子」:<道とは民をして…>『淮南子』兵略篇の「兵の勝敗はもと政にあり。政其の民に勝ちて、下其の上に附けば、則ち兵強し…」を参考にして理解するとよかろう。

孫子の兵法:道とは民をして上と意を同じうせ令むる者なり:道者令民與上同意者也:天野鎮雄○天野孫子:『道者令民与上同意也、故可以与之死、可以与之生而不畏危』
 「道」は後文の「主孰れか有道なる」の道の意であるが、この句はその意に解することが疑わしい。一説に孟氏は「道とは之を道くに政令を以てし、之を斉ふるに礼教を以てするを言ふ。故に能く民の志を化服して、上下と同一なり。故に兵を用ふるの妙は権術を以て道と為す」と。「上」は一国の君主。「意」は心中の思いの意。『新釈』は「『意』は意志・意向・希望・思想・感情等を包含する字である。即ちこれ亦含蓄性と曖昧性とを有する広義の文字である。従って又決して善事のみを意志するのではない。善悪に拘らず上の向かふ所、下同じく之に向かひ、上の欲する所、下同じく之を欲し、上の好む所、下同じく之を好むのである」と。「之」は上を受ける。一説に民を受くと。『国字解』は「二つの之と云ふ字は民を指して云ふなり」と。なお『武経』各書には「同意也故」の也故の二字がなく、また「以」の字(上と下とで二字)がなく、「不畏危」の下に「也」の字がある。『古文』には「以」の字のみがない。この句について一説に「道」を道徳の意に解して『思想史』は「道は上下一心、君臣一体のよりどころとなるべき徳、すなはち仁愛の徳に該当する。…君の仁愛が下の士民に徹底すれば、士民の側でも、その父に孝をつくすやうに、君に忠誠をはげみ、君と生死を与にし、身命の危険を畏れないやうになる」と。また一説に『外伝』は「道は一種の兵道にして聖人の道を謂ふにあらず」と。『俚諺鈔』は「孫子が説くところは兵道なり。全く今日我になつかざる人をして、我が方より、作為[①ことさらに手を加えること。こしらえること。②〔法〕積極的な行為・動作または挙動。金銭を渡す、人を殺すなどがその例。]按排[(「塩梅」(アンバイ)はエンバイの転で、「按排」「按配」とは本来別系統の語であるが、混同して用いる。「案配」は代用字) ①塩と梅酢で調味すること。一般に、料理の味加減を調えること。また、その味加減。②物事のほどあい。かげん。特に、身体の具合。③ほどよく並べたり、ほどよく処理したりすること。]して、力め行つて、民の従ふ如くに、日日に諸卒をなつけて、水火の中へおもむくと云へども、我と死生存亡を同じくせんと、一筋に思ひ入るる如くにするなり。さる依つて、本文に令の字を以て其意を指し示せり」と。また一説に『直解』は「孫子の謂ふ所の道は蓋し王覇を兼ねて言ふなり」と。なお『武経』に基づく『俚諺鈔』などは本文を「道とは民をして上と意を同くして、之と死す可く之と生く可くして危を畏れざらしむ」と読んでいる。それについて『諺義』は「令民与之同意、此六字一句。令の字、不畏危よりかへりよむべからず。上下をして一致せしむ、是れ道なり。此の如くならば則ち死生を与にして危を畏れざる可きなり」と。

