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孫子研究ブログです。孫子兵法は別名『孫子兵経』、『SUNTZU』、『The Art of WAR』ともよばれています。ナポレオンや毛沢東も愛読していました。注釈者には曹操、杜牧、山鹿素行、荻生徂徠、新井白石、吉田松陰、等の有名人も多いです。とにかく深いです。

孫子 兵法 大研究!トップ⇒2012年01月
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2012-01-30 (月) | 編集 |
孫子 兵法 大研究!

本文注釈:孫子 兵法 大研究!

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『道とは民をして上と意を同じうせ令むる者なり。』:本文注釈

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 道とは、民の意志を上が考えている意志と同じくさせることだとここで述べている。同じくさせる意志とは、敵に対する戦意や、一致団結して戦っていこうという意志のことであろう。ここで「道」の意味について考えてみたい。孫武は、道とは国民に主君が考えている方針といったものを理解してもらい、同じ道を進んでいこうとさせることであると言っているが、この意味だと「道」は「導」の意味を連想させる。「道」は「導」の意味としても使われてきた漢字であるから、どちらの意味でも本来構わないはずである。だが、「導く」の意味だと、五事にはふさわしくないような気がする。「道」とは、ここでは、世の中を支配する真理や条理という意味であるとすれば、ここでいう「道」とは、戦争に特化した意味を持つことを前提としたうえで考えれば、後ろの文に民との関係を述べていることから、戦争に勝つために国の礎である国民とうまく付き合っていくための理を述べたものと解釈できる。民が兵士となり、国のために戦う訳であるから、民と君主と一心同体となることを理想としたわけである。要するに、「人の和」が第一であると孫武はここで提唱し、君主と民が一致団結して大事である戦争に向かって対処すべきであると、ここでことわったわけである。そして、具体的にどのようにするかというのが次の文で述べられている。

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孫子の兵法:道とは民をして上と意を同じうせ令むる者なり:道者令民與上同意者也:守屋洋○守屋孫子:「道」とは大義名分の意である。中国人はむかしから「師を出すに名(大義名分)あり」でなければならないと考えてきた。大義名分のない軍事行動は「無名の師」として退けられてきたのである。なぜ大義名分が必要なのか。言うまでもなく、それがなければ、将兵を奮起させることができず、挙国一致の態勢がとれないからである。

孫子の兵法:道とは民をして上と意を同じうせ令むる者なり:道者令民與上同意者也:フランシス・ワン仏訳 孫子○フランシス・ワン孫子:一、「道」とは、本来は真直な道・人の履み行うべき理義の意であり、個々の人間は勿論、その人間が構成するあらゆる団体・社会・国家にとって、その存在の本義を問う道理であり道徳である。しかし、孫子が本項で言う「道」とは、一国の政治(内政・治績)の如何であり、仏訳は、端的に「政府特に君主(最高政治指導者)と国民の関係」と解する。言うまでもなく、戦争は国民の自覚とその上下が一体となることの如何によって、その帰趨を大きく異にしてくるものである。
 一、しからば、国民をして指導者を信頼し、一体的努力をなさしむるためには何が必要かと言うに、他の何物にもまして必要なことは、「君主(指導者)が、正義・仁愛・誠実の諸徳を踏まえて行動する」ことである。…。曹操は、後句に「之を導くに教令を以てするを謂う。危うき者は(国民の)危疑なり」と註している。即ち、戦争の遂行に当り国家として最も警戒せねばならぬことは、国民と軍隊がその指導者と政府にたいして危疑の念を抱くことであり、之を防止するためには、教令を以て導かねばならないと言うのである。…。
一、孫子が戦争判断に於ける根本要素とする五事の中で、「道」を第一にあげたのは、決して衒学[衒学-学問のあることをひけらかし、自慢すること。]のためではない。実際にその意義と価値を重視する者であったからである。彼が、この問題を重視する者であったかは、以下の各論の末尾に於て必ず展開する将帥論によって、一層よく理解することができよう。この「道」の問題を軽視する所に戦争の遂行また真の勝利(戦争目的の達成)などありえない、とするのも彼の根本思想の一つであり、一貫して説く所である。…。

孫子の兵法:道とは民をして上と意を同じうせ令むる者なり:道者令民與上同意者也:田所義行○田所孫子:道とは人民が君主と同意するもので、人民が君主と死生をともにし、しかもそれをおそれたりあやぶんだりしないものであるとの意。

孫子の兵法:道とは民をして上と意を同じうせ令むる者なり:道者令民與上同意者也:金谷治○金谷孫子:同意也故-竹簡本には「意」の下に「者」の字がある。武経本・平津本・桜田本には「也故」の二字がない。

孫子の兵法:道とは民をして上と意を同じうせ令むる者なり:道者令民與上同意者也:重沢俊郎○重沢孫子:まず第一の”道”というのは、大きくみれば支配階級と人民との、小さく見れば現場の指揮官と兵卒との間の結びつき方、つまり戦時下における信頼関係のあるべき姿を意味します。人民と上層部との意志が完全に一致しているならば、信頼度は百パーセント、もっとも望ましい状態ですから、死ぬにしろ生きるにしろ、よろこんで運命を共にし、人民や兵士が一身の危険を恐れるようなことはなくなります。戦争の前夜、世論の統一に向ってあらゆる手段が用いられるのは、結局”道”を確立するために外なりません。

孫子の兵法:道とは民をして上と意を同じうせ令むる者なり:道者令民與上同意者也:町田三郎○町田三郎「孫子」:<道とは民をして…>『淮南子』兵略篇の「兵の勝敗はもと政にあり。政其の民に勝ちて、下其の上に附けば、則ち兵強し…」を参考にして理解するとよかろう。

孫子の兵法:道とは民をして上と意を同じうせ令むる者なり:道者令民與上同意者也:天野鎮雄○天野孫子:『道者令民与上同意也、故可以与之死、可以与之生而不畏危』
 「道」は後文の「主孰れか有道なる」の道の意であるが、この句はその意に解することが疑わしい。一説に孟氏は「道とは之を道くに政令を以てし、之を斉ふるに礼教を以てするを言ふ。故に能く民の志を化服して、上下と同一なり。故に兵を用ふるの妙は権術を以て道と為す」と。「上」は一国の君主。「意」は心中の思いの意。『新釈』は「『意』は意志・意向・希望・思想・感情等を包含する字である。即ちこれ亦含蓄性と曖昧性とを有する広義の文字である。従って又決して善事のみを意志するのではない。善悪に拘らず上の向かふ所、下同じく之に向かひ、上の欲する所、下同じく之を欲し、上の好む所、下同じく之を好むのである」と。「之」は上を受ける。一説に民を受くと。『国字解』は「二つの之と云ふ字は民を指して云ふなり」と。なお『武経』各書には「同意也故」の也故の二字がなく、また「以」の字(上と下とで二字)がなく、「不畏危」の下に「也」の字がある。『古文』には「以」の字のみがない。この句について一説に「道」を道徳の意に解して『思想史』は「道は上下一心、君臣一体のよりどころとなるべき徳、すなはち仁愛の徳に該当する。…君の仁愛が下の士民に徹底すれば、士民の側でも、その父に孝をつくすやうに、君に忠誠をはげみ、君と生死を与にし、身命の危険を畏れないやうになる」と。また一説に『外伝』は「道は一種の兵道にして聖人の道を謂ふにあらず」と。『俚諺鈔』は「孫子が説くところは兵道なり。全く今日我になつかざる人をして、我が方より、作為[①ことさらに手を加えること。こしらえること。②〔法〕積極的な行為・動作または挙動。金銭を渡す、人を殺すなどがその例。]按排[(「塩梅」(アンバイ)はエンバイの転で、「按排」「按配」とは本来別系統の語であるが、混同して用いる。「案配」は代用字) ①塩と梅酢で調味すること。一般に、料理の味加減を調えること。また、その味加減。②物事のほどあい。かげん。特に、身体の具合。③ほどよく並べたり、ほどよく処理したりすること。]して、力め行つて、民の従ふ如くに、日日に諸卒をなつけて、水火の中へおもむくと云へども、我と死生存亡を同じくせんと、一筋に思ひ入るる如くにするなり。さる依つて、本文に令の字を以て其意を指し示せり」と。また一説に『直解』は「孫子の謂ふ所の道は蓋し王覇を兼ねて言ふなり」と。なお『武経』に基づく『俚諺鈔』などは本文を「道とは民をして上と意を同くして、之と死す可く之と生く可くして危を畏れざらしむ」と読んでいる。それについて『諺義』は「令民与之同意、此六字一句。令の字、不畏危よりかへりよむべからず。上下をして一致せしむ、是れ道なり。此の如くならば則ち死生を与にして危を畏れざる可きなり」と。

○著者不明孫子:【同意】心を一つにする。「意」は、こうしようと心に思うこと。

孫子の兵法:道とは民をして上と意を同じうせ令むる者なり:道者令民與上同意者也:荻生徂徠:孫子国字解○孫子国字解:『道者、民をして上と意を同じくして、之と死す可く、之と生く可くして畏れ危まざら令むる也。』
此段は、上の文の一曰道とある、道の字のことを説けり。民と云は、異国にては、百姓をおもに心得べし。子細は、異国にては民兵とて、専ら民を軍兵に用る也。故に民を云て官人はこもるなり。我国にても、上代は異国の如くなれども、今は民を軍兵に用ることはなきゆへ、民と云ふ字を、士卒と云ふ字に直して心得べし。さりとて一向に、民はかやうにあれば、いよいよのことなるべし。まづ異国と我国と、事の様の違ひたることを辨へねば[弁える-物の道理を十分に知る。よく判断してふるまう。ものの区別を知る。弁別する。]、異国の書の義理はすまぬものゆへ、かく斷はるなり。令民與上同意とは、上の思ふ様に士卒のなることなり。可與之死可與之生とは、上と士卒と生死を一つにして、懸るも引も、死ぬるも生るも、上たる人をすてぬことなり。二つの之と云ふ字は、民を指して云なり。畏れ危ぶまざらしむとは、畏れ気遣ふべき場、危きことをも、士卒が畏れず危まぬ様にあらしむることなり。是も生死を一つにすると同じことなれども、生死を一つにすると云は、士卒の心の一致なることを云て、畏れ危まざらしむと云は、士卒の気の剛なる様にすることなり。尤士卒の心親切なれば、おのづから剛なるわけもあれども、左様に見るは理窟の上のことなり。士卒の上と生死をひとつにするは、士卒の心を取る所にありて、士卒の剛なる様にするは、士卒の気をたくましくする所にあるなり。たとへば三国の時分、蜀の劉備の曹操に追落され、新野と云ふ處を落ち玉へる時、數萬の民ともが劉備の跡を追て、道もとをられぬ程おち行きけることあり。かやうに民に深く慕はれたる劉備なれども、此數萬の民を以て戦ふことはならざりし。是民上と生死を一つにすれども、民の心の剛になる様にする所の、いまだ足らぬ故なり。かやうなる差別あるゆへ、孫子が意を加へて、詞を添たるなるべし。扨この段の主意は、上の段に、一曰道と云たる其道と云は、いかやうなることを云となれば、士卒が上と心を一つにして、いかやうにも上の思ふ様になり、生死をひとつにして、しかも其心剛にして、物を畏れ危ぶむことなき様にあらしむる、是を道と云なり。この道を箇條の一つにして、この箇條にて云はば、敵が箇様にあるか、味方が箇様にあるかと、たくらべはかるべしと云ふ意なり。この道と云に付て、是は王道なりと云ふ説もあり。また覇道なりと云説もあり。王覇を兼たると見たる説もあり。是みな後人の憶説にて、何れ孫子が意に叶ひたりとも云がたし。孫子は王道とも、覇道とも、又王覇を兼たるとも云はぬ也。ただ令民與上同意、可與之死、可與之生、而不畏危也と云たるなれば、孫子が意は、王道にてもあれ、又覇道にてもあれ、又何の道にてもそれには搆はず、ただ士卒をかやうにあらしむるを、道とは云たるなり。孫子が意は一の令と云ふ字の上にあり。士卒にかやうあらしむることは、上のせしむる所にありて、別にむつかしく、なりにくきことにてはなし。如何様にも、せしめばせしめらるることなりと云意なり。誠に兵家者流の奥意は、上に天もなく、下に地もなし。天地人ともに我一本の団扇に握て、我心のままに自在なる妙處、この一字に露顯するなり。味ふべきことなり。但しかやうにばかり云はば初心の人は、如何様にして民をかやうにあらしめんと惑ふべきによりて、孫子が意にも叶ふべからん様なる説をここに擧るなり。張預が説に、恩信し、民を使ふとあり。恩は恩澤[恩沢-めぐみ。なさけ。おかげ。]なり。信はもののたがはぬことなり。賞罰は勿論、大将たる人は、何にてももののたがはぬ様にすべし。是信なり。恩あれば民上にしたしみなつく、信なれば民上を疑ひけすむことなり。故に恩信の二にて、上と下との心ひとつになりて、へたへたにならぬゆへ、民を此本文の如くあらしむることなるべきなり。また黄獻臣か説に、上下の情に通ずと云へり。是又神妙なる説なり。上下の情に通ずとは、上たる人、下の情をとくとよく知ることなり。位高く身富み、境界もかはるによりて、聡明才智の人も、下の情は知りがたきものなり。下の情を知らざれば、慈悲と思ひてすることも、下の為にならず。物のたがはぬ様にすべきと思ひても、することにつかゆること出来て、たがへねばならぬ様になりゆくなり。故に上下の情に通ぜねば、恩信もたたぬなり。古の名将は、身を高上に持なさず、下を親み近つけて、よく下の情を知たるゆへ、恩信もよく恩信の用をなし、民を此本文の如くあらしめたること、書典に歴々たれば、かやうに心をつけて見ば、孫子が心にも遠かるまじく思はる。尤時に臨て、急に民を此本文の如くあらしむることも、名将の左様にあることなれども、此篇の文勢は、軍の前に、敵味方をはかりくらぶる上のことを云たれば、まづ平日の上のことと心得べきなり。

孫子の兵法:道とは民をして上と意を同じうせ令むる者なり:道者令民與上同意者也:山鹿素行:孫子諺義○孫子諺義:『道とは、民をして上と意を同じくせ令め、之と死す可く、之と生く可くして危きを畏れざるなり。』
令は使也、畏は懼[懼-びくびくする。おどおどする。]也、危は危難なり。是れ孫子自ら五事に注して、道の字義後世の疑惑を散ずる也。道は民よく上におもひついて、死生一大事をも上とともになさんと存じ、危きにいたりても上の下知を重んじて主将とともに事をなす、是れを道と云ふ也。たとひ文学あり才徳の稱美[ほめること、賞美]ある人なりとも、此の處かくるときは、道あるの人と云ふにたらず。民はすべて人民をさす。士卒ばかりにかぎらざる也。これ国政にかかる言也。七計にいたつては士卒兵衆と直に軍旅の士をさせり。此の一句は主将道を存するのしるしを云へり。此の如く人民の思ひついて志を一つにいたすことは、かねて主将に其の道なくては、通ず可からざること也。往年此の一句に疑あり、此の一句をみるときは、道と云ふものは民をおもひつかしむべきための道也と云ふに似たり。聖人之道は当然ののりにして人の思ひつくをまつにあらず、孫子が所謂道は覇者の所説なるゆゑに此の如くいへりと。今案ずるに、此の説実に道をしらざるゆゑ也。道は人民のための道なり、民人をのけて別に道なし。我道にかなへりと思ふとも、衆心我に背くときは、道にあらざる也。凡そ衆心向背の事、太誓(書経の泰誓)に云はく、民の欲する所、天必ず之れに従ふと。傳(左傳僖公丗三年に天に違へば不祥なりと出づ、天と衆と意味相通ず。)に云はく、衆に違へば不祥なりと。晉の郭偃(晋の大夫なり、又卜偃とも云ふ。下記のこと国語の晋語中に出づ。)云はく、夫れ衆口は、禍福[わざわいとしあわせ。]之門なり。是を以て君子は衆を省て動き、監戒[とりしまり、いましめる。]して謀り、謀り度りて行ふ。故に濟[なしとげる。]ならざる無し。内謀外度、考省倦まず。日に考へて習はば戒備[用心し、備える。]畢る[ことごとくおわる。]と。鄭の子産(公孫僑、子産は字、春秋時代、鄭國の名大夫。)云はく、衆怒は犯し難しと。(天下篇)荘子墨子を論じて云はく、恐は其れ以て聖人の道と為す可からざらん、天下の心に反して天下堪へず、墨子獨り任ゆと雖も、天下を奈何せん、天下を離るれば、其の王を去ることや遠しと。是れ皆衆心の向背[従うことと、背くこと。]を考へて、衆とともに志を一にいたすのをしえ也。しかれども、 蘇子(蘇軾、字は子瞻、東坡と號す。)瞻の所謂、国を為むる者は、未だ行事の是非を論ぜず、先づ衆心の向背を觀る と云ふの説に至りては、又古人の議論なきにあらざる也。直解(明の学者劉寅の著、七書直解)に道の字を解して、孫子の所謂道は、蓋し[まさしく、本当に、確かに]王覇を兼て言ふ也と、其の説詳なることは詳にして、向上にいたりて、又兵法の実を得ざる也。兵法より云ふ時は、令の一字尤も高味あること也。主将士卒の志を知りて其の用法当座のつくりごとのごとくにいたすにはあらず。時にとつて士卒の志をはかり、或は賞祿[賞としてあたえる禄。]し或は重罰して、人心を一つにするもまた道の一端と心得可き也。三略に、軍国の要は、(衆の)心を察し百務を施すと云へり。又志を衆に通ず、好惡を同じくすと同義也。案ずるに、七計にいたつて主孰れか道有ると云ふときは、此の道の字専ら主にかかる言也。将は五事の一也、しかれば将の兵をつかふの道とみんことはいかが也。又云はく、民をして上と意を同くせ令め、此の六字一句、令の字危きを畏れずよりかへりよむべからず、上下一致せ令む、是れ道也、此の如くなれば、則死生を與にす可くして危きを畏れざる也。武経大全に云はく、令の字講粗了す可からず[理解を雑にしてはならない]、民の意最も紛[ばらばらで乱れている。]にして最も強、豈上と同じくし易からんや[どうして上と意を同じくすることがたやすかろうか、たやすいことではない。]惟だ其の好惡を通じ、甘苦を共にすれば、自ずから然る[その通りになる。]を期せずして然るの妙有り、故に道の至る所は、即ち意の至る所、與に生き與に死すと雖も、自然に意を同うする難からず、是れ不令の令と為す、何の畏危か之有らん、道の字着実に発揮するを要す。武経通鑑に云はく、西魏の将王思政(南北朝の西魏の人、落城の後捕はる、敵その忠義を称し厚遇す、後北齊の時代に都官尚書に挙げらる)潁川郡に守たり、東魏師十萬を帥ヰて之れを攻む、備に攻撃の術を盡し、潁水(河南省の川の名)を以て城に灌ぎて之れを陷る、思政事の濟ならざるを知り、左右を率いて謂ひて曰はく、義士恩を受け、遂に王命を辱しむ、力屈し道窮まり、計出づる所無し、惟だ當に死を効して以て朝恩[朝廷の恩。天子の恩。]を謝すべき耳と、因りて天を仰ぎ大に哭す、左右皆號慟[身もだえして、大声でなげきかなしむ。]す、思政西に向かひて再び拜し、便ち自刎[みずから首をはねて死ぬこと。]せんと欲す、衆共に之れを止め、引決するを得ず、城陷るの日に及び、潁川の士卒八千、存する者纔に三千人、終に叛く者無し、此れ民をして上と意を同くせ令む是れ也。直解開宗合參(明の学者、張居正外三氏の著、正しくは武経直解開宗合參と云ふ)に云はく、問ふ、孫子首めに民をして上と意を同くせ令むと言ひ、呉子も亦首めに先づ和して大事を造なすと、曰はく同曰はく和と、果して皆人和の旨[心の内、考えている内容。]か、非歟、曰はく、孫子は同と言ひ、呉子は和と言ふ、意類せざるに似たり、然れども皆民の為めに見を起す、同と曰ふは民を同くする也、斷然人の和を以て主と為す、但だ同は上之をして同くせ使め、和は上之をして和せ使むと道ふを知る、此の如く発揮せば方に議論有らん。李卓吾(李贄、明の学者)云はく、一に曰はく道と、孫子已に自ら註し得て明白なり、曰はく道は、民をして上と意を同くせ令め、之れと死す可く、之れと生く可くして、危きを畏れざる是れ也、夫れ民にして之れと死生を同くす可くんば也、即ち手足の頭目を扞ぎ[ふせぐ、まもる、こばむ。]、子弟の父兄を衞る[まわりにいてまもる。]も、啻ならず[普通のさまでない。尋常ではない。]過ぎたり、孔子の所謂民信ず、孟子の所謂民心を得る是れ也、此れ始計の本謀、用兵の第一義にして、魏武は乃ち之れを導くに政令を以てするを以て之れを解くも、其の本を失するなり、魏武平生好みて權詐[たくらんでだますこと。いつわりのはかりごと。たくらみ。]を以て、一時の豪傑を籠絡[巧みに言いくるめて人を自由にあやつること。まるめこむこと。]して、遁[のがれる。逃げる]徳仁義を以て迂腐[世間知らずで役に立たないこと。]と為すに縁る、故に只だ自家の心事を以て註解を作す、是れ豈至極の論、萬世共に由るの説ならんや、且つ夫れ之れを道くに政令を以てすは、只だ得せる法令孰れか行はるの一句の経を解す耳、噫此れ孫武子の至聖至神にして、天下萬世以て復た加ふる無しと為す所以の者也、惜しいかな儒者は以て取らず、士は故を以て棄置して読まず、遂に判れて兩途と為り、別ちて武経と為し、文を右[上位]にして武を左[下位]にす、今日に至りては、則左して又左す、蓋し之れを左する甚し、是の如くしてその干樽爼の間に折衝[(敵の衝いて来るほこさきをくじきとめる意から)外交その他の交渉での談判またはかけひき。利害の異なる相手と問題を解決するために話し合うこと。]し、戸庭[門戸と庭園。家の中。]を出でず、堂堦を下らずして、變を萬里[1万里ほどの極めて遠い距離]の外に制するを望むも、得可けん耶。

孫子の兵法:道とは民をして上と意を同じうせ令むる者なり:道者令民與上同意者也:吉田松陰:孫子評註○孫子評註:「道とは、民をして上と意を同じくして、之れと與(とも)に死すべく、之れと與に生くべくして、危きを畏れざらしむるなり。」
-傳文、大いなるもの三處、文法皆變ず。道の字、甚しくは説破(十分に説きつくすこと。)せず、却つて行軍・地形・九地の諸篇に於て之れを講ず。文乃ち淺からず雜ならず。是れ此の(孫武のこと)老の老成の處なり。令(「令の字」「也の字」は、いずれも前文の原文についていう。)の字、貫いて也の字に到る、方(まさ)に作用あり。

○張預:恩信・道義を以て衆を撫づれば[いつくしむ。かわいがる。大事にする。]。則三軍一心となる。上が用を為すに楽なり。易に曰く、悦[よろこび。心のしこりを解く意。]は以て難を犯し、民は其の死を忘るる、と。


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○金谷孫子:[第一の]道とは、人民たちを上の人と同心にならせる[政治のあり方の]ことである。

○浅野孫子:第一の道とは、民衆の意志を統治者に同化させる、内政の正しい在り方のことである。

○大橋孫子:道とは、国民が指導者と心を一にし、死生をともにすることをためらわないようにする政治。

○武岡孫子:道とは国民が為政者と同じ心になって、死生をともにして疑わないようにさせる政治のことである。

○フランシス・ワン孫子:主権者と国民との精神的関係によって、国民が恐れ気もなく家庭や職場を投げ打ち、その指導者達と生死を共にするほどに心を一つにしているかどうかを知るのである。

○天野孫子:第一の道とは、国民を君主と一心同体ならしめることである。

○町田孫子:道というのは、人民の心を上に立つ人の心と一つにさせ、生死をともにして疑わないようにさせる政治のことである。

○守屋孫子:「道」とは、国民と君主を一心同体にさせるものである。これがありさえすれば、国民は、いかなる危険も恐れず、君主と生死を共にする。

○著者不明孫子:ここにいう道とは、民衆を上に立つ者と心を一つにさせることである。

○学習研究社孫子:道の作用は、民をして上層部と心や考えを一つにさせることである。

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2012-01-25 (水) | 編集 |
孫子 兵法 大研究!