○著者不明孫子:【同意】心を一つにする。「意」は、こうしようと心に思うこと。

孫子の兵法:道とは民をして上と意を同じうせ令むる者なり:道者令民與上同意者也:荻生徂徠:孫子国字解○孫子国字解:『道者、民をして上と意を同じくして、之と死す可く、之と生く可くして畏れ危まざら令むる也。』
此段は、上の文の一曰道とある、道の字のことを説けり。民と云は、異国にては、百姓をおもに心得べし。子細は、異国にては民兵とて、専ら民を軍兵に用る也。故に民を云て官人はこもるなり。我国にても、上代は異国の如くなれども、今は民を軍兵に用ることはなきゆへ、民と云ふ字を、士卒と云ふ字に直して心得べし。さりとて一向に、民はかやうにあれば、いよいよのことなるべし。まづ異国と我国と、事の様の違ひたることを辨へねば[弁える-物の道理を十分に知る。よく判断してふるまう。ものの区別を知る。弁別する。]、異国の書の義理はすまぬものゆへ、かく斷はるなり。令民與上同意とは、上の思ふ様に士卒のなることなり。可與之死可與之生とは、上と士卒と生死を一つにして、懸るも引も、死ぬるも生るも、上たる人をすてぬことなり。二つの之と云ふ字は、民を指して云なり。畏れ危ぶまざらしむとは、畏れ気遣ふべき場、危きことをも、士卒が畏れず危まぬ様にあらしむることなり。是も生死を一つにすると同じことなれども、生死を一つにすると云は、士卒の心の一致なることを云て、畏れ危まざらしむと云は、士卒の気の剛なる様にすることなり。尤士卒の心親切なれば、おのづから剛なるわけもあれども、左様に見るは理窟の上のことなり。士卒の上と生死をひとつにするは、士卒の心を取る所にありて、士卒の剛なる様にするは、士卒の気をたくましくする所にあるなり。たとへば三国の時分、蜀の劉備の曹操に追落され、新野と云ふ處を落ち玉へる時、數萬の民ともが劉備の跡を追て、道もとをられぬ程おち行きけることあり。かやうに民に深く慕はれたる劉備なれども、此數萬の民を以て戦ふことはならざりし。是民上と生死を一つにすれども、民の心の剛になる様にする所の、いまだ足らぬ故なり。かやうなる差別あるゆへ、孫子が意を加へて、詞を添たるなるべし。扨この段の主意は、上の段に、一曰道と云たる其道と云は、いかやうなることを云となれば、士卒が上と心を一つにして、いかやうにも上の思ふ様になり、生死をひとつにして、しかも其心剛にして、物を畏れ危ぶむことなき様にあらしむる、是を道と云なり。この道を箇條の一つにして、この箇條にて云はば、敵が箇様にあるか、味方が箇様にあるかと、たくらべはかるべしと云ふ意なり。この道と云に付て、是は王道なりと云ふ説もあり。また覇道なりと云説もあり。王覇を兼たると見たる説もあり。是みな後人の憶説にて、何れ孫子が意に叶ひたりとも云がたし。孫子は王道とも、覇道とも、又王覇を兼たるとも云はぬ也。ただ令民與上同意、可與之死、可與之生、而不畏危也と云たるなれば、孫子が意は、王道にてもあれ、又覇道にてもあれ、又何の道にてもそれには搆はず、ただ士卒をかやうにあらしむるを、道とは云たるなり。孫子が意は一の令と云ふ字の上にあり。士卒にかやうあらしむることは、上のせしむる所にありて、別にむつかしく、なりにくきことにてはなし。如何様にも、せしめばせしめらるることなりと云意なり。誠に兵家者流の奥意は、上に天もなく、下に地もなし。天地人ともに我一本の団扇に握て、我心のままに自在なる妙處、この一字に露顯するなり。味ふべきことなり。但しかやうにばかり云はば初心の人は、如何様にして民をかやうにあらしめんと惑ふべきによりて、孫子が意にも叶ふべからん様なる説をここに擧るなり。張預が説に、恩信し、民を使ふとあり。恩は恩澤[恩沢-めぐみ。なさけ。おかげ。]なり。信はもののたがはぬことなり。賞罰は勿論、大将たる人は、何にてももののたがはぬ様にすべし。是信なり。恩あれば民上にしたしみなつく、信なれば民上を疑ひけすむことなり。故に恩信の二にて、上と下との心ひとつになりて、へたへたにならぬゆへ、民を此本文の如くあらしむることなるべきなり。また黄獻臣か説に、上下の情に通ずと云へり。是又神妙なる説なり。上下の情に通ずとは、上たる人、下の情をとくとよく知ることなり。位高く身富み、境界もかはるによりて、聡明才智の人も、下の情は知りがたきものなり。下の情を知らざれば、慈悲と思ひてすることも、下の為にならず。物のたがはぬ様にすべきと思ひても、することにつかゆること出来て、たがへねばならぬ様になりゆくなり。故に上下の情に通ぜねば、恩信もたたぬなり。古の名将は、身を高上に持なさず、下を親み近つけて、よく下の情を知たるゆへ、恩信もよく恩信の用をなし、民を此本文の如くあらしめたること、書典に歴々たれば、かやうに心をつけて見ば、孫子が心にも遠かるまじく思はる。尤時に臨て、急に民を此本文の如くあらしむることも、名将の左様にあることなれども、此篇の文勢は、軍の前に、敵味方をはかりくらぶる上のことを云たれば、まづ平日の上のことと心得べきなり。