本文注釈:孫子 兵法 大研究!

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『一に曰く道、二に曰く天、三に曰く地、四に曰く将、五に曰く法。』:本文注釈

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 ここでは、「道」が五事の筆頭に来ていることが注目されるべき点であろう。普通戦争において重要な事と言えば何かと問われた場合、真っ先にまず戦場を思いつき、軍隊に関することが答えとして挙がってくるに違いない。しかし、孫武はまず上下・君民の心を一つにすることだと言っている。ここで私が連想したのは『論語』顔淵篇の「子貢政を問う。子曰く、「食を足らしめ、兵を足らしめ、民をして信あらしめよ。」」の後に続く孔子と子貢の問答である。子貢が、「食糧の充足と軍備の充実、信頼される政治の三つのうち、やむを得ない場合はまず何を省けばよいか」と孔子に問うと、孔子は「食糧である」と答え、そのあとまた、「死は誰も免れることが出来ない生命の理であるが、人民には信頼がなければ国家は成り立たない」と、孔子は子貢に説いた。このことからもわかるように、孫子の言う「道」とは孔子の言う「民の信頼を得ること」と一致する。しかし、民の信頼を得るだけでは、戦争に関わる軍事行為とは直接のつながりがでてこない。ということはつまり、「道」とは戦争に於ける勝敗の前の段階を指していることが分かる。戦争の前段階のことをここで述べているわけだから、当然前の文の「故に之を経するに五を以てし、之を効するに計を以てして、以て其の情を索む。」の文も、戦争の前段階に於いてのことを少なくとも含んでいるということが、同様に分る。又、後に出てくる一般に「七計」と言われる敵味方の能力の比較検討も、主に戦争前に行われておくべきものであることがこの事からわかる。
 では、次は二番目に配置された「天」について考えてみたい。ここで、なぜ二番目に「天」がきているのかという疑問が生じてくる。『孫子』の原典が存在したであろう孫武の時代の後のことであるが、後に『孟子』が世に出てくる。その『孟子』には、「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」とあり、「天地人」のうち、一番大切にすべきものは人であるとして、以降地、天と続く。つまり、『孫子』とは真逆なのである。『孟子』の考えが『孫子』に反映されているとすれば、「道、将、地、天、法」と順番に並んでいたはずである。そうではなく、孫武は「道、天、地、将、法」としている。これは戦の勝敗につながるものは、将の統率よりも、大自然そのものである「天」「地」の方であると考えたと思われる。一番上の「道」だけが別格で、後の四つは同列とみる考えも注釈家によってはあるが、そんなわけはあるまい。ご丁寧に孫武は番号まで振っているのである。つまり、孫武は将の智信仁勇厳の五能よりも、天・地をうまく利用した者が勝つと言いたかったのではなかろうか。これはおそらく、当時において歴史上の戦いを見た時、いくら智能や武力で相手に勝る者も、結局は天の時、地の利を得た者には敵わなかったという事実があったのかもしれない。こう考えれば、五事の「天」「地」が「将」の上にくることも納得できる。
 しかし、これでは前にも述べたが、『孟子』の言っていることとは真逆となる。やはり何かこれだけの理由では釈然としない。古代の思想家たちはお互いの思想を学び合い、或いは影響を受け合いながら、自家の思想を発展させていった。つまり、孔子の思想の流れを汲む『孟子』のいうことと、『孫子』の言っていることは、これまでも見てきたように思想に共通点も多く、あまりそう違わないはずなのである。ではなぜ五能の順番が「道、天、地、将、法」なのか。これは、当時の一般的な考えとして「天地人」と三つ並んでいた場合、「天地人」と順番に並べることが常識であり、当たり前のことであったのではないだろうか。そうであれば、孫子の言う五能も本質的には、「道、将、地、天、法」の順番で大事なものだと考えたに違いないのである。ちなみに、現代においても「天地人」と文字が並んでいた場合、「人地天」とわざわざ並び替えて読むことはしない。当然「天地人」と読む。当然孫武もごく当たり前のことは当たり前に述べたに違いないから、「道、天、地、将、法」という順番になったのであろうと思われる。また、『孫子』は一般の家にも広く普遍した兵法書であるから、暗記する場合も言葉の語呂(流れ)というものも重視されたに違いない。古代の言語の発音においても、人地天と発音するよりは、天地人と発音したほうがきれいに聞こえ、覚えやすかったのではなかろうか。詞の発する音の美しさというものは、他の何物にも勝る甘美なものである。それは暗唱を容易にさせ、長く伝えらることが可能となる。『孫子』が二千五百年の間、数えきれない人々の間で深く愛されたのも、こういった美点があったからこそである。『孫子』は大変語呂がよく、その言葉の調子の良さに一度聞いた者は、決して完全に忘れることはない。例え一時忘れてしまったとしても、心のどこかで言葉が引っかかっており、こちらからヒントを言えばすぐに思い出すことができる。正に魔法のような書物なのである。


道-①通りみち。②すじみち。宇宙を支配する根源的な真理。条理。③神仏の教え。特に、老子・荘子を祖とする教え。④やりかた。専門の技芸・理論。⑤言う。⑥みちびく。⑦〔仏〕衆生が行きつく迷界。⑧地方公共団体の一つ。律令制の行政区画。【解字】形声。「」+音符「首」(=頭)。頭を進行方向に向ける。人の通るみちの意。

天-①地上はるかに高く地球をとりまく空間。そら。地。宗教上、神・精霊などの居所とされる。②万物を支配する神。造化の神。③大自然(の法則)。④天から授かったまま。うまれつき。⑤物の上部。てっぺん。地。⑥最初。はじめ。⑦天子に関する事柄に冠する語。【解字】指事。「大」の字なりに立った人間の頭部を「一」で示し、頭頂の意を表す。転じて、頭上に広がる大空の意となる。


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孫子の兵法:一に曰く道、二に曰く天、三に曰く地、四に曰く将、五に曰く法:一曰道、二曰天、三曰地、四曰将、五曰法:天野鎮雄○天野孫子:道・天・地・将・法-前文で言う五事。以下の文はその説明。

孫子の兵法:一に曰く道、二に曰く天、三に曰く地、四に曰く将、五に曰く法:一曰道、二曰天、三曰地、四曰将、五曰法:佐野寿龍○佐野孫子:【語釈】一曰道-「道」とは大義名分(錦の御旗)の意。ここでは内政の正しい在り方をも含むものと解する。孟子曰く「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」と。
 五曰法-「法」とは軍事制度(体制)と解する。

孫子の兵法:一に曰く道、二に曰く天、三に曰く地、四に曰く将、五に曰く法:一曰道、二曰天、三曰地、四曰将、五曰法:フランシス・ワン仏訳 孫子○フランシス・ワン孫子:一、「道」は、孫子が戦争判断に於ける根本要素とする五事の中でも第一にあげる所であるが、仏訳は、これを、次の四項に於ける孫子自身の説明にそって、「主権者と国民の関係」と解している。
一、「法」も、一般には法制の意と解するが、仏訳は、軍事制度(体制)と明確に解している。

孫子の兵法:一に曰く道、二に曰く天、三に曰く地、四に曰く将、五に曰く法:一曰道、二曰天、三曰地、四曰将、五曰法:山鹿素行:孫子諺義○孫子諺義:五事は孫子兵法の根源といたす處なるがゆゑに、ここに一二三四五と次第をあらはして、五事をのべたり。此の如く次第をいたして用ふべき也。文法一二三と次第してしるすこと、必ず此の如くついでてよきことに之れを用ふ。第一に天と云ふべきを、道を以て第一といたせること、古今の兵法孫子を以て本とし、軍旅の用法皆道義にかなふゆゑんなり。道あらざれば天地を以てすと云ふとも、事の実を得る可からず、義を以て不義を誅し、有道を以て無道を伐つを上兵と云ふ、このゆゑに第一に道と云へり。而して天地はこれに次ぎ、将法は又これにつぐ。天は時也、地はところ也。将は人也。そのつかさどりて事を行ひ下知をいたすものを将と云ふ。法とは兵の作法也。法はのりとよめり、物に定まりて作法のあることを、法と云ひ、のりと云ふも、定めてのっとるべきかたのあること也。兵を用ふるの道に法あり、法をしらずしては無理に其の事をなすことならざる也。たとへば道理を心得たりと云へども、其の作法にくらければわざに通ぜざることあって、其の道明ならざるがごとし。このゆゑに法と云ふものあることをいへり。凡そ天下の大小事成否のかかる處、ことごとく此の五事を出でざる也。孫子は兵法の至極に通ずるを以て、其の説く所ひろく事物におしわたる也。此の五事を詳に心得るときは、兵法の至理[至理-至極もっともな道理。]能く通ずる也。…。

孫子の兵法:一に曰く道、二に曰く天、三に曰く地、四に曰く将、五に曰く法:一曰道、二曰天、三曰地、四曰将、五曰法:荻生徂徠:孫子国字解○孫子国字解:この五つは、即上の文にある五事なり。この道天地将法の五を目録にたてて、是にて敵味方をはかりくらぶることなり。扨この五のひとつひとつのわけは、次の文に委く説けり。

孫子の兵法:一に曰く道、二に曰く天、三に曰く地、四に曰く将、五に曰く法:一曰道、二曰天、三曰地、四曰将、五曰法:吉田松陰:孫子評註○孫子評註:始計の文、假に經傳(聖人の書を經といい、その注釈を伝という。始計篇の文を仮に経文の部分と注釈の部分とに分けて考えてみればということ。)と為して看れば、是れ其の經なり。

『一に曰く道』
孫子の兵法:一に曰く道、二に曰く天、三に曰く地、四に曰く将、五に曰く法:一曰道、二曰天、三曰地、四曰将、五曰法:杜佑:孫子十家註○杜佑:徳化[徳化-徳によって教化すること。また、徳に感化されて善に移ること。]なり。

○張預:恩信[恩信-情け深く誠のあること]して民を使う。

『二に曰く天』
孫子の兵法:一に曰く道、二に曰く天、三に曰く地、四に曰く将、五に曰く法:一曰道、二曰天、三曰地、四曰将、五曰法:杜佑:孫子十家註○杜佑:惠覆[天からの恵で覆われていること。]なり。

○張預:上は天の時に順う。

『三に曰く地』
孫子の兵法:一に曰く道、二に曰く天、三に曰く地、四に曰く将、五に曰く法:一曰道、二曰天、三曰地、四曰将、五曰法:杜佑:孫子十家註○杜佑:慈愛[いつくしみ愛すること。]なり。

○張預:下は地利を知る。

『四に曰く将』
孫子の兵法:一に曰く道、二に曰く天、三に曰く地、四に曰く将、五に曰く法:一曰道、二曰天、三曰地、四曰将、五曰法:杜佑:孫子十家註○杜佑:経略[経略-①はかり治めること。国家を経営統治すること。②天下を経営し、四方を攻めとること。]なり。

○張預:賢に能く委任す。

『五に曰く法』
孫子の兵法:一に曰く道、二に曰く天、三に曰く地、四に曰く将、五に曰く法:一曰道、二曰天、三曰地、四曰将、五曰法:杜佑:孫子十家註○杜佑:制作[制作-定めつくること。かんがえ定めること。]なり。

孫子の兵法:一に曰く道、二に曰く天、三に曰く地、四に曰く将、五に曰く法:一曰道、二曰天、三曰地、四曰将、五曰法:杜牧:孫子十家註○杜牧:此の五事を謂うなり。

○王晳:此の経の五事なり。夫れ兵を用いるの道は人の和を本と為す。天の時は地利を與る。即ち其の助けなり。三者具われば然る後兵を挙げることを議る。兵挙がれば必ず須らく将を能くすべし。将能くすれば然る後法修むる。孫子の次の所とは此れを之謂うなり。[「…とは、これをこれいふなり」…というのは、つまりこのことをいうのである、の意。]

○張預:節制[節制-規律正しく、行動に節度があること。放縦に流れないように欲望を理性によって統御すること。]・厳明[厳明-きびしくて道理に明らかなこと]なり。夫れ将、法と與に五事の末に在るは、凡そ兵を挙げ罪を伐つなればなり。廟堂の上、先ず恩信の厚薄を察し、後に天の時の逆順を度り、次に地形の険易を審らかにし、三者已に孰し、然る後に将を命じて之を征し兵既に境を出づる。則ち法令一なれば将に従う。此れ其の次序なり。


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○ほとんどの孫子注釈書:五つの基本事項の第一は道、第二は天、第三は地、第四は将、第五は法である。

○学習研究社孫子:第一の観点は、君主が道を体得しているかどうかということである。第二の観点は、天、つまり、気候条件や季節の変化が行動に有利かどうかということである。第三の観点は、地の利はどうかということである。第四の観点は、指揮官が優秀であるかどうかということである。第五の観点は、法令が整備されているかどうかということである。

○フランシス・ワン孫子:その要因の第一は主権者と国民の関係であり、第二は天候・気候条件、第三は地理的条件、第四は将帥の能力、第五は軍事制度(体系)である。

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2012-01-25 (水) | 編集 |
孫子 兵法 大研究!