孫子の兵法:道とは民をして上と意を同じうせ令むる者なり:道者令民與上同意者也:山鹿素行:孫子諺義○孫子諺義:『道とは、民をして上と意を同じくせ令め、之と死す可く、之と生く可くして危きを畏れざるなり。』
令は使也、畏は懼[懼-びくびくする。おどおどする。]也、危は危難なり。是れ孫子自ら五事に注して、道の字義後世の疑惑を散ずる也。道は民よく上におもひついて、死生一大事をも上とともになさんと存じ、危きにいたりても上の下知を重んじて主将とともに事をなす、是れを道と云ふ也。たとひ文学あり才徳の稱美[ほめること、賞美]ある人なりとも、此の處かくるときは、道あるの人と云ふにたらず。民はすべて人民をさす。士卒ばかりにかぎらざる也。これ国政にかかる言也。七計にいたつては士卒兵衆と直に軍旅の士をさせり。此の一句は主将道を存するのしるしを云へり。此の如く人民の思ひついて志を一つにいたすことは、かねて主将に其の道なくては、通ず可からざること也。往年此の一句に疑あり、此の一句をみるときは、道と云ふものは民をおもひつかしむべきための道也と云ふに似たり。聖人之道は当然ののりにして人の思ひつくをまつにあらず、孫子が所謂道は覇者の所説なるゆゑに此の如くいへりと。今案ずるに、此の説実に道をしらざるゆゑ也。道は人民のための道なり、民人をのけて別に道なし。我道にかなへりと思ふとも、衆心我に背くときは、道にあらざる也。凡そ衆心向背の事、太誓(書経の泰誓)に云はく、民の欲する所、天必ず之れに従ふと。傳(左傳僖公丗三年に天に違へば不祥なりと出づ、天と衆と意味相通ず。)に云はく、衆に違へば不祥なりと。晉の郭偃(晋の大夫なり、又卜偃とも云ふ。下記のこと国語の晋語中に出づ。)云はく、夫れ衆口は、禍福[わざわいとしあわせ。]之門なり。是を以て君子は衆を省て動き、監戒[とりしまり、いましめる。]して謀り、謀り度りて行ふ。故に濟[なしとげる。]ならざる無し。内謀外度、考省倦まず。日に考へて習はば戒備[用心し、備える。]畢る[ことごとくおわる。]と。鄭の子産(公孫僑、子産は字、春秋時代、鄭國の名大夫。)云はく、衆怒は犯し難しと。(天下篇)荘子墨子を論じて云はく、恐は其れ以て聖人の道と為す可からざらん、天下の心に反して天下堪へず、墨子獨り任ゆと雖も、天下を奈何せん、天下を離るれば、其の王を去ることや遠しと。是れ皆衆心の向背[従うことと、背くこと。]を考へて、衆とともに志を一にいたすのをしえ也。しかれども、 蘇子(蘇軾、字は子瞻、東坡と號す。)瞻の所謂、国を為むる者は、未だ行事の是非を論ぜず、先づ衆心の向背を觀る と云ふの説に至りては、又古人の議論なきにあらざる也。直解(明の学者劉寅の著、七書直解)に道の字を解して、孫子の所謂道は、蓋し[まさしく、本当に、確かに]王覇を兼て言ふ也と、其の説詳なることは詳にして、向上にいたりて、又兵法の実を得ざる也。兵法より云ふ時は、令の一字尤も高味あること也。主将士卒の志を知りて其の用法当座のつくりごとのごとくにいたすにはあらず。時にとつて士卒の志をはかり、或は賞祿[賞としてあたえる禄。]し或は重罰して、人心を一つにするもまた道の一端と心得可き也。三略に、軍国の要は、(衆の)心を察し百務を施すと云へり。又志を衆に通ず、好惡を同じくすと同義也。案ずるに、七計にいたつて主孰れか道有ると云ふときは、此の道の字専ら主にかかる言也。将は五事の一也、しかれば将の兵をつかふの道とみんことはいかが也。又云はく、民をして上と意を同くせ令め、此の六字一句、令の字危きを畏れずよりかへりよむべからず、上下一致せ令む、是れ道也、此の如くなれば、則死生を與にす可くして危きを畏れざる也。武経大全に云はく、令の字講粗了す可からず[理解を雑にしてはならない]、民の意最も紛[ばらばらで乱れている。]にして最も強、豈上と同じくし易からんや[どうして上と意を同じくすることがたやすかろうか、たやすいことではない。]惟だ其の好惡を通じ、甘苦を共にすれば、自ずから然る[その通りになる。]を期せずして然るの妙有り、故に道の至る所は、即ち意の至る所、與に生き與に死すと雖も、自然に意を同うする難からず、是れ不令の令と為す、何の畏危か之有らん、道の字着実に発揮するを要す。武経通鑑に云はく、西魏の将王思政(南北朝の西魏の人、落城の後捕はる、敵その忠義を称し厚遇す、後北齊の時代に都官尚書に挙げらる)潁川郡に守たり、東魏師十萬を帥ヰて之れを攻む、備に攻撃の術を盡し、潁水(河南省の川の名)を以て城に灌ぎて之れを陷る、思政事の濟ならざるを知り、左右を率いて謂ひて曰はく、義士恩を受け、遂に王命を辱しむ、力屈し道窮まり、計出づる所無し、惟だ當に死を効して以て朝恩[朝廷の恩。天子の恩。]を謝すべき耳と、因りて天を仰ぎ大に哭す、左右皆號慟[身もだえして、大声でなげきかなしむ。]す、思政西に向かひて再び拜し、便ち自刎[みずから首をはねて死ぬこと。]せんと欲す、衆共に之れを止め、引決するを得ず、城陷るの日に及び、潁川の士卒八千、存する者纔に三千人、終に叛く者無し、此れ民をして上と意を同くせ令む是れ也。直解開宗合參(明の学者、張居正外三氏の著、正しくは武経直解開宗合參と云ふ)に云はく、問ふ、孫子首めに民をして上と意を同くせ令むと言ひ、呉子も亦首めに先づ和して大事を造なすと、曰はく同曰はく和と、果して皆人和の旨[心の内、考えている内容。]か、非歟、曰はく、孫子は同と言ひ、呉子は和と言ふ、意類せざるに似たり、然れども皆民の為めに見を起す、同と曰ふは民を同くする也、斷然人の和を以て主と為す、但だ同は上之をして同くせ使め、和は上之をして和せ使むと道ふを知る、此の如く発揮せば方に議論有らん。李卓吾(李贄、明の学者)云はく、一に曰はく道と、孫子已に自ら註し得て明白なり、曰はく道は、民をして上と意を同くせ令め、之れと死す可く、之れと生く可くして、危きを畏れざる是れ也、夫れ民にして之れと死生を同くす可くんば也、即ち手足の頭目を扞ぎ[ふせぐ、まもる、こばむ。]、子弟の父兄を衞る[まわりにいてまもる。]も、啻ならず[普通のさまでない。尋常ではない。]過ぎたり、孔子の所謂民信ず、孟子の所謂民心を得る是れ也、此れ始計の本謀、用兵の第一義にして、魏武は乃ち之れを導くに政令を以てするを以て之れを解くも、其の本を失するなり、魏武平生好みて權詐[たくらんでだますこと。いつわりのはかりごと。たくらみ。]を以て、一時の豪傑を籠絡[巧みに言いくるめて人を自由にあやつること。まるめこむこと。]して、遁[のがれる。逃げる]徳仁義を以て迂腐[世間知らずで役に立たないこと。]と為すに縁る、故に只だ自家の心事を以て註解を作す、是れ豈至極の論、萬世共に由るの説ならんや、且つ夫れ之れを道くに政令を以てすは、只だ得せる法令孰れか行はるの一句の経を解す耳、噫此れ孫武子の至聖至神にして、天下萬世以て復た加ふる無しと為す所以の者也、惜しいかな儒者は以て取らず、士は故を以て棄置して読まず、遂に判れて兩途と為り、別ちて武経と為し、文を右[上位]にして武を左[下位]にす、今日に至りては、則左して又左す、蓋し之れを左する甚し、是の如くしてその干樽爼の間に折衝[(敵の衝いて来るほこさきをくじきとめる意から)外交その他の交渉での談判またはかけひき。利害の異なる相手と問題を解決するために話し合うこと。]し、戸庭[門戸と庭園。家の中。]を出でず、堂堦を下らずして、變を萬里[1万里ほどの極めて遠い距離]の外に制するを望むも、得可けん耶。