本文注釈:孫子 兵法 大研究!

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『故に之れを経するに五を以てし、之れを効すに計を以てし、以て其の情を索む。』:本文注釈

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現行孫子は「故に之れを経するに五事を以てし、之れを校ぶるに計を以てして、(而)其の情を索む」につくる。桜田本のみ「計」を「七計」につくる。「校之以計、而索其情」の句は、前文と後文の繫がりがおかしくなることや、後にまたこの句が出てくることから衍文説、錯簡説、錯簡衍文説がある。

経-①織物のたていと。②たて。南北の方向。③すじ。すじみち。④(すじが通って)変わらない。一定。つね。⑤儒教・仏教などの不変の道理(を説いた書物)。⑥すじみちをつける。治める。管理する。⑦ヘる。そこを通り過ぎる。時間がたつ。⑧首をくくる。【解字】形声。右半部「」は音符で、織機の台の上に糸を縦にまっすぐに張ったわくを置いた形を描いたもの。「糸」を加えて、織物のたて糸の意。 

経を「はかる」と読む場合、「経度-はかる(度-長さをはかる【解字】形声。音符「庶」(=尺)の略形+「又」(=手)。尺とり虫のように人の手尺で一つ二つとわたして長さをはかる意。)」の意味となる。「おさめる、おさむる」と読む場合、すじみちをつける。治める。管理するの意となる。「けい」と読む場合、経の字の意味の一つ「織物の縦糸」から考えられたもので、「常、常法または箇条目録、大綱」などの意となる。

效-はたらきかける。力をいたす。ききめをあらわす。【解字】形声。「攵」(=むちでうつ)+音符「交」(=知識をさずける)。むちうってならわせる、ならう意。転じて、その結果、ききめの意。「効」は俗字。

校-①(地方の)教育機関。まなびや。②くらべる。考え合わせる。③陣営で将軍の居所にめぐらした木の垣根。転じて、指揮官。【解字】形声。「木」+音符「交」(=まじわる)。木材を交差させた垣根、また、知識の授受が交差して行われる建物の意。

計-①数をかぞえる。数量をはかる(道具)。はかり。②総数。しめて。③みつもる。くわだてる。はかりごと。(限定の意を表す助詞「ばかり」にも当てる。)【解字】会意。「言」+「十」(=集約する)。口でよみあげた数(=言)を集約する意。

索-(糸をたぐるように)手づるを求めてさがす。【解字】会意。「糸」+「?」(=麻の茎から繊維をはぎとる)。一本ずつ離れた繊維の意。転じて、ひも・つなの意。

「経」は経緯、経紀の意で、「秩序立てて統べ治め整える」の意味と、「経度」の意で「はかる」の意味と合わせて理解したほうがよい。「効」は効果、効力の「効」で、「効果的なものとする」の意。この文を意訳すると、「それゆえ、五つの事で自分の陣営側の軍事を治め、敵味方の五つの要素をはかることで、軍事を効果的なものとし勝つための結果をだすには、敵味方のあらゆる情報を集計し、廟算をすることにより、現在の彼我の実情を求めるのである」、となる。また後文で、計算の対象として「七計」を孫子は列挙しているが、孫子はそもそも七つの計と最初に断ってはおらず、「計」としか言っていない(桜田本では「七計」とあるがよくない。)。それゆえ、「七計」は「計」の一例として捉え、それ以外のあらゆることも「計」の対象となりうる、というように解釈すべきである。

『効』は「いたす」と読み、「正しい結果を得る」の意となる。今文孫子の『校』の字の「比較・検討する」の意味とは異なるものである。「七計」の内容が、敵味方の状況の比較検討になっているため、後世の者が文の意をわかりやすくするために改めたものであろう。
言うまでもなく「戦争」の目的は自国にとってよい結果を出すことである。そしてそのために計算をするわけである。比較検討するための計算は、勝算を得るまでの過程である。この点に、竹簡孫子と今文孫子には雲泥の差がある。孫子の本意は『勝利という結果を出すために、計算を以て、戦争における彼我の情実を求める』ということである。よって、今文孫子の『校』の字よりも、はるかに『効』の字のほうが文意として適切であることがわかることと思う。

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○天野孫子:①故-前文と何かの関係があって、それによって後文を引きだす場合に用いる接続詞。一般に前文が原因・理由を示し、後文がその結果・帰結を示す場合が多いが、その他、後文が前文を要約したり、前文から結語を引き出す場合、前文と同意のことを換言して具体的に述べたり、抽象的に論じたり、比喩したりする場合もある。「孫子」の本文には「故」の字がかなり使用され、多くの場合、前文と後文との間に密接な関係がなく、前文中の些細な事に関連して後文が延べられることがある。②経之以五事-「経」はおさめる。「之」は兵を受ける。「詳解」は「之の字は兵を指す」と。ただこの場合「兵」は軍事の意となる。「五事」とは後文に見える道・天・地・将・法。「経之」とは、軍事をでおさめるというから、軍備をなすの意。従って「五事」は軍備の基本的なもの。この句について諸説がある。③校之以計而索其情-「校」はくらべる。「之」は前の五事を受ける。「計」は計算する。…七計とは後文に見える天地法令兵衆士卒賞罰を言う。…「索」は探し求める。「其情」は後文によって知るように、彼我両国の実情。

○金谷孫子:以計-桜田本では「計」の上に「七」の字がある。なお「通典」巻百四十八では、ここの二句を「故経之以五校之計、」と一句にし、岱南閣十家注本(以下岱南閣本という。)はそれを取るがよくない。

○大橋・武岡孫子:経-糸をはって測量すること、調査。 情-実情を確かめる、状況判断。

○武岡孫子:校ぶる-比較検討。

○佐野孫子:【校勘】故経之以五-「十一家註本」、「武経本」には、「五」の字の下に「事」の字があるが、これは後の註者が「七計」と対称させるために補ったものと考えられる。(「桜田本」では「計」の上に「七」の字がある)。前後の文意を通観すると、この「五」は、五つの基本的要素ともいうべきものであるため、「事」の字を補わぬほうが適当である。 【語釈】故経之以五-「経とは経度なり」(杜牧)で、度るの意。戦争に当たっては、先ず彼我の総合戦力の優劣、延いては戦争の帰趨を予測するために、その基本的要素とも言うべき、五つの比較項目を彼我相方に適用し、これを比較考慮することを言う。 校之以計-「校とは校量なり」で、比較・校べるの意。「計」とは、ここでは「計らう(処理、方法)」の意で、五事(彼我の優劣・特質、延いては戦争の性格)をより精察するために、更に具体的且つ明確な比較・計量する方法(七つの比較ポイント、即ち七計)を用い、一つ一つ判定を下していくことを言う。<第四篇 形>に曰く「勝兵はまず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵はまず戦いて而る後に勝を求む」と。

○田所孫子:経之以五事の経とは織物の縦糸の意で、始めから終りまで常に重要なものであるとの意であり、之とは戦争のことであるから、故に戦争をするのには、次の五事を重要なこととして常に守らなければならぬとの意。

○著者不明孫子:経之以五-五事(五つの事項。下文二に具体的に説明がある)について考慮する。「経」は度(はかる)の意(杜牧の説)。経紀・経緯(順序立てる意)と解する説もある(梅堯臣や王晳など)が分かりにくい。 校之以計-七計(下文三に具体的に説明がある)について比較する。「校」は比べる。「計」は計算・勘定。 索其情-「索」は求と同じ意。「情」は感情ではなく、実情・実態。ここでは双方の戦力の実情。

○フランシス・ワン孫子:「経とは経度なり」(杜牧)で、度るの意。「校とは校量なり」で、比較・校べるの意。五事・七計によって戦争の本質(根本的な性格と実態、クラウゼヴィッツのいわゆる戦争の性格と輪郭)を把握するのである。

○佐藤孫子:五事の説明にあたって、先決条件となるのは、「経之」の意味である。王晳の「経は常也。…兵之大経は道天地将法より出でざる耳[ここでいう耳は語勢を強める意。]。」は、最も正鵠を得ている。王晳は「之」を「兵」すなわち「戦争」とし、五事をもって戦争の大経すなわち常法としたのである。山鹿素行の見方も、これと同様であって、後にあらわれる「権」すなわち変法と対比している。…これを要するに、五事は孫子兵法の常経であり、正法である。戦争の勝敗を決する鍵は、結局そこにある。だから、孫子は「経之」といっているわけである。これこそ平時においてなすべき軍備の最重要事であって、「知己」の極致である。孫子がいかに五事の重要性を強調していたかは、「凡そ此の五者は将聞かざること莫し。之を知る者は勝ち、知らざる者は勝たず。」と断じたのに徴してあきらかである。

○学習研究社孫子:経る-調べる。

○孫子新釈:「経」は縦糸といふ意味より転じて、「終始一貫の大綱」といふ意。ここは動詞に用ひられてゐるから、「国家の大綱を定めるには」の意。「之」は、文章の調子の為に附ける意味の助字であるから強ひて訳するに及ばない。然し強ひて之を言へば、文法上では上の「兵」を受けるのであるが、前後の関係で、意味の上から察すると、寧ろ上の「国」を受けると言ったほうがよい。国家を経営する上の大綱を定めるのである。

○孫子諺義:是より始計を論ずる也。故とは、上をうけて下を云ふの言也。経とは経緯の経の字の心あり。又経権の字の心あり。故に常なりと註す。両義ともに用いてよし。いふ心は、五事を以て兵法のたてと致し、これを常法と致すの心也。校は較と同じ、彼此を相たくらべて有余不足を考へ、勝負の実をしる也。索其情の三字、経之以五事、校之以計の九字へかかりたる言也。此の如くして其の実をしると云ふの心也。情はまこと也、此の五事七計にてつまびらかにただし考ふれば、まことの勝敗あらはるる也。然らずして当座の事にて勝敗あるは、実と云ふべからざる也。索は曲求むる也、捜也、手にて物をさぐり求むる也。大方目に見えずして手にものをさぐると云ふに此の字を用ふ、摸索の心也。しかれば、いまだ戦をば成さずと云へども、此の如く詳に考ふるときは、戦を作さず其の事を見ずして、而其のまことのをさぐり知ると云ふの心也。廟堂之上に修めて、千里之外に折衝す。又勝を制するは兩楹(堂上の二本の柱即ち廟堂を云ふ)に在りと云ふ、これ也。此の一篇五事をば直に五事と云ひて、七計をば計とばかりいへり。後世七段あるによって、後人是を七計と云へり。孫子が心は五事は定りて一二三四五と相次第して五つの品なり。計は必ずこれに限らず。此の如く我と彼とをはかるべしと云ふの心にて、計とばかりかけり。…。

○森山定志「孫子管窺」:五事を以て常に内を治む。

○桜田景迪「孫子略解」:経之以五事とは軍をなす上の常法定規とするに五箇条の事を目算(めやす)に立ておく事を云ふ。…七計は五事を以て彼我を計る事なれども、それを詳しく七通りにして、かけくらべる故七計と云ふ。其七箇条の事は下にみえたり。さて五事は彼我の勝負を廟堂の上にかけくらべる時の目算の名なり。七計は算木にて彼我をかけ合せて算木の多少をはかるを云ふ。

○孫子国字解:此段は上の文に不可不察と云へるによりて、その察し様を云へり。故とは上の文を承る詞なり。上の文に云たる如くのわけゆへにと云意なり。経はつねとも讀む機のたて絲のことなり。機の横絲は左右へ移り動けども、たて絲は一定して動かず、絹布の骨になる物なり。このゆへに経之以五事と云は、軍の勝負を察し考る上には五つの事を以て、一定したる箇條目録にして、是にて察し考ると云こと也。この経の字を直解には常と訓するに泥みて、主将たる人の常常守りて軍の本とすることと云へり。道理はさることなれども始計一篇の文勢に暗きなり。一篇に、主意は、この五つに叶ひたる人は勝ち、叶はぬ人は負ると云ふ目録に挙たるなり。扨この五つに叶ひたる人は軍にも勝つなれば、主将たる人のつねづね守るべきことと云ふわけは、おのづから見ゆるを、其意にて経の字の義を説くはあしきなり。又武経大全には経理なりと注してをさむる意にし、黄獻臣は経緯の意と見たるは、何れも的切の注にあらず。用べからず。扨その五事は次の段にあるなり。校とは敵と味方と何れかまさる何れか劣ると、くらべ見ることなり。計とは目算なり。其情とは敵味方の軍情なり。軍情と云は軍に勝べき所、まくべき所の外に見ゆるを軍形と云、形はかたちと讀みて外に見ゆる意なり。勝べきわけ負べきわけの、内にかくれて外へ見えぬ所をさして軍情と云なり。軍理などとも云ふべけれとも、理と云へば理窟になるなり。理はなるほど聞えても合はぬことあるものなり。情は情実とて実に手に取たる如くたしかなる所を云、又人の腹中へたち入て其人情を知る程ならねばならぬわけゆへ、軍情と云ふ詞あるなり。扨この一段の意は、上文にある如く、軍は其家の大事にて多くの人の生死家の存亡のかかる所なれば、勝負の境を察し考へずして叶はぬわけゆへに、其察し考る仕様は次の段にある五事を箇條目録にして、我目算を以て敵味方をはかりくらべて、敵味方何れか勝べき何れか負べきと云ふ軍情を尋ねもとむべきことなりと云ふ意なり。尋ね覔ると云は、失ひて叶はぬ物を失ひて一大事と尋ね覔る如く、此軍情を尋ね覔めて必ず得べきことなり。

○吉田松陰「孫子評註」:「故に之れ(戦争を検討するときの根本的要件として次の五事を考察するの意。)を經するに五事を以てし、」-是れ計の本なり、計には非ず。  
「之れを校するに計を以てし、而して其の情(敵味方いずれが勝ちいずれが負けるかという軍情をたずねもとめる。)を索む。」-便に隨ひて先づ此の句を挟みて下段の張本(後述する文のもととなる事柄。)と為す。計(後出の主・将・天地・法令・兵衆・士卒・賞罰の七計をさす。前の「之れを經するに五事を以てし」の形にならって「之れを校するに七計を以てし」としなかったのを「文も又変化あり」と評したのである。)に七と言はずして而して其の情を索むの四字を加ふ。文も亦變化あり。

○賈林:彼我の計謀を校量し、両軍の情実を捜索すれば則長短知る可くして勝負見れ易し。

○張預:経は経緯[経緯-秩序を立てて治めととのえること。]なり。上は先ず五事の次序[次序-順序づけること。]を経緯し、下は乃ち五事を用い、以て彼我の優劣を校計し勝負の情状を探索す。

○曹公:下の五事、彼我の情を謂う。

○杜牧:経とは経度なり。五とは即ち下の所謂五事なり。校とは校量なり。計とは即ち篇首の計算なり。索とは捜索なり。情とは彼我の情なり。此の言、先ず須らく(須らく~すべし。「…することが大切である。」)五事の優劣を経度し(経度ははかる。)、次に復計算の得失を校量すべし。然る後始めて彼我勝負の情状を捜索す可し。

○王晳:経は常なり。又経緯なり。計とは下の七計を謂う。索は盡く[みなのこらず、すべて、全部。ここでは、索(求)めるものは彼我の実情のすべてである、の意。]なり。兵の大経は道・天・地・将・法より出でざるのみ[のみは語勢を強める意。ここでは出ることは絶対ない、の意。]。就而、之を校べ七計を以て然る後に能く彼己の勝負の情状を盡(尽)くす。[尽くす-ありったけを出し切るの意。ここでは勝負の行く末の予想をことごとくおこなっていくの意。]

○李筌:下の五事を謂うなり。校量なり。計は遠近を量りて、物情を求め、以て敵に應ず。

○梅堯臣:五事を経紀[経紀-のり。みち。綱紀。また、のりを定め法を立てること。ここでは統べ治めるの意。]し、利を計りて校定す[校定-書物の字句などを比較して定めること。ここでは彼我の実情を比較し断定することの意。]


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○浅野孫子:そこで、死生の地や存亡の道を事前に謀り考えるために、五つの基本事項を適用し、さらに死生の地や存亡の道を明確に策定するため、彼我の優劣を具体的に計量する基準を当てはめる方法によって、双方の実情を探るのである。

○金谷孫子:それゆえ、五つの事がらではかり考え、(七つの)目算で比べあわせて、その場の実情を求めるのである。

○大橋孫子:すなわち五つの条件ではかり、七つの条件で比較検討して、状況を判断する。

○武岡孫子:それには彼我の五つの根本要素に照らして、戦争の利害得失を判断し、後に列挙する七項目で現状を比較検討せよ。そうすればその戦争の本質を理解することができる。

○守屋孫子:それには、まず五つの基本問題をもって戦力を検討し、ついで、七つの基本条件をあてはめて彼我の優劣を判断する。

○天野孫子:そこで平生軍備をなすのに次の五つの事を基本としている。そしていよいよ彼我両国の軍備を比較する時には、その優劣の数を計算して、彼我両国の実情を求め知るのである。

○重沢孫子:まず五つの事項を軸に問題を整理し、さらに(七つの)計を尺度にして、勝敗を左右する双方の実情を探求します。

○学習研究社孫子:そこで、五つの観点から調査を行い、それらについての敵と我との比較によって力量の程度を量り、敵と我との実情を割りだすのである。

○フランシス・ワン孫子:彼我の五つの根本要素に照らして、戦争の価値判断(損得判断)をなし、後に列記する彼我の七つの要素を比較せよ。そうすれば、その戦争の本質(根本的な性格と実態)が理解できるであろう。

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2012-01-25 (水) | 編集 |
孫子 兵法 大研究!

本文注釈:孫子 兵法 大研究!

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『死生の地、存亡の道、察せざる可からざるなり。』:本文注釈

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「死生の地」は、戦争により兵士の生き死にが決まる場の事を言っている。「存亡の道」は、在るか亡いかであるから、国家のことを言っている。「察せざるべからざる也」は、孫子のお決まりのフレーズで、何回も使いまわされている言葉であり、孫子の口癖ではないかとも言われている。「察せざるべからず」は、深く知らないということがあってはならない、という意味だから、これを知らなければ話しにもならない、ということであろう。「兵は国の大事なり。死生の地・存亡の道」の文は、それだけ特に孫子が強調したい言葉であったことがわかる。恐らく、当時戦争を起す際、勝つための算を充分に立てるというようなことはあまり行われず、一時の流れや、君主の怒りの感情によって突発的に戦争を起すことが、常態化していたのではないだろうか。もちろん、一方ではきちんと勝算を立ててから戦争を起す君主もいたであろうが、この文は明らかに、これから君主になるであろう呉王闔閭に向けたもので、「戦争は民(兵士)の生死・国家の存亡に関わるものであるから、決して軽々しく起すものではなく、又勝算を得ることなく、勝つための方法を知らずして戦争を起してはならない」と、強く注意を促した言葉であろう。逆に、闔閭がこの言葉を軽んじていたならば、孫武は呉を去っていたであろうから、孫武が呉に残り将軍となったということは、闔閭は孫武のこの意見を呑んだということであろう。そればかりか、全面的に信頼しなければ将軍とはなれなかったはずであるから、孫武の仕官の計は大成功を収めた、ということであろう。これは、呉王闔閭がどういう人物であったかを事前に調査していなければできないことであろうから、何らかの協力者がいたに違いない。
孫武が呉王闔閭に初会見したときの宮廷の女達を兵士に見立てたときのエピソードは有名なものであるが、何と言ってもクライマックスは、呉王の寵姫二名を斬った場面であろう。呉王が斬らないでくれといっているのに、王命に逆らって、しかも呉王の寵姫を斬るということは、仕官前の者という立場などを考えても、常人ではできぬことである。それだけ軍の規律というものは絶対であるということを、呉王にも他の周りの者たちにも知らしめたかったということであろうが、この時の呉王の様子と、孫武のセリフを『史記』から読み取り、推測してみると、呉王は軍の規律がどれだけ重要であるかはわかっていたようであるが、本当に寵姫を斬られるとは思っていなかったため、深く落ち込んでいたようである。そして、その後孫武が「王様は兵法はお好きのようだが、上っ面だけのようだな」、と呉王をバカにしたようなことを言っているが、これは大変危険な事である。結果としては、呉王はこの言も許容し、孫武を将軍に任命したわけである。闔閭は、この孫武の挑発ともいえる発言も、寵姫二人を斬られたことも許したわけであるが、これは呉を一大強国にしたいという大きな理想があったからのことであろう。この行動や発言から見るに、孫武は異端の人のようにみえなくもない。時代が戦争に明け暮れていることが常態化した異常な狂った世の中であるから、これを治めるには常軌を逸した人物でなければ治まらないと、呉王闔閭は考えたに違いない。部下として見たとき、孫武はある意味呉王闔閭の理想の人物であったことだろう。
その後の孫武のことを考えれば、この仕官時の孫武の言動は、すべて計算づくのことであったであろうことが窺われる。というのは、孫武は『李衛公問対』によると、張良・范蠡と同じく、後に国の要職から、すんなりと静かに引退したことが知られている。名誉も地位も平気でドブに捨てれるような智者でなければ、こうはできない。余談であるが、孫武が呉を去った理由を考えてみよう。闔閭の死後、息子の夫差が王となったが、夫差はご存知越の王、勾践と共に「臥薪嘗胆」の故事で知られ、後に覇王となる人物である。その部下であり、闔閭の時代では孫武と共に重臣であった伍子胥がいるが、伍子胥は最初夫差のもとで大きく取り立てられていたが、最後は夫差に誅殺されてしまうことになる。このことからもわかるように、孫武は夫差の性格を、あらかじめ間諜の報告やまわりの評判、直に対面したときの様子・印象からもある程度(というか相当)把握していたはずであるから、夫差が王となる時、自分の行く末についても予想できたはずである。つまり、私の予想では、闔閭が死に、夫差が王となると決まった時に、新しく王に決まった夫差に対して失礼とならないよう、老齢を理由に国政から外してもらう、又は病を装うなどの、呉から出る策を考案済みだったに違いない。又々私の予想だが、恐らく孫武が呉を出る際、夫差や周りの者には故郷に帰ると告げたにちがいあるまい。それは呉ではないことは確かである(孫武は夫差は呉の国を滅ぼすと思っていたに違いないから)。ではどこかというと、それは「斉」である。『史記』をみると、孫武の出身地は「斉」であるといっていることから(呉越春秋では「呉」の人となっているから本当はどちらかわからないが)おそらくそうであろう。だが、本当に孫武一向が斉に向かったかどうかは分からないが、「斉」に向かうと周りの者に告げたことは間違いないと思う。その際、孫武は夫差に、自分は無価値な人間であることをアピールしなければ、出向かう先の斉をいずれ強国にしてしまう可能性があるとして、夫差に殺されてしまう可能性があることも考えたに違いない。
そして、このための用心も当然したことであろうと思われる。又、一方で夫差に対して自分は信頼のおける人物であるということもアピールしたであろうと考えられる。なにしろ孫武は、父闔閭の時代の重臣であり、名将の名をほしいままにした者である。夫差は当然このことを知っていたから、自分に対して実力者である孫武が盾突かないかどうかというのは、孫武を免職し、出国を許す際の重要なポイントとなったにちがいない。そして、孫武は夫差の信頼を勝ち得、次代の人間として夫差にとっては必要ない人物であると判断されたことで、孫武は命を長らえたということであろうと思う。このように推測されることから、やはり孫武は並々ならぬ智謀の人であったということが言えるであろう。