孫子の兵法:道とは民をして上と意を同じうせ令むる者なり:道者令民與上同意者也:吉田松陰:孫子評註○孫子評註:「道とは、民をして上と意を同じくして、之れと與(とも)に死すべく、之れと與に生くべくして、危きを畏れざらしむるなり。」
-傳文、大いなるもの三處、文法皆變ず。道の字、甚しくは説破(十分に説きつくすこと。)せず、却つて行軍・地形・九地の諸篇に於て之れを講ず。文乃ち淺からず雜ならず。是れ此の(孫武のこと)老の老成の處なり。令(「令の字」「也の字」は、いずれも前文の原文についていう。)の字、貫いて也の字に到る、方(まさ)に作用あり。

○張預:恩信・道義を以て衆を撫づれば[いつくしむ。かわいがる。大事にする。]。則三軍一心となる。上が用を為すに楽なり。易に曰く、悦[よろこび。心のしこりを解く意。]は以て難を犯し、民は其の死を忘るる、と。


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○金谷孫子:[第一の]道とは、人民たちを上の人と同心にならせる[政治のあり方の]ことである。

○浅野孫子:第一の道とは、民衆の意志を統治者に同化させる、内政の正しい在り方のことである。

○大橋孫子:道とは、国民が指導者と心を一にし、死生をともにすることをためらわないようにする政治。

○武岡孫子:道とは国民が為政者と同じ心になって、死生をともにして疑わないようにさせる政治のことである。

○フランシス・ワン孫子:主権者と国民との精神的関係によって、国民が恐れ気もなく家庭や職場を投げ打ち、その指導者達と生死を共にするほどに心を一つにしているかどうかを知るのである。

○天野孫子:第一の道とは、国民を君主と一心同体ならしめることである。

○町田孫子:道というのは、人民の心を上に立つ人の心と一つにさせ、生死をともにして疑わないようにさせる政治のことである。

○守屋孫子:「道」とは、国民と君主を一心同体にさせるものである。これがありさえすれば、国民は、いかなる危険も恐れず、君主と生死を共にする。

○著者不明孫子:ここにいう道とは、民衆を上に立つ者と心を一つにさせることである。

○学習研究社孫子:道の作用は、民をして上層部と心や考えを一つにさせることである。

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