死生-し‐せい【死生】死と生。いきしに。しょうじ。 し‐しょう【死生】‥シヤウ 死と生。生死。しせい。

存亡-そん‐ぼう【存亡】‥バウ 存在することと滅亡すること。のこるかほろびるか。

察-①あきらかに(する)。くわしく知る。細かにしらべる。②おしはかる。思いやる。【解字】形声。「宀」(=いえ)+音符「祭」(=神に供える肉を十分に清める)。家の中を十分に清める意。転じて、曇りなく清らか、はっきりする、の意。


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孫子の兵法:死生の地、存亡の道、察せざる可からざるなり:死生之地、存亡之道、不可不察也:佐野寿龍○佐野寿龍「戦わずして勝つ 孫子兵法 その科学的体系と思想を講む」:不可不察也-「察」は研究。ここでは「真摯(まじめでひたむきなこと)に考察しなければならない」の意。

○著者不明孫子:「死生之地」-人々の生死が決定する場。 「存亡之道」-国家の存続または滅亡に通ずる道。

孫子の兵法:死生の地、存亡の道、察せざる可からざるなり:死生之地、存亡之道、不可不察也:金谷治○金谷孫子:察也-桜田本では「察焉」。[この「焉」は語勢を強めるもので読まない。]

孫子の兵法:死生の地、存亡の道、察せざる可からざるなり:死生之地、存亡之道、不可不察也:天野鎮雄○天野孫子:「地」は草木発生の地で、ここでは死生を生ぜしめる地の意。「道」はここでは存への道を亡への道とのわかれ道の意。この句は兵を地・道に即して比喩したもので、戦争は死生・存亡を左右するの意。死生は国民について、存亡は国家について言う。…「地」「道」については諸説ある。「察」はあきらかにする、つまびらかに知る。

孫子の兵法:死生の地、存亡の道、察せざる可からざるなり:死生之地、存亡之道、不可不察也:田所義行○田所孫子:死生之地とは、人間が生きるか死ぬかの境地との意。存亡之道とは、一国の亡びるか栄えるかの分れ道との意。

孫子の兵法:死生の地、存亡の道、察せざる可からざるなり:死生之地、存亡之道、不可不察也:荻生徂徠:孫子国字解○孫子国字解:死生之地と云は、地は場所なり。軍は場所を大切なりとす。死する場あり生る場あるゆへ死生の地と云なり。存亡之道とは存は家のたつことなり。亡はほろぶるなり。道とは軍に勝て家のたつ道と負て家の亡る道とあることを云なり。不可不察也とは明かに察し知らずしてはならぬ事なりと云意なり。されば死生之地存亡之道不可不察也とは、兵は国の大事にて多くの人の生死も家の存亡も軍の勝負によることなれば、かやうなるを軍に勝て生べき地とし、かやうなるを軍に負けて死すべき地とす。かやうにするは軍にかちて家の存する道なり。かやうにするは軍にまけて家の亡る道なりと云ことを察し知らずして叶はぬことなりと云意なり。かやうに説出して勝負の知りやうを下の文に説きたるなり。…。

孫子の兵法:死生の地、存亡の道、察せざる可からざるなり:死生之地、存亡之道、不可不察也:山鹿素行:孫子諺義○孫子諺義:死生之地、存亡之道とは、兵の用法当たらざれば、人民これに死し、ついで其の国亡ぶ。用法その理にあたるときは、人民命を全くして国興る。これ兵の大事なるゆゑなり。死生には地と云ひ、存亡には道と云ふ。地はところと云ふの儀なり。死生する處と云ふ心と見る可し。道は存亡のよる處と云ふ心也。地の字、道の字、深く心をつくるところにあらず。諸説多しといへども、甚だ鑿して之を用ひざるなり。…察はふかく考ふる心也。孫子の内處々に察の字あり、心をつけて其の内外始終をよく考ふるを察と云ふ也。視観察(事物を精詳に視観察するを云ふ)の察の字の心也。…今案ずるに、死生之地を存亡之道の先にいへることは、兵事は戦也。戦は民人士卒の生死よりおこりて、つひには国家存亡のもとたり。これ自然に先後あるゆゑんなり。凡そ文道は祀を大事とし、武義は兵事を大事とす。武文と相対すること、地の天に対し陰の陽に対するがごとし。文にくらぶれば武はたけくいさみて、物をそこなふ處あり。このゆゑに老子云はく、兵は凶器也と。荘子云はく、末徳也と。范蠡云はく、勇は逆徳也、争は事之末也と。孔明は云はく、兵は凶器、将は凶任也といへり。しかれども、一日も武を忘るれば忽ち其の患有り。春夏に秋冬の相つくがごとし。天地の理皆此の如し。武義の品(種類)兵事を用ふるを以て大事とす。兵を用ふることは已むを得ざるのことわりより出でたり。三略に云はく、聖人(王)之兵を用ふること之れを樂むに非ず(也)。将に以て暴を誅し亂を討たんとする也。夫れ兵は不祥之器なり。天道之れを惡む。已むを得ずして之れを用ふと。是れ天道といへり。然れば兵を大事也と論ずること尤もそのゆゑあり。後世の学者古来聖賢の道を詳らかにせずして、兵法を疎にする事、甚だあやまれり。

○平山兵原「孫子折衷」:今、兵師を以て国政中の最大事と為すは何ぞや。蓋し民の死生、国の存亡、皆兵に之れ由るを以ての故なり。

○劉寅「七書直解」:死生は戦陳を以て言ふ。故に地と曰ひ、存亡は得失を以て言ふ。故に道と曰ふと。

孫子の兵法:死生の地、存亡の道、察せざる可からざるなり:死生之地、存亡之道、不可不察也:太公望呂尚:六韜○六韜:太公曰く、兵者国之大事、存亡之道なり、命は将に在りと、孫子は此の段之語意を力むる也。

○鄭友賢「孫子遺説」:或ひと問ふ、死生之地は、何を以て存亡之道に先なるか。曰はく武(孫武子)の意は兵事之大は将其の人を得るに在り、将能ならば則兵勝ちて生く、兵外に生くれば則国内に存す、将不能なれば則兵敗れて死す、兵外に死すれば則国内に亡ぶ、是れ外之生死は内之存亡に繫るを以て也。是の故に兵長平(戦国時代趙の邑(くに、むら)なり。秦の白起大いに趙括の軍を敗り降卒四十萬人を坑にせし處なり。)に敗れて趙亡び、師遼水(隋の煬帝高麗を攻む。遼河に於て大敗す。隋の衰運はこれより始まると云ふなり)に喪ひて隋滅ぶ。

孫子の兵法:死生の地、存亡の道、察せざる可からざるなり:死生之地、存亡之道、不可不察也:太公望呂尚:六韜○六韜:太公曰く、知略大謀無く彊勇輕戦せば、軍を敗り、衆を散じ以て社稷(昔の中国で、建国のとき、天子・諸侯が壇を設けて祭った土地の神(社)と五穀の神(稷)。国家。朝廷。)を危くす。王者慎みて将為ら使むる勿れ。此れ其の先後之次也。故に曰く、兵を知る之将は生民之司命、国家安危之主也と。

○宋の施子美「七書講義」:兵に勝負あれば則民に死生あり、兵に当否あれば則国に存亡あり。死生は民に係る。故に地を以て言ふ。存亡は国に係る。故に道を以て言ふ。

○張預:民の死生、此に兆せば、則国の存亡彼に見はる。然れども死生に地と曰ひ、存亡に道と曰ふは、死生は勝負の地に在りて、存亡は得失の道に繫るを以てなり。重ねて愼みて審らかに察せざるを得んや。[重ねて慎みて審らかに察しないでいられようか、察せざるにいられるわけはない。]

○李筌:兵は凶器なり。死生・存亡は此に繫がるなり。是を以て之れ重し。人軽く行うことを恐るる也。

孫子の兵法:死生の地、存亡の道、察せざる可からざるなり:死生之地、存亡之道、不可不察也:杜牧:孫子十家註○杜牧:国之存亡は人之死生は皆兵に由る。故に須からく審らかに察すべし(審らかに察することが大切である(必要である))

○賈林:地も猶所なり。亦師が陣し、旅が振う戦陳の地を謂う。其の利を得れば則生き、其の便を失わば則死す。故に死生之地と曰う。道とは、權機に立ちて勝の道なり[権→支配する力。物事を処置する威力]。之を得れば則存す。之を失わば則亡ぶ。故に察せざるべからざるなり。書に曰く、存する道有りとは、輔[力を添えてたすける。解字:形声。「車」+音符「甫」(=ぴったりくっつく)。車を補強するそえ木の意。]にして之を固め、亡ぶ道有りとは推[解字形声。「手」+音符「隹」(=ずしりと重みをかける)。圧力を加えておし出す意。]して之を亡ぼす。

孫子の兵法:死生の地、存亡の道、察せざる可からざるなり:死生之地、存亡之道、不可不察也:梅堯臣:梅聖兪:孫子十家註○梅聖兪:地は死生の勢有り。戦は存亡の道有り。

○王晳:兵擧がれば則死生存亡之に繫がる。


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○金谷孫子:(国民の)死活がきまるところで、(国家の)存亡のわかれ道であるから、よくよく熟慮せねばならぬ。

○天野孫子:国民の生死を決めるものであり、国家の存亡を左右するものである。この事は慎重に考察しなければならない。

○浅野孫子:軍の死生を分ける戦場や、国家の存亡を分ける進路の選択は、慎重に明察しなければならない。

○フランシス・ワン孫子:戦争は、国民にとって生死が決せられる所であり、国家にとっては、存続するか滅亡するかの岐れ道である。我々は徹底的に研究する必要がある。

○守屋孫子:国民の生死、国家の存亡がかかっている。それゆえ、細心な検討を加えなければならない。

○大橋孫子:国の死活に関し、国家の存亡に関する。よくよく考えねばならない。

○重沢孫子:個個の人間にとっては、それが死か生かの分れる場であり、国にとっては、存立か滅亡かの分れる道程といえるからに外なりません。これほど深刻で決定的な重みをもつ以上、戦争は人間としても国家としても、軽軽しく踏みこむべき性質のものではない。国をあげての頭脳を動員した上で、あらゆる主観的・客観的条件を、洗いざらい慎重に検討する作業からまず着手しなければならない。

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2012-01-25 (水) | 編集 |
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『孫子曰く、兵は国の大事なり。』:本文注釈 picture widgets

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 冒頭の言葉というのは、どのような書物においても特に重要な意味を持つ。例えば、『論語』の冒頭の言葉の、「子曰く、学びて時に之れを習う。亦説ばしからずや…。」は「小論語」と呼ばれているそうだが、『孫子』の「兵は国の大事なり」は、それこそ「小孫子」と呼ばれるに相応しい一文であろう。この一文のなかに、孫武の戦争に対する考え方・姿勢がすべて表れている。
 古来から伝統的にこの「兵は国の大事なり」と用間篇の最後の、「此れ兵の要にして三軍の恃みて動く所なり」の文とは、一気通貫した戦争に対する厳とした思想のつながりがあり、始まりと締めの言葉として相応しいものであるという高評化が与えられていたが、1972年、山東省の銀雀山漢墓において、『竹簡孫子』が見つかり、そこには火攻篇が最後の篇として記録に残っていたことから、火攻篇の最後の言葉の、「此れ国を安んじ軍を全うするの道なり」が、『孫子』の最後を括るにやはり相応しい言葉であるとの説を採る者が多くなった。ちなみに、私は最初に『孫子』を読んだ時、最終篇の用間篇の終りの「此れ兵の要にして三軍の恃みて動く所なり」まで読み終わってから、何か歯切れの悪さを感じ、名言が並ぶ『孫子』の言葉の取りを飾る言葉としては、なにかどこかに違和感を感じていた。その時ふと気にかかり火攻篇の最後の文である「此れ国を安んじ軍を全うするの道なり」を改めて読み返した時、あれ?こっちの言葉の方が孫子の最後を締めくくるにはやっぱり相応しい言葉だな、と思ったものである。だからこの『竹簡孫子』で、火攻篇が最終篇であるという記録を確認できたとき、内心鬼の首でも取ったかのように嬉しかった。やはり自分の感覚は大事にしていかなくてはならないな、と再認識もできた。よって私は、用間篇ではなく火攻篇の最後の言葉こそが、この「兵は国の大事なり」と一貫した綱領の言葉であると今でも思っている。
 戦争にとってより重要なことは、火攻めよりもスパイの方であることは、疑う余地もあるまいと思う。よって古来の注釈家も用間が最終篇に相応しいとしたこともよくわかる。が、しかしおそらくはどの注釈家も感じてはいたが、火攻篇を最終篇として置くことができなかったのは、魏の武帝曹操注の『魏武帝註孫子』によるものが大きいことは間違いない。『魏武帝註孫子』は、『孫子』注において最古のものである。伝統ある『孫子』の注釈作業において、篇の位置を変更するということは常識としてやってはならないことである。又、最古の資料であり、なおかつ相当程度信用に足る人物である曹操が残した資料ということで、一級の価値があったことも、火攻篇を最後の篇とできなかった理由の一つであろう。これだけでも『竹簡孫子』の発見は、学界の常識を覆すに十分なものであった。
 「兵は国の大事なり」は、軽々に戦争を起してはならないと君主を戒めた言葉であろう。当時、将は戦争を起す権限はもっていないことからも、君主を対象にした言葉であることは間違いない。戦争を軽々しく起してはならない理由は、戦争には莫大な費用や人的な労費がかかるからである。そのことは作戦篇に詳しい。巧遅よりも拙速を善しとした言葉もこの事から生まれている。又、「遠い所に輸送をしても輸送先には二十分の一しか届かず、民の貯蓄も6・7割を失うことになる」と言っている作戦篇の記述は、戦争という非常時の一大事性を物語っている。それだけ当時は戦争と言うと国家の一大事であり、故に他国がどんなに挑発してこようと、軽々と戦争は起こすべきではないとし、孫武自身も殊に肝に銘じていたことだろう。そして、歴史を振り返ってみると、この「兵は国の大事なり」の文を読んで学んだと思われ、一時の感情に流されることなく、戦争を興すことに慎重に振る舞った君主は、実際存在していた。この「兵は国の大事なり」の一文で、無益な戦争を回避でき、人民の命や生活、財産が守られたという事実があったということは、これは賞賛すべき素晴らしいことである。また、『孫子』は兵法書であるが、その範疇を越えた書物であるという評価が一方で与えられている。『孫子』の言葉は真理をよくとらえており、ゴロも良く、抽象的な言葉が多いがゆえに、多くの分野において現在も広く活用され、人々に愛されている。
 孫武は、この「兵は国の大事」であることを「察せざるべからず」と言っている。つまり、かなり強調しているのである。戦争は兵士や人民の生死が関わったものであり、国の存亡にも大きな影響を与えるものであるから、人民の死や国の滅亡につながるものを軽々しく決めるべきではないことを、この「兵は国の大事なり」の言葉によって、国の指導者はよくよく玩味すべきである。この真理は、太古の昔から変わることなく、今にも通じ、これからも続く永遠の真理であろう。科学も文化も一切の智恵も、人無くしては生まれず、社会的な秩序なくては日々の生活にも困窮することになるのである。「兵は国の大事なり」の文から、本当に戦争は必要なのか、勝算は十分にあっても、利に合わないのではないだろうかなどと熟考してみて、必要はない、又は割に合った利(国益)は生じない、と計算した結果思ったならば、戦争を回避するという選択肢を採るということも考えてみるべきである。『孫子の兵法』が戦争嫌いの書と言われる所以がここにある。

兵-①つわもの。武器をとって戦う者。軍隊。(軍隊では最下位の階級をいう。)②武器。③いくさ。戦争。【解字】会意。「斤」(=おの)+「廾」(=両手でささげる形)。両手で持つ手おのの意から、武器を表す。

国-①政権の支配下にある土地。②領土・人民・主権をもつ政治社会。③地方官・諸侯が治める土地。④自分のくに(の)。特に、日本(の)。【解字】会意。「囗」(=かこい)+「或」(=ほこで守る土地)。境界でくぎられた領土の意。[圀]は異体字。「圀」は、唐の則天武后が「國」字の「或」が「惑」を連想させるのを嫌ってこの字体を作る。「国」は俗字。

大事-だい‐じ【大事】①重大な事件。普通でない事。非常の事。②(一大事の略)出家して悟りを開くこと。③容易でない事。危うい事。④かけがえのないものとして大切に扱うべきさま。⑤重要。肝要。



「竹簡孫子」「桜田本」には、「大事」の下に「也」の字があるが、「十一家註本」、「武経本」にはない。





孫子の兵法:孫子曰く、兵は国の大事なり:孫子曰、兵者国之大事也:金谷治○金谷孫子:大事-桜田本には、この下に「也」の字がある。

○著者不明孫子:兵-戦争・軍事。ほかに、武器・兵士・軍隊などの意味がある。

孫子の兵法:孫子曰く、兵は国の大事なり:孫子曰、兵者国之大事也:佐藤堅司:孫子の思想史的研究○佐藤孫子:「兵」は戦争を意味する。

孫子の兵法:孫子曰く、兵は国の大事なり:孫子曰、兵者国之大事也:天野鎮雄○天野孫子:「兵」には戦争・(局地的)戦闘・兵器・軍隊・兵士・軍事・計謀などの意味がある。ここでは戦争の意。…「国」は春秋時代の諸侯の国の意。ここではそれに拘泥しないで広く国家の意に解する。…「事」はできごと。「大事」は大事件。

孫子の兵法:孫子曰く、兵は国の大事なり:孫子曰、兵者国之大事也:田所義行○田所孫子:兵者、国之大事とは、戦争は国家の重大事であるとの意。兵とは兵士・軍隊・武器等の意味があるが、ここでは戦争の意。

孫子の兵法:孫子曰く、兵は国の大事なり:孫子曰、兵者国之大事也:重沢俊郎○重沢孫子:兵-原義は木材を荒削りする刃物。それがまず武器→武器を使って仕事をする人→その組織集団→そういう集団の行動すなわち戦争、という方向へ転伸し、原義は殆んど消滅。

孫子の兵法:孫子曰く、兵は国の大事なり:孫子曰、兵者国之大事也:大橋武夫○大橋孫子:兵-軍隊、ここでは軍隊を用いること、すなわち戦争。

孫子の兵法:孫子曰く、兵は国の大事なり:孫子曰、兵者国之大事也:北条氏長:士鑑用法○北条氏長「士鑑用法」:兵と云は士をさして云。

孫子の兵法:孫子曰く、兵は国の大事なり:孫子曰、兵者国之大事也:山鹿素行:孫子句読○山鹿素行「孫子句読」(明暦二年 1656年):孫子所謂兵者士也。

孫子の兵法:孫子曰く、兵は国の大事なり:孫子曰、兵者国之大事也:山鹿素行:孫子諺義○山鹿素行「孫子諺義」(寛文十三年 1673年):ここにては軍旅の事をさして兵と云也。…大事とは、国家にかかることを大事と云へり。…大事と云ふときは、国家人民の事にかからざれば、いはざる言也。

孫子の兵法:孫子曰く、兵は国の大事なり:孫子曰、兵者国之大事也:荻生徂徠:孫子国字解○荻生徂徠「孫子國字解」:此本文にては兵革などと云やうなる詞にて軍のことを兵と云。…国とは國郡の国には非ず、国家と云と同じ様なる詞にて諸侯の家を云なり。大夫の上にては家と云ひ、諸侯の上にては国と云、君の身の上より家来民百姓までをも籠めて云詞なり。されば兵者国之大事とは、軍と云ものは諸侯の身の上にては是に過たる大きなることはなしと云意なり。ひと軍にても物入夥しく、民の愁も甚しきこと、外のことには、かやうなる類またもなく、多くの人の生死、国の立つも亡るも軍の勝負にかかることなればかく云へり。

○徳田邕興「孫子事活鈔」:兵は剣戟武器の総名にて、これを交へ戦ふ軍戦を云ふなり。

孫子の兵法:孫子曰く、兵は国の大事なり:孫子曰、兵者国之大事也:吉田松陰:孫子評註○吉田松陰「孫子評註」:「兵(いくさ。戦争。)は国の大事、死生の地、存亡の道なり。察せざるべからず。」  開口の一語、十三篇を冒ひて餘りあり。先師(山鹿素行のこと)曾て「千載(千載は千年。永久にかわることのない格言。)不易の格言」を以て之れを評せり。旨い哉。兵は是れ軍旅の事[軍旅とは軍隊。軍勢。戦争。いくさ。]。死生存亡は乃ち大事たる所以の故なり。諸説多くは然り、異説を須(もち)ふることなかれ。地は是れ在る所、道は是れ由る所、察の字は虚(虚は実に対していう。いかに察するかの内容はまだ示していないので「虚に」と言う。)に下の經(後述)・校・佐の三字を掲げたり。全篇の骨子、此の字に在り。

○桜田景迪「孫子略解」:国は諸侯の上にて云ふなれども、専ら言ふなれば天下と云ふも同じなり。

孫子の兵法:孫子曰く、兵は国の大事なり:孫子曰、兵者国之大事也:杜牧:孫子十家註○杜牧:傳に曰く、国の大事は、祀りて戎を與ることに在り。[戎とは兵士。軍隊。いくさ。]

○張預:国の安危は兵に在り。故に武を講じ、兵を練る。実に先ず務むるなり。


意訳


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○ほとんどの孫子注釈書:戦争とは、国家の重大事である。

○浅野孫子:軍事とは、国家の命運を決する重大事である。

○フランシス・ワン孫子:戦争とは、国家にとって回避することのできない重要な問題である。

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2012-01-25 (水) | 編集 |
孫子 兵法 大研究!

本文注釈:孫子 兵法 大研究!

篇名『計』:本文注釈 picture widgets

「武経七書」・「平津館本『魏武注孫子』」では「始計第一」とある。「宋本十一家註孫子」では「計」とある。「古文孫子」では「計篇第一」とある。「竹簡孫子」は篇名が欠けているため不明であるが、「宋本十一家註孫子」とほかの篇名がほぼ一致することから「計」であると考えられる。

孫子の兵法:計:始計:浅野裕一○浅野裕一「孫子」:開戦前に自国と敵国の状況を比較し、いずれに勝算があるかを計謀すべきことの重要性を説く。

孫子の兵法:計:始計:佐藤堅司:孫子の思想史的研究○佐藤堅司「孫子の思想史的研究」:祖廟の前で五事・七計・詭道を計量し、勝敗の数を算定すること。

孫子の兵法:計:始計:天野鎮雄○天野鎮雄「孫子」:本篇は、この彼我両国の軍備の優劣の数を計算するというその計算から、計篇の篇名が生じたものである。始はいまだ戦わざる前という意味である。  「孫子・呉子」:開戦の前に自国と敵国の状況を、冷静的確に比較判断し、どちらに勝算があるかを検討すべきことを述べる

○学習研究社「孫子」:戦争を計算的なものとし、状況の優劣を冷静に計算すること。

孫子の兵法:計:始計:フランシス・ワン仏訳 孫子○フランシス・ワン仏訳「孫子」:戦争に於ける諸要素を事前に算定・評価し、未だ戦わざるにまず勝つ道を求めること。

孫子の兵法:計:始計:大橋武夫○大橋武夫「兵法孫子」:始めに考えを練ること。状況判断。

孫子の兵法:計:始計:田所義行○田所義行「孫子」:始計とは、計画をはじめること。ここでは戦争するについて、あらゆる計画を始めるとの意。

孫子の兵法:計:始計:金谷治○金谷治「孫子」:「計」とは、はかり考える意味。開戦の前によく熟慮すべきことを述べる。

孫子の兵法:計:始計:武岡淳彦:新釈孫子○武岡淳彦「新釈孫子」:計とは、はかり考えることである。何を計り考えるのか。それはこの戦争を行った場合、勝つか負けるかの予想である。

孫子の兵法:計:始計:重沢俊郎○重沢俊郎「孫子の兵法」:彼我の総合的戦力をあらゆる角度から徹底かつ精密に分析・計量した上で、勝敗についての責任ある見通しを立て、同時に作戦計画上の重要事項を決定すること。

孫子の兵法:計:始計:守屋洋○守屋洋「孫子の兵法」:事前に的確な見通しをたてて取り掛かること。

○「孫子」著者不明:はかる。計謀・計算両様の意味を含む。戦争の開始に先立って、比べ、数え、考え、調べる。

孫子の兵法:計:始計:吉田松陰:孫子評註○吉田松陰「孫子評註」:始計は未だ戦わずして廟算(朝廷で作戦計画をたてる。)するなり。「之れ(戦争を諸要件(後出の主・将・天地・法令・兵衆・士卒・賞罰など七つのこと)の計算によって検討する。)を校するに計を以てす」とは即ち其の事なり。前人多く謂ふ、「古書の篇目は率(おおむ)ね後人の定むる所に係る」と。今其の信(まこと)に然るを覺ゆ。而して其の名づくる所以は、或は徒だ篇首の數字を摘み、或は明かに篇中の要言を取り、或は暗に篇中の意を含む。此の篇(『古文孫子』では篇名が単に「計」となっている。)本(も)と唯だ計篇にして、是れ明かに取れるものなり。又始の字を加へたるは、是暗に未だ戦はざるの意を含む、語孟(『論語』『孟子』の篇名は、学而篇あるいは梁恵王篇のように、篇首の字の二、三を取り出してつけたものである。)の篇目と異なり。

孫子の兵法:計:始計:荻生徂徠:孫子国字解○荻生徂徠「孫子国字解」:始ははじめなり。計ははかりごとなり。はかりごとを始めとすと讀むなり。文字の意を知らぬものは、はかりごとと云へば、はや人をたばかりいつはることと心得るは僻事なり。兵は詭道なれば、人をたばかるも計の内の一つなるべけれども、計の字の意は、ものをつもりはかり目算をすることなり。此始計の篇は、總じて軍をせんと思はば、まづ敵と味方をはかりくらべて、軍に勝べきか勝ましきかと云ことを、とくと目算して見て、果して勝べき圖をきはめて軍をすべきことを云へり。孫子一部は専ら合戰の道をば説かず。かやうに前方に目算をせず了簡を究めずして合戰に勝つと云ことはなきわけなるゆへ、此篇を孫子の開巻第一義とするなり。第一とは次第の一と云ふ意にて、孫子十三篇の最初なればかく云へり。…。

孫子の兵法:計:始計:山鹿素行:孫子諺義○山鹿素行「孫子諺義」:此の篇を始計と云ふことは、発端にしるす處のごとく、軍旅の事は死生存亡のかかる大事なるがゆゑに、起こさざるの以前に詳にはかり考へよと云へる義を以て、始にはかると云ふ篇を、十三篇の巻頭にしるせる也。始は、はじめとよめり。始と云ふ時は終る心をふくむ。始において終を考ふる心あり。計は謀と云ふ字と同意也。しかれども計會計算の字義ありて、彼此をよく考へはかるの心あり。しかれば此の計の字は、唯だはかりごととばかり見る可からず、敵味方の様を詳に合せかんがふるの心なり。此の篇にも之れを校ふるに計を以てすと出でたり。校も計も彼我をあはせて、その有餘不足をかんがへ、足らざる所をあらため調ふるの心なり。故に計は謀の字義とは少し心得かはるといへる也。此の篇の始謀と言わずして始計と云ふこと、尤も孫子が兵法の心得也。古来兵を用ふるものは、敎閲治兵と號して四時の獵漁に必ず兵をならはすことあり、武を講ずと云ふ是れ也。始計と云ふとは、其の心かはれり。敎閲はかねて兵法をならはし置くのこと也。此の篇は兵を用ふるの大概大要をつづめて此の篇とす。このゆゑに始計は兵法の再閲重習など云ふ心に相かなへり。

○伊藤鳳山「孫子詳解」:始計第一  始計は篇の名なり。作戦謀攻の類皆同じ。始とは先なり。國語の晋語一に曰く、安に始めて而して可なると。韋注に曰く、計は算なり、と是なり。始計とは、師を興し衆を動かすの初め、先ず七計を用い、而して五事得失の多寡を算し、我を審にし彼を知り以て豫め勝負の實を決するを謂うなり。管子の參患篇に曰く、計必ず先ず定まって而して後、兵 境を出ず。計未だ定まらずして、而して兵 境を出ずるときは則ち戦いの自ら敗れ、攻の自ら毀る者なり、と。孫子の此の篇蓋し此の意に本づく。覇兵の法は管仲を最大と為す。故に孫子の兵法多く、管子に依る学者宜しく參攷(参考)すべし。第とは順序を紀するの目。一とは數を擧ぐるの首なり。

○恩田仰岳「孫子纂注」:計は算なり。出師の初、先づ彼我の優劣を計算し、必勝を料りて而る後に動く。

孫子の兵法:計:始計:曹操孟徳:魏武帝註孫子:孫子十家註○曹公(曹操):計とは、将を選び、敵を量り、地を度り、卒を料り、遠近険易を廟堂に於いて計るなり。

孫子の兵法:計:始計:杜牧:孫子十家註○杜牧:計は算なり。曰く、算は何れの事か計る。曰く、下の五事は所謂、道・天・地・将・法なり。廟堂の上に於いて、先ず彼我の五事を以て算し、優劣を計り、然る後に勝負定む。勝負既に定むれば、然る後に師を興し、衆を動かす。兵を用いるの道は、此の五事より先は莫し。故に著し篇首と為すのみ。

○王皙:計とは、主将・天地・法令・兵衆・士卒・賞罰を計ることを謂うなり。

○張預:管子曰く、計とは先ず内に於いて定め、而る後に兵を境に出す。故に兵を用いるの道は計を以て首と為すなり。或ひと曰く、兵は敵に臨みて宜しきを制するを貴ぶ。曹公、廟堂に於いて計るを謂うのは何ぞや。曰く、将の賢愚、敵の強弱、地の遠近、兵の衆寡なり。安くんぞ先ず及びて之を計らざるを得んや。両軍相臨み、變に動き相應ずれば、則、将の裁く所在り。以て隃度る可きに非ずなり。

○李筌:計とは、兵の上なり。太乙・遁甲とは、先ず計り、神を以て徳を宮に加え、以て主客を成敗し斷ず。故に孫子、兵を論じ亦計を以て篇首と為す。


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2012-01-25 (水) | 編集 |
孫子 兵法 大研究!

孫子の兵法とは?:孫子 兵法 大研究!

孫子の兵法とは? picture widgets

○孫子兵法の別名は『孫子兵経』、『SUNTZU』、『The Art of WAR』等様々。ナポレオンや毛沢東も愛読していた。注釈者には曹操、杜牧、山鹿素行、荻生徂徠、新井白石、吉田松陰、等の有名人も多い。

○「孫子」十三篇は、春秋末に呉王闔廬に仕えた兵法家の孫武の書き記した兵法書。

○現在、中国よりも日本人に愛好者が多い。

○甲斐武田氏が孫子兵法の軍争篇の一節を軍旗に掲げた。

○徳川幕府が「孫子」以下の武経七書を官版として刊行し、諸大名に配布した。

○日本では江戸時代の儒学者たちを始め、明治以降も多くの注釈を生み出してきた。

○「荀子」議兵篇に「孫・呉も之れを用いて、天下に敵無し」と見える。

○「尉繚子」将理篇をはじめ、戦国から秦・漢にかけての文献にしばしば文章が引用されている。

○「韓非子」五蠹篇に「孫・呉の書を蔵する者は、家ごとに之れ有り」と見え、戦国後期には天下中に流布していた。

○「史記」孫子呉起列伝に「世俗の師旅(軍事)を称する所のものは、皆な、孫子十三篇を道う」とある。

○現存する最古の注は「三国志」の英雄・魏の武帝、曹操のもの。

○唐の時代でも詩人として有名な杜牧をはじめ、注釈を施す者は増加傾向にあった。

○宋の時代では「孫子」は「呉子」「司馬法」「尉繚子」「李衛公問対」「三略」「六韜」などの兵書とともに「武経七書」と称せられる。

○「孫子」の注釈書として優れている古本としては「十家注(魏武帝、梁の孟氏、唐の李筌、杜牧、陳皡、賈林、宋の梅堯臣(梅聖兪)、王晳、何延錫、張預の十人の解釈と、唐の杜牧の祖父杜佑の著書である「通典」に見える評釈を引用したもの。)」「七書直解(劉寅)」「孫子諺義(山鹿素行)」「孫子国字解(荻生徂徠)」「孫子評註(吉田松陰)」「孫子新釈(藤塚鄰・森西洲)」「孫子の思想史的研究(佐藤堅司)」等がある。

○我が国に初めて「孫子」を伝えたのは吉備真備である。「続日本紀」に、吉備真備に諸葛亮の八陳・孫子の九地・結営の向背を習わしめられたとある。

○西洋の兵書で「孫子」に匹敵するものは、カール・ボン・クラウゼビッツの「戦争論」のみとされているが、著名な軍事評論家のリデル・ハートは「孫子」の方を高く評価している。

○仙台藩士桜田景迪がその家に古くから伝わっていた写本を校正し、訓点を施して嘉永5年に出版したもので「古文孫子」がある。「古文孫子」は「武経」系統に属する。桜田景迪は三国以前の書であるといっており、安積艮斎も今本に優れていて、魏武以前の書であるといっている。

○「魏武帝註孫子」から派生したものを一括して「現行孫子」という。

○現在は「宋刊十一家註孫子」と「宋刊武経七書・孫子」の二つの系統に大別される。

○1972年中国山東省臨沂県銀雀山から竹簡の残片が出土し、孫子兵法の一部もみつかった。「竹簡孫子」と言われている。現在ある孫子兵法の中では、一番原典に近いとされ、古ければ戦国末期に作成されたものと推定される。

○後漢の歴史家班固により著された前漢の通史「漢書」に、図書目録「漢書」芸文志があり、これに「呉孫子兵法八十二篇」、「斉孫子兵法八十九篇」とある。

○孫子兵法は十三篇で成り立っている。竹簡孫子によると(一部篇目名欠損)、内訳は「計」「作戦」「謀攻」「勢」「形」「九変」「軍争」「実虚」「行軍」「地形」「九地」「用間」「火攻(篇目を記した木牘には「火陳」と推定される文字がみえる)」となっており、順番もこの通りである。

○現行孫子の篇目の順番は「用間」が最後で、「火攻」が十二番目になっており、また篇目名とその篇目の順番も竹簡孫子とは若干違っている。

○大江匡房が源義家に兵法を伝授し、義家が清原武衡の籠る金沢城(秋田県横手市)を攻略する際、道の途中で雁の列が乱れて飛んでいくのを見て、孫子兵法の行軍篇の「鳥起つは、伏なり。」を応用し、敵の伏兵を撃破した。

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